十三

21/21
259人が本棚に入れています
本棚に追加
/706ページ
ひと区切りついたのだろう、沈黙が風と戯れた。 ちらり、若葉が視線を向けたのは、宙を見つめたまま口を閉じている実頼だ。 彼の耳には、種のたの字も入ってない筈だ。まさに、心ここに有らず。 仙華も『そういえば』と、実頼の存在を忘れかけていた程に、ずっと彼は黙していた。 「さて、関白様。知りたがっていた名の出処も知れたでしょうし、目的は達成されたのですから私共は用済みでしょう?」 「……ああ…、ああ。そうですね」 「…実頼……?」 たった一言、それだけを返した実頼からは、もう口が開かれる様子は窺えなかった。 冷泉は彼の様子に訝しむと同時に、気遣わしげな雰囲気を滲ませていた。 「やっぱり、人の心はそう簡単に変えられないということね」 呟きながら徐に若葉は花弁を仕舞いこみ、床へ手をつき後ろへさがる。 頭を垂れた後にすくりと立ち上がった彼女は、門へ向けて歩みを踏み出した。 もうここに用はない、そう言わんばかりの迷いのない行動は突拍子もなく、仙華は慌てて立ち上がる他ない。置いて行かれるのは御免である。 冷泉と昌子は、呆けたように慌ただしい二人を眺めることしか出来なかった。あまりにも突然の別れに、なす術は無い。 ただただ、気まずい空気が彼らを包んでいた。 「種……早速、探してみようかな。そなたもどうかな、昌子」 空気を変えようと、冷泉は昌子に微笑んだ。 その微笑みさえ、彼女には苦しみでしかないとわかっていても、声をかけずにはいられなかった。 今なら彼女から返事がもらえる。そんな確証があったから。 唐人との事なんて、今の冷泉の頭にはなかった。実頼でさえ、空気である。彼の頭は、昌子の声、それのみ。 (僕は、僕を信じていいんだ) 昌子からの答えを待ちながら、その一言を冷泉反芻していた。 開いたり、閉じたりを繰り返す昌子の口を見ると、答えに倦ねているようだった。 微笑んだまま待つ彼の視界へ、不意に、震えた指先が差し出されるよう映り込んできた。 「えっ……」 ⸺この手は、どうすればいいのか。 予想だにしなかった事に、彼の狼狽えようは見ている側が切なくなる程。 取るべきか、取らざるべきか。思考を凄まじい速さで巡らせている間に、その指先が胸元へそっと突かれた。 トン…と、己の胸で止まったこの指先は何なのか。 意味を導き出そうにも、動かせる思考はもうどこにもなかった。 「もうし……わけ…、」 顔を俯かせ、しぼり出された昌子の声を聞いた瞬間、冷泉の脳裡にある光景が浮かんだ。 それは、曼珠沙華と同じ色を躯から流しながら朱色に染められた視界。 「謝って…るの……?」 頷かず、かといっても振ることもなく。 俯いたまま震えるだけの彼女の旋毛を見ていると、あの痛みと苦しみを忘れていた事に気づく。 傷はどうなっているのかわからないが、誰かが不思議な薬で癒やしてくれていた気がする。お陰で痛みは、感じない。 「えっと…もう大丈夫から。それに、僕も謝らないと。昌子の事、中身が別人だって気付けなかった。あと、さっきは庇ってくれてありがとう」 己も謝り、尚且つ、礼を告げ。 変わらず昌子から反応はないが、やる瀬がない事だろう。これならいっそ、怒鳴り散らされた方がましだと思う程に。 「僕達、本当に何もしらなかったんだなぁって気付かされたよ。……これからは、昌子の思う儘に過ごしてほしいな。僕は僕で、やることがきっとあるから」 未だ動くことなく、宙を見続けている実頼を一瞥した冷泉。 視線を戻したとき、昌子の眼が此方を見ていた。目が重なった瞬間、お互いの肩が強く跳ねる。 息が止まった感覚が伝わる至近距離で見合ったのは、恐らく初めて。 何もかもが初めてで突然のことだったからだろうか。 気づけば、口を開いていた。 「僕が狂帝じゃなかったら、僕達は仲良くできていたのかな?」 「⸺⸺」 二人を見下ろす空は、冷泉の双眼よりも澄んでいた。
/706ページ

最初のコメントを投稿しよう!