第13話 自分の立場

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第13話 自分の立場

「母上、どこに行くのですか?」 幼な子の声が響いた。目の前には勝山髷に結った女がいる。 「…桔梗丸…」 女は白くて透き通った手で頬をなでた。そしてそのまま風に乗って舞う粉雪のようにどこかへいってしまった。 「母上ー!」 悲痛にも似た叫びが出た。するとそれと同時に 「全部、お前のせいだ…」 それは憎しみのこもったどす黒い声であった… 「全部お前のせいだ…母上も…蘭丸も…お前のせいで…」 よく見たら…その声の主はこちらを睨みつけこの世の全てを嫌い憎んでいる自分自身だった… 「若様!」 梨姫の声で鶴長は目を覚ました。起きあがった鶴長は自分の体が汗でびっしょりであることに気がついた。汗のせいで寝巻きが肌にはりついている。 「大丈夫ですか?かなりうなされていたけど…」 梨姫は鶴長の顔をのぞきこんでいた。 (どうして、こんな夢を…どうして今さら…) 鶴長はどこか困惑しているような何か恐ろしいものに出会ってしまったときのような青ざめた顔をしていて梨姫は鶴長の体調が良くないのではと心配になった。 「大丈夫ですか?もしかして熱でもあるんじゃ…」 梨姫は手を伸ばして鶴長に触れようとした。 バシッ そんな梨姫の手を鶴長は振り払った。 「…」 鶴長はそのまま暗い顔をしながらうつむいた。梨姫は振り払われた手をもう片方の手でさすった。叩かれたところは大して痛くなかったが、心はとても痛くて苦しかった。 (やっと仲良くなれたと思ったのに…) 急に様子がおかしくなった鶴長に梨姫はどう対応していいかわからず梨姫はそのままその場にかたまってしまった。 一方で鶴長は手で頭をおさえた。 (自分はあのとき全てが憎かった。この世にある景色、人、あらゆるものが憎くて憎くて今すぐにでも壊したかった…この気持ちだけは何があっても忘れてはいけないのだ…) 鶴長はギリっと歯ぎしりをたてて敷布を握りしめた。  夜が明け、1日が始まっても梨姫の気持ちは悶々としていた。 (昨夜は初めて若様とゆっくり話せたのに、夜中に目を覚ましたときの若様は…) 普段無口で落ち着いている鶴長の取り乱した姿を目にするのは初めてであった。だからこそ昨晩の鶴長の姿は何か普通のことではないように思われた。 (そういえば若様、蘭丸殿の話をしたらなぜかとてもうれしそうにしてて…あのときもなんだか変だった…) 今まで蘭丸には何か事情があるのではないかと疑っていたが、もしかすると鶴長にも何かあるのではないか。梨姫はそう思った。  あれから何度も愛姫と蘭丸のところを訪ねていたが、蘭丸が喋ったのはあの池での一件きりだった。 「どうかしたのか?今日は元気がないように見えるが…」 昨夜の一件が原因で暗い様子をみせる梨姫に愛姫がそう聞いた。 「いえ…別に…」 梨姫は愛姫の隣にいる蘭丸をチラッと見た。蘭丸は相変わらず整った顔立ちで特に表情を変えないまま黙って座っていた。 (鶴長様のことはともかく、今日もまた蘭丸殿とは話せないまま…結局何も進展してない…) 梨姫はぼんやりとした様子で蘭丸を見つめた。すると蘭丸はその視線に気づいたのか、2人の目がぱちっと合った。蘭丸と目が合ったのはこれが初めてというわけではなくもう何度も合ったことがあるが、その度に梨姫は胸がそわそわし始めてどうしていいかわからなくなった。しかし結局今回は蘭丸の方が先に目をそらしたので梨姫は特に何もできないまま終わった。 (…そういえば、あのとき初めて蘭丸殿の声を聞いたけど、蘭丸殿って普通に話せるのね。いつも全然話さないし、体も弱いって聞いたからてっきり話ができない人だと思っていたけど…) 梨姫はふと思った。あのときの喋り口調から見て彼は何の異常もないまともな人にみえた。いや、たとえ体が弱くても一体何の理由があってここにいる人達は彼の存在を隠すような真似をしたのだろう…どうして鶴長は急に彼のことを聞いてきたのだろう… 梨姫はますます蘭丸のことが気になって気になってしょうがなかった。 「ニャア〜」 聞こえた猫の声の大きさからして、おそらくすぐ近くであろう。 「随分大きな声だな。少し様子を見てくるか」 愛姫はそう言うと立ち上がって侍女と一緒に部屋を出て行った。すると今度は梨姫と蘭丸が部屋で2人っきりになった。 (え!もしかして2人っきり⁉︎うわ、一体どうすれば) 蘭丸と2人きり…そう思うと梨姫の体はガチカチになり体全身がソワソワして落ち着かなかった。 (猫は近くで鳴いていたから、もしかしたら愛姫様はすぐに戻ってくるかもしれない…こんな機会滅多にないから何か声をかけないと…でも、何を話せば…) 梨姫の頭の中は真っ白になり一つ一つのほんのわずかな時の流れがとても長く感じた。 「ら、蘭丸殿!最近、体調はど、どうですか!」 