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「主様、主様」 ふと突然、静かに佇んでいた碧綺が口を開いてきた。 「こやつ、いい加減本当に振り落とすか喰ろうても良いですか」 忌々(いまいま)しさを(まと)った目を己の背へ向ける碧綺。 その視線の先には、白目を向け、舌をでろんと出し仰向けで気を失っている仙華の姿があるではないか。…足はピクピクと痙攣している。 「あららぁ…」 頭を抱えた若葉は、仙華の腹をぽすぽすと叩きながら起こそうとする。暫くそうした後に、彼から篭った声が発せられ、二つの黒曜石が顔を見せた。 「あっ、やっと起きた」 「…此処は何処、僕は誰。君は鬼」 「巫山戯ていられるなら大丈夫だね。どう?もう一回気失っとく?」 どう?もう一杯いっとく?な軽さで告げる若葉の表情は微笑んでいるものの、何時ぞやの様に黒いものが混ざっている。 それを見た仙華は、勢い良く御免なさいと覚醒していく頭を下げた。 光の如く早さだったと、後に癒月は語る。 ──   ─── そろそろ日が傾き始め、逢魔時になってしまう。その前に若葉達は帰路へつかねばならない。 既に契も結んだ。ならば、当人達に後は任せるべきだと判断した若葉は、最後に聞きたい事はあるかと二人に尋ねた。 「えっ、もう終わり…?」 「はい。後はあなた方で色々とお決めになって下さいませ」 癒月から困惑の声が上がる。やや素っ気ない返答にも見えるが、守ると増臣(ますとみ)に誓った若葉とて、こんなにも事が順調に進むとは思っていなかったのだ。 強いて言えば、此方が守ってほしかったくらいだ。主に空での騒音から耳を。 「──娘よ。本当に良いのか」 男が自分の(かたわ)らに寄り添う彼女に問うた。 間髪入れずに、癒月は(とろ)けた微笑みで頷く。嗚呼、何と言う幸福感だろうか。男の胸を甘い感情がが覆う。 「藤の君、私は癒月と申します。どうか、その声で名を呼んで下さいませ」 「…ゆづ、否…だが」 男は渋った。そう、彼は神だ。神に名を知られ、呼ばれればその魂は縛られたも同然。 彼は彼女を想うが故に躊躇ったのだ。 だが、彼女はそれでも構わないと微笑むだけ。やがて諦めた男が、薄く整った唇を震わせる。 「ゆづき…、癒月」 「はい、藤の君。はい、はい、癒月です、藤の君」 互いの頬を数多もの雫が伝う。それを静かに見守るのは、若葉達だ。 「ねえ、あれが噂の神様な訳?」 「そうだよ」 「随分小さな社ですな。もはや祠と言った方が正しい」 小さな声で言葉を交わす三人…否、一人と二匹のが正しいのだろうか。やがて、涙も落ち着いた男が何かを思い出したように若葉達へ視線を寄越す。 「そういえば何故、(らん)がこの国にいるのだ。その面妖な者は何なのだ」 否、男の視線は仙華と碧綺に向けられていた。
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