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第16話 蓮の花
鶴長と蘭丸には何かある…梨姫はたしかにそう確信した。
(鶴長様、蘭丸殿、ごめんなさい。でも私はどうしてもあなた達の抱えている何かを取り除いてあげたいの…)
梨姫はそう思いながら真実をつきとめようとした。
「姫様…」
朝顔は梨姫に頭を下げた。
「朝顔、お前は知っているのか?若様と蘭丸殿に何があったか…」
「…いえ」
朝顔は気まずそうに顔を背けた。
「…ずっと疑問に思っていた。いくら病弱とはいえどうして蘭丸殿はあの年で元服もせずにここにいるの?それに他家で生まれた男子ならいくら蘭丸殿の父上が亡くなって愛姫様が家を出されても、その家にいるのが普通であろう?」
「…」
「…前に若様の母上で前の奥方様は離縁させられたと聞いた。…それはどうしてなのだ?」
「…それは…」
「お願いだ!朝顔!本当のことを教えてほしい!お二人とも私にとっては大事な家族なのだ!お二人のこと、この家のことを知る権利は私にもあるはずだ!」
梨姫は懸命な態度で朝顔に懇願した。すると今まで複雑そうな表情をしながら黙っていた朝顔が口を開いた。
「…わかりました。そこまで言うなら話しましょう…。」
朝顔は大きく息を吸うと淡々とした口調で話し始めた。
「…先代のお殿様には愛姫様を含めて10人以上のお子様がいらっしゃいましたが、皆お体が弱く無事に成長したのは愛姫様だけでした。そこで先のお殿様は縁者であった今のお殿様、徹長様を養子に迎入れました。そのとき既に徹長様には奥方様、つまり先の奥方様がいらっしゃって、奥方様のお腹にはお子様、つまり若様がいらっしゃいました。一方、愛姫様はちょうどその頃豊前の大名である奥林(おくばやし)様の家へ嫁いでいきました。そしてお殿様のところでは鶴長様、つまり桔梗丸(鶴長の幼名)様が、愛姫様のところでは蘭丸様が生まれました。おわかりのことであるとは思いますが、愛姫様は先のお殿様の実の娘。つまり直系にあたります。それは蘭丸様も同じこと。蘭丸様は先のお殿様の嫡孫にあたるわけです。そうなると当然、蘭丸様の方が桔梗丸様より後継者に相応しいという意見がでてきました。」
「…ま、まさか」
「はい。結果的に蘭丸様は徹長様の後を継ぐ者、つまり徹長様の養子としてこの家に迎入れられました。」
「…なるほど。その後、何か問題が起こったのね…」
「…実は藩は先代のお殿様の代まで財政難に苦しんでいました。もちろんその原因は悪天候による不作や物価の変動など様々なものがありましたが、それらの問題を解決したのは新しく藩主になられた徹長様でした。そのため皆、徹長様を賢君として慕いました。…今思うと、それがお二人にとっては良くないことだったのかもしれません。蘭丸様と桔梗丸様が成長するとお二人の性格に違いが見られるようになりました。腕白で元気な蘭丸様に大人しいけれど賢く勉強熱心な桔梗丸様。それはただ単にお二人の性格の違いに見えるけれども、徹長様の治世が藩を立て直したこともあって『蘭丸様より徹長様の血筋である桔梗丸様の方が後継者に相応しい』という声が上がるようになりました。そこで藩は蘭丸様を藩主に据えて血筋を大切にしようとする保守派と桔梗丸様を藩主に据えて徹長様の血統に藩政を委ねる革新派に分かれました。今にして思えばとても馬鹿な話だとは思います。まだ幼いお二人のちょっとした性格の違いでこんな醜い争いを繰り広げるなんて…」
朝顔の目は悲しい目へと変わった。
「革新派は蘭丸様のあることないことを徹長様に吹き込みました。例えば、蘭丸様は乱暴者だとか、勉学をさぼってばかりいるとか…。もちろん、お殿様はそんな話をまともに聞こうとはしませんでした。しかし、事態はだんだんより大きいものとなっていったのです。後継者争いに乗じて先のお殿様までの治世に不満を抱いていた下級武士達が革新派に加わったのです。各地で蘭丸様を廃して桔梗丸様を次期藩主に据えようとする抗議の声が上がりました。そして焦った保守派はよりによって当時の奥方様、つまり桔梗丸様のお母上にあたる仲姫様に怒りの矛先を向けたのです。仲姫様のご実家である嶋田藩は代々朝鮮と外交をしていました。仲姫様のお父上である柳睦成(やなぎむつなり)様は蘭学に精通し、異国に関する知識もありました。そこを保守派は利用したのです。」
「利用したって?」
「当時、異国船が我が国に侵入してきたり近海で目撃されたりと幕府は異国船に対して警戒心を持つようになりました。そのため保守派は異国船を警戒し鎖国を続ける幕府を批判した文を偽造し、柳様がそれを書いたと嘘の証言をしたのです。」
