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藤の木の根本に、一人の美しい男が腰をかけていた。
よくよく見ると、その男の手は霞んで向こう側の景色が見えている。透けている。その体が朽ちかけている証拠だ。
「再び藤を見るのは、叶わなかったな」
そう、小さな声で己の掌を上へ翳しそれを眺めながらぽつりと溢す男。その表情は、微笑んでいるようにも見えるし泣いているようにも見える。
男の脳裏には、一人の女性がちらついていた。
やがて、手のみならず、長い衣で覆われている足までも透け始めた──そう思った矢先。
──アアアアアーーッ!!
「ん…?けたたましい烏だな」
眉根を寄せ、空へと視線を向けていた男の目に、突然飛び込んでくる青。それを認識した瞬間彼は息をのんだ。
「はっ…、鸞だと…?」
青い大きな鳥。それは、遠く離れた上空と地の距離でも男の目には確認出来た。
「落ちます、落ちます、落ちますーっ!」
「止まれ止まれ止まれ急降下するなあああっ!」
騒がしい、喚かしい。男の鼓膜を劈く叫び声。先程のは烏では無く声だったのか。次いで、鸞の声かと思ったが違う。声音は複数ある。どういう事だと、耳を抑えながらその先へと目を凝らす。
やがて大きな青い鳥──碧綺が、大きく羽を羽ばたかせながら勢い良く己の目の前へ、祠と藤の木の間へと降り立ってきた。ばさばさと翼の音が鼓膜に響く。
「此処で良いですか、主様」
「丁度いい場所ね、有難う。お疲れ様」
今度こそ碧綺の声がこの場へ響く。その背から、女の少々高めの声が聞こえてきた。だが、その背は大きな翼で見えない。
だが、聞いたことのある様な声だと男は気付く。
「わ、わかっ、若葉様…駄目です、もう無理です…私はあの方より先に行きます…」
「縁起でもない事を言ったら駄目ですよ、癒月様」
別の女の声が 耳に届いた瞬間、ひゅっと男の息が止まった。
自己的にではない、無意識にだ。
(己の焦がれてやまなかったあの声が何故、此処で聞こえるのだ──)
訳がわからない。男の脳は理解を拒否し、判断処理を拒否し少々混乱をきたしている。
そんな中、鳥の背からとんっと飛び降りる影が見えた。桃色と緋色の衣が見えたのだ。
その衣が地へ降り立った次に、きらびやかな十二単の袖が視界に入る。
「娘…」
男はついに、か細い声を溢した。
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