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一
目の前に広がるは烈火の如く、熱き炎。
炎は木材の屋敷をいとも簡単に呑み込もうと強さを増してゆくばかり。
熱い、熱い、熱い。
轟々と炎燃え盛る部屋には、様々な調度品が飾られたままでいた。割れた鏡台もその一部だ。
若葉達は驚きから声すら出す事も出来ず、燃え盛る炎に目を奪われていた。そんな驚愕から最初に抜け出したのは碧綺だ。
しかし、驚愕は更なる驚愕を運ぶ。
「主様!?なにをっ、主様!」
碧綺の目の先、声の先には、炎の中へと吸い込まれるようにゆらゆらと覚束ない足取りで向かって行く若葉の姿だった。
けれども水干の袖を煌稚に咥えられ、引っ張られた事により彼女の足は止められる事となった。歩みが止まった事を目視した煌稚は袖から口を離す。
立ち止まった若葉はぼんやりとした翡翠を流れるように煌稚、そして碧綺へとゆっくりと向ける。
「主様、人はこの中へ足を踏み入れてしまえば命に関わる火傷を簡単に負ってしまいます。少し冷静になって、…ぬしさま!?ぬっ、主様!」
向けられた翡翠を見つめながら、碧綺はなるべく優しく宥めるように諭した。そして──声を荒げた。上擦ったようなその叫びは庭中に反響する。碧綺が見つめていた筈の翡翠は再び視界から逃げていく。
「主様!ぬし、」
──パンッ!
碧綺の声を遮ったのは、乾いた掌が叩き合わされた音。それは走る若葉が打ったものだ。突然の柏手に、碧綺と煌稚は瞠目する。
そして若葉が向かう先には、池が見えたのだ。若葉の柏手と共に池の水が瞬く間に立ち昇る。
池からまるで生き物のように上がったそれは──若葉目掛けて落ちた。
ばしゃんっ、と水が打ち撒かれた音と飛沫と共に、走る若葉はびしょ濡れとなった。頬に髪が、肌に布がへばり付くほど頭の先から足の先まで濡れた身の彼女は、走る速度をそのままに、動揺も見せず突然と踵を返し戻ってきた。
理解不能な彼女の行動に碧綺達は混乱する。
その間にも、炎は様々な調度品を呑み込もうと柱を伝い広がりつつある。
炎から離れている場所だとしても、その熱が碧綺や煌稚の羽や毛に伝わり蒸し暑さを訴える。一刻も早くこの炎を鎮めなければならないのは理解しているが、人の身でもない彼らにはどうすれば鎮まるのかわからなかった。
晴明の式神である天将のように水を司っていれば話は別だが、如何せんその様な力は持ち得ていない。
だから若葉の指示が唯一の頼りだが、当の彼女は──なんと、炎の中へと飛び込んでいってしまったのだ。
「ぬしさまぁ──っ!」
走っていた理由は、勢いと助走をつける為。
池の水を水神から授かった己の力で被ったのは、衣や髪が燃えるのを防ぐ為だったのか。
碧綺は今迄に出したことのない叫びを若葉に向けた。煌稚は声すらあげないが、大きな目を更に大きく見開き息を呑んだ。
若葉の後を咄嗟に追い、連れ戻そうとした碧綺だが生憎と、屋根よりも大きな体な為に、この屋敷を半壊させてしまうだろう。もし崩れれば若葉はその下敷きになってしまう。そう思った碧綺の足は留まってしまう。
だが唯一、煌稚は碧綺よりも小さい体躯をしている。
その煌稚が身を屈め、若葉を連れ戻そうと彼女と同じく飛び込もうとした。
けれど──、
「よかった…よかったぁ、母上、父上…」
微かに耳へ届いてきた、か細い声。碧綺と煌稚はハッと声の聞こえた方向へと目を凝らす。
其処には──炎と、炎の中で二枚の絹を抱き締めて立ち尽くす若葉がいた。
炎に遮られているというのに、彼女の姿は鮮明に映る。絹に顔を埋め、震えた声も明瞭に聞こえる。
だがしかし、炎はそんな彼女を今すぐにでもと、焼き尽くそうと覆ってゆく。
煌稚は今度こそ炎の中に飛び込もうとした。
「──目には目を、歯に歯を、炎には炎を」
しかし、又もや煌稚の身は庭から離れられなかった。それは、見知らぬ声とともに炎がより一層と強さを増し──一瞬の間に屋根まで覆ってしまったからだ。柱が崩れ、屋根も崩れ、若葉の居た場所へと落ちてゆく。
碧綺は再び天を劈かんばかりの悲鳴あげた。
だって──若葉の姿は、炎の瓦礫に押し潰され消えてしまったのだから。
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