「…なんとむごい」
「朝鮮と外交を行い、異国の事情も理解し賢く聡明な柳様ならそんな考えを幕府に抱いていても誰もおかしいとは思わないでしょう。結果的に柳様は捕らえられ仲姫様は離縁させられました。離縁させられた仲姫様は心労が重なったせいでもともと病気がちだった体がますます悪化し、ご実家に戻られてすぐに亡くなられました。」
梨姫は驚きのあまり、口に手を当てた。
(そんな…じゃあ、あの人は幼くして母上を…)
「果たして幕府を批判した文が本当に柳様が書いたものなのか、取調べは長く続きました…しかし、結局、柳様は無実で、文は保守派が偽造したものであると証明されました。」
「…じゃあ、つまり革新派が勝利したのね」
「はい。事件に関わった保守派の方々は次々と処罰され、革新派が勝利しました。しかし、それは同時に桔梗丸様と蘭丸様の心に大きな傷を残しました。」
そのとき庭に咲いていた蓮の花がそっと静かに閉じていった。
「蘭丸様は…お体が弱いと言われていますが、本当はお体が弱いわけではありません。…お心が枯れかかっているのです。」
「…お心が…」
「…あの一件以来、蘭丸様も桔梗丸様もお心を閉ざすようになりました。特に蘭丸様はあんなにお元気で明るい方だったのにすっかり変わってしまわれて…誰とも話そうとしないし、関わろうともしない。目もどんどん冷たくなって…まるで廃人のようになってしまわれて…」
そう言って朝顔は自分の着物の袖を目頭にもっていった。
「…結局、蘭丸様はそのような状態になったことでとても家業は継げそうにないと判断されました。それで蘭丸様に代わって桔梗丸様が後継ぎとなりました。」
「…でも、若様だって変わってしまわれたのでしょう?」
「…はい。蘭丸様ほどではないとはいえ、若様もすっかり人柄が変わってしまい人に笑顔を向けることはなくなりました。」
「…その権力争いからもう何年たったの?」
「もう8年たちます…」
もう8年もたったのに…鶴長様も蘭丸殿も…
その夜、梨姫は眠れなかった。その夜は一人きりだったので障子を背にしてただ黙って座っていた。
(この家にそのような悲しいことがあったなんて…私、何も知らなかった。蘭丸殿のことも…若様のことも…)
真実を知った梨姫は蘭丸や鶴長のことを思うと胸がいっぱいいっぱいになった。すると少しだけ開いた障子の向こうから人の気配がした。はっきりと人影が見えたわけではないが、なんとなくそこに人がいるように感じる。
「…誰?そこに誰かいるの?」
梨姫は向こうにいるであろう人影に聞こえるほどの小声で言った。
(見張りの侍女か?でも見張りの侍女はあちらの襖の向こうにいるし…)
じゃあ、誰だろうと思い、梨姫が思い切って障子を開けようとしたとき向こうの人影が障子の隙間から手を差し出してきた。
「え…」
それは白くて大きな手だった。梨姫はその手に見覚えがあった。
「…蘭丸殿…」
愛しい人との思わぬ巡り合わせに梨姫は肝をつぶした。
「…これを…」
よく見ると手には文のようなものが握られていた。
「…これは…」
不思議に思いながら梨姫はそれを受け取った。
「もう二度はありません…」
あの蓮の花畑で聞いた落ち着いた低い声がそう言った。そして気づけば蘭丸の気配はなくなっていた。梨姫は文を広げた。しかし、辺りが暗くて何も見えなかった。梨姫は室内にあった明かりのついている行灯のところまで持っていった。すると紙には鮮やかな牡丹色で彩色された水面に浮かぶ蓮の絵が描いてあった。
「…まぁ、なんてきれいな絵…」
そして紙の脇には小さく蘭の絵が描いてあった。
「蘭丸殿は私のためにこれを…」
どうして蘭丸はこんなものを渡してきたのだろう。夜に人目を忍んできたのはなぜだろうか。梨姫は必死に考えた。そしてあの蓮の花畑での出来事を思い出した。あの日、蘭丸のために池に咲いていた蓮を取ろうとした。すると池に落ちそうになってそこを蘭丸に救われた。
「花をむやみに取るでない。彼らは水の上でないと生きていけないのだから」
(そう、確かにあの方は先ほどと少しも変わらないあの落ち着いた声でそう言った。もしかしてあの方もあのときのことを思い出してこの花を描いてくれたのか…私が必死に取ろうとした蓮の花を…)
そう思うと梨姫の胸は弾んだ。蘭丸への想いは叶わなくても想うことは許されなくてもこの胸の中にあの方との思い出だけは誰にも見つからないように大切にしまってあるのだ。
しかし、このときの梨姫は気づいていなかった。蘭丸との別れが近づいていることに…
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