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第8話 金崎藩
この時代、参勤交代で藩主の妻子は江戸の藩邸に住むことが義務づけられていた。ただし正室や嫡男は強制的に江戸に住むことになっていたが、側室や嫡男以外の子供は義務ではなかったので葵山家の場合は嫡男以外の子供達や側室達はみんな国元に住んでいた。しかし、これから梨姫が嫁ぐ相手である鶴長は嫡男で江戸にいるのでこれから梨姫は江戸に住むことになるのである。国元である桜春藩を一度も出たことのない梨姫にとってはこれから住む江戸は未知の土地であった。梨姫一行は桜春藩を出て数日でようやく江戸城下に到着した。梨姫は輿からこっそりと江戸の町を見た。花嫁を乗せた一行に対してすれ違う江戸の民衆はもう武家の行列など見慣れているからなのか梨姫達一行を見ても民衆は特に驚いた様子など見せずに平然と日常生活を送っていた。江戸の町は自然豊かな桜春藩とは違って家家が立ち並び開けた所だった。
(これが江戸…)
思い起こせば梨姫は城の裏にあった裏山で遊んだことはあっても城下町に行ったことは一度もなかった。よってこれが梨姫にとっては初めて見る民が住む町であった。
そのうち輿は武家屋敷が立ち並ぶ通りに出て、その中の1つである大きな屋敷の中に入っていった。やがて輿から降りるよう言われたので梨姫は輿の外に出た。そこは金崎藩邸の奥の中で梨姫の周りには今まで梨姫に同行してきた女中達、そして金崎藩邸に仕える女中達と女ばかりがたくさんいた。
「梨姫様、お初にお目にかかります。これから梨姫様の身の回りのお世話をさせていただく朝顔と申します。」
そう梨姫に挨拶したのは中年の上品そうな女だった。
(これからはこの人が私のそばにいるのね。)
梨姫はそう思いながら朝顔と名乗る侍女頭を見た。
(全然笑わないし、なんだか怖そうな人…)
「では、姫様こちらに」
そう朝顔に促されて梨姫は自分の部屋へと案内された。
「朝顔。鶴長様とはいつ会えるのだ?」
自分の部屋へ向かう途中で梨姫は朝顔に聞いた。
「また日を改めてお殿様に挨拶に行く予定ですので、そのときになれば会えると思います」
朝顔は淡々とした感じで答えた。
「ねぇ、鶴長様ってどんな感じの方なのだ?」
梨姫は朝顔に聞いた。
「…こちらです」
朝顔は梨姫の問いには答えずに梨姫の部屋に着くと上座に座るよう梨姫に促し梨姫は上座に座った。部屋は嫡男の正室ということで葵山家にいたときに使っていた部屋よりも広かった。部屋に置いてある調度品はそれは見事なものばかりでどれも新品で艶があり高級そうな物ばかりであった。
「ところで今から何をするのだ?」
梨姫はやることが終わって退屈だとばかりに朝顔に聞いた。
「…一つよろしいですか?」
朝顔は静かに切り出した。
「何だ?」
「姫様は少々おしゃべりが過ぎるように感じます。武家の正室たる者、必要最低限の会話はしないことが基本です。先ほどのように廊下を歩きながら会話するなど言語道断ですし、ましてや若様はどんな方だなどと聞くのははっきり言って失礼なことです。」
朝顔は鋭い目を光らせながらはっきりとした口調でそう言った。
「そ、それはすまなかった…」
「婚礼の日まであと半月ほどあります。その間、姫様には奥方様として相応しい礼儀と作法を学んでもらいます。」
「そんな!礼儀作法なら我が家で散々勉強してきたのに…」
嫁ぎ先にきてもなお礼儀作法の勉強をする事実に梨姫は驚いた。
「勉強不足には問題があっても勉強のし過ぎに問題はございません。」
朝顔は淡々とした口調でそう言った。
それからというもの梨姫の花嫁修行が始まった。
「音を立てて歩いてはなりません!」
「座るときはもっと静かに!」
朝顔は礼儀作法に関してはかなり厳しく梨姫は怒られっぱなしだった。
(はぁーあ、なかなかきつい…)
日々の勉強に嫌気がさした梨姫はそう思いながら縁側に座った。
(桜春の地に帰りたい…父上、姉上様方、兄上様方…それに母上…お麻様…)
梨姫は故郷を懐かしんだ。春になれば花の精が集まってきたかのように咲く見事な桜、家族みんなで遊んだ裏山…四季折々の様々な姿を見せる桜春の自然…どれもが梨姫にとって恋しいものであった。梨姫がそのように思っていたときだった。向こう側の縁側に1人の少年が出てきた。向こう側といっても大きい屋敷なので梨姫の座っている縁側からはやや距離はあったが相手の顔ははっきりと見えた。そこにいた少年はこの世のものとは思えないほどの美男子だった。雪のような透き通る白い肌につり目で凛々しい目、顔はまるで美しい工芸品のようにつくりが整っていてどの面を切りとっても絵画になる顔であった。そう、その美しい姿はまるで四季の流れに誘われてヒラヒラとやってきた渡り蝶のような…
梨姫は少年の顔にみとれてしまい、目が離せなかった。すると少年もまた梨姫の存在に気づいたのか2人の目があった…
すると少年の後ろから女中らしき女がやってきて少年に何かをささやいた。梨姫には何と言っているかわからなかったが、少年は女中と一緒に縁側から去っていった。梨姫は少年が去った後もしばらくぼうっとしていた。
(あれは誰だったの?年は私と変わらないように見えたけど…でも奥にいるってことはお殿様の家族ってこと?じゃあ、あれが鶴長様…?)
