十三

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灰掛かった雲間から唯一、差し込んでいた日差し。それをも遮られ、暗がりをもたらされた空の下では風が嘆き、野分をつれてくる。 荒れ狂う渦に呑まれてしまえば己の意思では決して抜け出せず、全てを呑み込まれてしまう。 ⸺そこに、立たされているような目をしていると、若葉は実頼に感じた。 彼はいつから呑まれてしまっていたのだろう。将又、始まりからそうだったのかもしれない。 愚かと言うべきか、哀れと言うべきか。 (どちらも、言うべきではないのかもしれない) だって、他人の幸せの権利は、他人が決めていいものではないのだから。 ましてや、己ですら幸せの準則は定められない。それなのに、他人が哀れと決めつけてしまうのは筋違いだろう。 実頼は彼なりに、渦の中でも、幸せを確かに感じていたのかもしれない。 人生は未知数だ。舞い込んでくる幸せも、苦しみも、それを感じられる回数も、大きさとて計り知れない。 しかし、一つだけ確固たるものがある。 「待つか、それとも探しに行くか」 若葉は冷泉、次に昌子、そして仙華。 彼らに順に視線を送り、己の胸には重ねた両の手を添え、やおらに目を閉じた。 「幸の蕾は、人生という大路の何処でいつ、花開くかは分からない。でも必ず、咲き誇る日を待ち詫て今もどこかの土の中で眠っている。だから、水を遣りに自ら種を探しに行く事は出来る」 緩慢に眼を開き、差し出された若葉の掌には、一片の薄紅の花弁が包まれていた。 いつの間に、どこで捕まえたのだろう。 三者の不思議そうな視線を受ける花弁はとても小さく、けれど飛ぶことなく、彼女の白い肌を色付け続けている。 「人は、待つ事しか出来ない訳じゃない。種は脆く、儚いものかもしれない。諦めないで芽吹かすことが出来たら、その瞬間から(ここ)が満される素敵なものでもあるはず」 僅かに手に力を込め、穏やかに表情を緩めた若葉。 綻んだ目元、微かに弧を描く口元、花弁と(こころ)を抱くその姿は、観音が実在していたら彼女のような姿をしているに違いないと思えるもので。 視線を受けた彼らは、感嘆の息を漏らしていた。 「もしかしたら、種はこの近くに埋まっているかもしれない。だから見逃さないよう、常に目を凝らしていてほしいの」 吹き込んでくる風は優しい程に、緩やかに亜麻色を攫う。 靡く髪から新緑の香りが皆の鼻腔を掠め、葉桜を観ている錯覚に囚われた。花弁は、薄紅なのに。 「時には誰かに、何かに、邪魔をされてしまうかもしれない。種を横取りされてしまうかもしれない。それでも、絶対に手は伸ばし続けて。勿論、逃げてもいいの。いつか、己が芽吹かす筈だった種は根を張り、手の温度を辿って、己の許へ水を求め来てくれるから」 「……その種が、本当は欲しくなかったら?要らなくなったら?」 昌子が、微かに震えた声で問うてくる。 推し量るような言葉に、何故か若葉ではなく冷泉の肩が跳ねていた。 彼を一瞥した若葉は、 躊躇うことなく口を開く。 「誰かに譲ってしまいましょう。だって、他に心惹かれる種があるから、その種と天秤にかけて不要だと判断したのでしょう?ならば、求める蕾は決まっているはず」 「っ……」 昌子の目元が震え、瞳は俯くように下へむけられてしまった。ぎゅう…と聞こえたのは、袖に隠れる彼女の手に力が込められたから。どんな思いで握りしめたのか、冷泉はその手元をどこか悲しげに見ていた。 「蕾を探しに、大路を進んでください。種は沢山あるけど、己に与えられた時間は限られているんです。己の足を信じ、決して振り向いてはなりません。振り向いたが最後、あなたの手放した種は他の者に芽吹かせられているのですから、絶望と後悔の渦に落ちてしまいますよ。歩みを止めていたら、もう、何の種も手に入らなくなってしまう。大路からも外れてしまい、路のない暗がりで途方に暮れる事になるでしょう」 「途方に暮れたらどうなるのさ」 肩を竦めて問うた仙華は、まるで授業のようだと、仄かに懐かしさを感じていた。 この時代にきて、幾月が巡っただろうか。 教室の風景が脳裡を過ぎり、それほど立っていない事を悟る。 だって、まだこんなに鮮明に過去を思い出せる。ずっと、ここで暮らしていたような感覚なのに……。 若葉の横顔を盗み見れば、前だけを見据える翡翠が二つ、仙華の目を奪った。 「同じように歩みを止めてしまった人と遭遇する事もあるでしょうから、手分けして明かりを探すしかないわ。ああでも、人はちゃんと選んでね。明かりを奪って独り占めしてしまう人もいるから」 「あー、いそう」 「でしょう?それが嫌なら、覚悟がなければ、誰かに譲らず水を差し上げてみては。己のさじ加減で、芽の形は変わるんですから」 昌子を見据えながら告げた若葉は微笑を湛え、流れるように冷泉へと目を移す。 「栄華秀英、同じものなど存在しないのです。一枚ずつ重なる花弁で、一寸の乱れなく同じ形をした花を見たことがありますか?」 辿々しく、若葉と視線を合わせたままに冷泉は首を左右に振る。 「私もありません。個性なくば、其々の良さが霞んでしまいますし。同じものが存在していたとて、感動はしても、惹かれないでしょう?ですから自分らしく、したいように、信じて種を探し続けて下さい。必ず、いつか種は手に入りますから。その時は心からいつもの笑顔で、水を撒いてあげてくださいね」 「……うん、わかった。そなたの言う種を、この目で見つけてみせるよ」 まだぎこちないが、それでも笑顔をつくって頷いた冷泉に、若葉はただ微笑んだ。彼の赤く潤みを持った、瞳には気づかぬふりをして……。
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