蘭丸といえば病弱!体調のことを気にするのが自然だと思った梨姫は緊張のあまり片言な言葉で蘭丸に話しかけた。 「…」 蘭丸はいつも通り下を向き何も答えなかった。 「遠慮なく申してくださいね。あなた様は私の大事な家族なのだから」 梨姫はどうせ相手が話さないのならばと思うと先ほどの緊張から嘘のように吹っ切れた。すると妙に積極的になる自分がいた。一歩一歩座り立ちをしながら梨姫は蘭丸に近づいた。そのとき着ていた打掛が床に当たり、それを引きずる音がなった。 「蘭丸殿…」 梨姫は、蘭丸の前に来ると蘭丸の手を取った。なぜそのようなことをしたのかははっきり言ってわからない。自由のない鳥籠のような生活の中で梨姫が見つけた安息。そんな自らの癒しと2人きりになった今、梨姫はどうしても彼に近づきたかった。 「前に私が池に落ちそうになったとき、あなたは助けてくれましたね。私、とても嬉しくて」 すると蘭丸は突然「ゲホゲホ…」と咳き込み始め、握られていない方の手で胸を押さえた。 「蘭丸殿!どうしたのですか?」 蘭丸の体調が悪くなったと思った梨姫は咳き込む蘭丸の背中をさすった。 「今すぐお休みになりますか?」 するとぐいっと握っていた方の手が引っ張られた。梨姫は何が起きたかわからず、気づいたら蘭丸の顔が目の前にあり、距離がかなり近くなっていた。 「ちょ、ちょっと!」 不意の出来事に梨姫は戸惑った。至近距離にあるのは蘭丸の綺麗な顔。蘭丸は近くで見てもとても美しかった。絹糸のようにきめ細かく透き通るような色白の肌、切長で黒曜石のように真っ黒で光沢のある瞳、顔のつくりは完璧でどの角度から見ても欠点はなかった。そんな美男子が互いの胸の音が聞こえそうなくらい近くにいるものだから梨姫は緊張しすぎて胸が爆発しそうだった。 「ら、蘭丸殿!」 梨姫は戸惑いながらも必死で声を出し、蘭丸から逃れようと握られた方の腕に力を入れたそのときだった。 「…本当に私を案じているのならここにはもう来るな。」 彼はあの蓮の花が鮮やかに咲いていた日と同じ、低い落ち着いた声で確かにそう言ったのだ。 「え?」 あっという間の出来事だったので梨姫は聞き返そうとした。 「まぁ!どうしたのだ?」 ちょうどそのとき猫を抱いた愛姫が戻ってきた。愛姫が戻ってきた瞬間、蘭丸は握っていた手を離した。そして梨姫もすぐに蘭丸から離れた。 「ち、違うのです!ちょっと転びそうになって」 「ゲホ…ゲホ…」 蘭丸はまた胸を押さえて咳き込みだした。 「蘭丸!大事ないか?」 愛姫は急いで蘭丸のそばに駆け寄り背中をさすった。 「今日はもう休んだ方が良いな…」 愛姫はそう呟くと蘭丸を支えながら蘭丸と共に立ち上がった。 「すまない。今日はここまでじゃ」 愛姫は梨姫にそう告げると蘭丸と一緒に去っていった。  梨姫はしばらく呆然としていた。 「…本当に私を案じているのならここにはもう来るな。」 彼の声を聞いたのはこれで2度目だ。 (どうして蘭丸殿はあのようなことを…) すると部屋の外から女中の話し声が聞こえてきた。 「梨姫様ったら今日も訪ねてきたの?」 「えぇ。そうみたいよ」 「やっぱり梨姫様は蘭丸様がお好きなんだわ」 「えぇ。絶対そうよね。だって屋敷中の噂だもの。」 そんな女中達のヒソヒソ話を聞いて梨姫は悲しくなった。 (みんな、そういう目で見ていたのね…) 先ほど蘭丸が梨姫にもう来るなと言ったのはきっと蘭丸なりに梨姫の身の上を心配していたからなのだ… (私は純粋な気持ちで蘭丸殿を想っていても周りはそうは見てくれない…) 梨姫はそのとき初めて自分自身の立場というものを理解した。そしてそのとき嫁いでから滅多に思い出すことのなかった姉の最期の姿が記憶の中に巻き戻ってきた。 「お前さえいなければ良かったのだ!お前さえいなければ!そしたら私も幸せになれた!お前のせいだ!私ではなくお前が病になって死んでしまえば良かったんだ!」 あぁ…姉ならきっとこんな軽率な振る舞いなどしなかったはずだ… (自分もあの人も籠の中の鳥…自由に飛び回ることは許されずにただただ死ぬまで人々の前に晒されているだけ…) そして今度は別れたときに言われた実母の言葉を思い出した。 「梨姫、私達女子に自分の道を決める自由はありません。されど、己の道を信じることはできます。」 「いいですか?絶対に道を引き返してはいけませんよ。どんなに辛くとも前へ前へと進むのです。」 運命が定められた私達、女子は己の道を信じて進むことしかできない… 「もう何も考えずに無邪気に生きることはできないのですね…母上…」 そのとき庭の止まり木に羽を休めていた燕が西に少し傾いている日の光に向かってゆっくり飛んでいった。そんな自由に翼を広げる鳥を梨姫は姿が見えなくなるまで黙って見つめていた。
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