そう思ったら梨姫の心は明るくなった。
(えぇ、そうよ。あれは鶴長様よ!だって鶴長様は賢くて美しい方だって聞いてたし…あぁ、あんなにきれいな方の妻になれるなんて…)
不思議と梨姫の心は弾んでいた。
後日、梨姫は藩主の岩城徹長と婚約者である鶴長に対面する日がきた。梨姫はいつもより念入りな化粧をされ花柄のきれいな着物を着て徹長達が待つ部屋へと向かった。梨姫は部屋に着くと頭を下げたまま下座に座った。
「そなたが梨姫か。さぁ、面をあげよ」
梨姫は顔を上げた。すると上座には40ぐらいの体格のいい男がいた。その男こそ金崎藩主、岩城徹長であった。
「遠路はるばるご苦労であった。」
徹長はそう言った。
「お殿様、お初にお目にかかります。梨です」
梨姫は徹長に頭を下げた。徹長は実母が京の出身だったので顔がどちらかと言えば公家風の平安顔をしていた。
「あぁ、こちらは妻の百合じゃ」
徹長はそう言って後ろ隣に座っていた女性を紹介した。
「たしか会うのは初めてだな。梨。私がそなたの叔母にあたる百合だ」
女性、いや百合姫はそう言って梨姫に挨拶をした。
「お初にお目にかかります。奥方様。」
百合姫は実家である葵山家にいたときから美人で評判の女性だった。しかし、美人な分とても賢く機転が利き、梨姫の父親である清元は百合姫に頭が上がらなかったとか。
「ほら、お前も挨拶しなさい」
徹長はすぐそばの下座に座る少年に声をかけた。
「こちらがそなたの夫になる鶴長だ」
「…」
徹長に紹介されても鶴長はとくに名乗ることなく黙ったままだった。
(この人が…)
鶴長はあのとき梨姫が見た美しい少年ではなかった。もちろん鶴長も整った顔立ちをしていたがあの少年とは比べものにならなかった。
「これ!挨拶をせぬか」
徹長はそう言って鶴長に注意したが鶴長は黙ったままだった。
「…すまない。我が息子は少し恥ずかしいみたいだ。」
徹長はそう言った。
(あーあ、あの美しい方じゃなかったか)
梨姫は鶴長があの美しい少年ではなかったことを残念に思った。そう思いながら梨姫が目を鶴長の方ではなく鶴長の隣に移すと思わずあっと声を漏らしてしまった。
そこにはそれはそれは美しい女性がいた。その女はとても美しくしかしそれは同じく美人で評判の百合姫であってもとても比べものにならないほどの美貌を持っていた。
「あぁ、その者は前のお殿様の姫君にあたる愛姫だ」
梨姫の視線に気づいた百合姫はその美しい女性を紹介した。
「愛にございます」
愛姫は頭を下げた。
「とても美しいでしょう?愛姫は金崎一の美女と呼ばれていて女はみんな愛姫の隣に並ぶのが嫌になるほどなのだ。だって愛姫と並ぶとどんな女もかすんでしまう…」
百合姫はそう言った。
「奥方様、そのようなこと…」
愛姫は恥ずかしそうにそう言った。艶のある黒髪に白くて透き通る肌、目鼻立ちは芸術品のように整っていてその美しい見た目からは育ちの良さと上品さがただよっていた。そう、まるでしんしんと降り積もる雪の中に静かにたたずむ鶴のような…
「あ、美しいといえば、実は私、この間愛姫様のようにとても美しい殿方を奥で見かけたのですが、その方が誰であるかご存知ですか?」
この話題に乗ってあの少年のことを聞き出そうと思った梨姫は徹長達にそう尋ねた。すると徹長も百合姫も愛姫も鶴長は特に変化はなかったが、どこか複雑な顔をして黙り始めた。
「あー、それは多分、愛の息子だ。体が弱くて部屋にいることが多いのだが…たしかにあれは愛に似ているからな…」
徹長は冷や汗をかきながらそう言った。梨姫は一同の様子がおかしいことに気づいた。
(どうして?たかが愛姫様の若君の話なのに…)
「もしかしたらうちの鶴重かもしれぬ。養子とはいえうちの殿は岩城の縁者でうちの息子達も愛姫の美しい部分が受け継がれているから…」
百合姫はそう口を挟んだ。
「あー、あー、そうだな。そうかもしれん」
徹長は慌ててそう言った。
そうこうしているうちに対面は終わり、梨姫は部屋へ戻った。
「…朝顔、愛姫様の若君の話をしただけで、どうしてみんなあんなに動揺したのだ?」
部屋に戻ると早速、梨姫は朝顔に聞いた。
「…姫様、余計なことは話すなと申したはずです。」
朝顔はいつもより厳しい目を梨姫に向けてきた。
「すまなかった。でも、本当に見たのだ。愛姫様のお子とかいう美しい殿方を…」
「蘭丸様はとてもお体が弱く、今は治療に専念しております。愛姫様のお心を考えてあえて皆様は蘭丸様のことを話題にしないのです。ですからもう二度と蘭丸様のお話はしないでいただきたいものです。」
(蘭丸殿というのか…)
朝顔の厳しい注意など梨姫の耳には聞こえなかったのか、あの美しい少年の名前を知った梨姫はますます心がうきうきした。
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