第三章 十月 情熱

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第三章 十月 情熱

 金木犀の甘い匂いが、夜道に漂っていた。この季節になるとどこに行ってもこの妙に甘ったるい匂いが漂ってきて嫌なのだが、残念ながら家の庭にも植わっているので逃げ場は無い。  段々と家が近づくと、遠くからでも咲き終わって落ちたオレンジの小さな花が地面を彩っているのが見えた。そこまでは良かった。今夜はその落ちた金色の花の上に誰かが立っていのだ。  スポットライトの様に街灯が、花のステージの上でぼぅと空を見上げる人物を照らし出す。だんだんと冷たくなっていく秋の風に長い髪が微かに揺れている。鈴虫の声が静かな住宅地に響き、まるで秋の夜の幻想的な黄金の舞台の様だ。 「お前、何してんだ」  声をかけると主役は、ゆっくりと此方の方へ向き、スカートの裾をつまみ、 「こんばんわ、小谷くん。良い夜だね」  と、まるでお伽噺の登場人物のようなお辞儀をしてきた。 「班長」  諌めるように言うと、ちろっと舌を出した。可愛くないぞ。 「塾帰り? だよね。お疲れ様」 「どうも。で、こんな所で何してんだ」  こんな夜遅くに一人で出歩くもんじゃないぞ。まぁ、お前なら平気だろうが。 「いやー、散歩というかなんというか」  班長にしては、切れが悪い。 「何もないなら早く帰れよ」 「そうなんだけど……」 「なんだよ。俺もう家入るぞ」  家の鍵をポッケから出して、差し込もうとすると、 「あー、えっと、そのー、とても言いにくいのですが」 「なんだよ」 「今晩だけ、泊めていただけないでしょうか」  泊めてくれだと? 「お願い、今夜だけ」  普段ふらふらしている奴だが、こんな突拍子のない事を言うことは今まで無かった。 「……なんかあったのか」  そう聞くと、班長は視線を下げ、 「ちょっと家に居辛くて」  と、零す。 「家が、両親がちょっとギクシャクしているというか。まぁ、あたしのせいなんだけど、あの人達は悪くないんだけど、少し耐えられなくて、逃げ出してきちゃった」  何かに言い訳する様に必死に、そして悲しそうに笑う。 「良いのか」 「うん。どうせ私が居ないことなんてあの人たちは気が付かないし、気にもしないから」  ……。 「ほら、入るぞ」  ドアを開けてやると、班長はホッとした顔をした。 「ありがとう。こんな私でも、流石に夜はこわくて」  秋の夜は長く暗く、この街の夜は驚くほど静かだ。人や車は勿論、針が天辺をすぎる頃には虫も鳴かない。そんな静寂の暗闇に独り居たらきっと自分の存在があやふやになってしまうだろう。 「ありがとう」  班長は再び礼を言い、俺は、ん、と返事すると鍵を閉めた。  両親はいつも帰りが遅く、家には俺と班長しかいない。作り置きしてあった夕飯を食べ、風呂から出ると、班長は制服のままリビングの隅でじっと俺が出てくるのを待っていた。なんだか、親の迎えを待ってる子供みたいに見える。 「風呂お前も入るか?」  一応声をかけると、 「流石に他人の、しかも男の子の家でお風呂は入らないよ。寝床だけ提供して下さい」  と、からかう様に返してきた。でも妙に落ち着きがなくて、あぁ、アレだ。借りてきた猫だ。見たこと無いけど、そんな感じが正しいかも知れない。 「ん。じゃあ俺の部屋は……ダメだよな」 「君がいいなら良いよ。朝には勝手に出てくし君のご両親に迷惑かからない所が其処なら」 「お前が迷惑かける所なんてあるのか」 「さー?」  言葉を交わすうちにいつもの班長に戻っていった。  階段を登り、自室を開ける。小学校を卒業するまで兄と一緒に使っていてたが、今では一人になった部屋に久しぶりに誰かがいる。 変な感じだ。 「結構良い部屋だね。あ、テレビある」  班長は、ぐるりと部屋を見渡しテレビに反応した。 「いーなー、自分の部屋にテレビとか。おー、映像綺麗」 「兄貴が置いてったんだよ。おい、こら、勝手につけるな。これから塾の課題やるから静かにしてろよ」 「お兄ちゃんいたんだ! ねぇ、音量小さくするから見てていい? いっつもこの時間チャンネル争いに負けて見たことないんだよね」  さっきまでの迷子のような顔から打って変わってテレビに大はしゃぎだ。ガキか? ガキだな。  それから俺は塾から出された課題に手を付ける始めるが、班長が居るんだ。やる気は出ない。仕方がないので頭を使わずに終わる物だけ片すことにした。  暫く単純作業に没頭していたが、段々気になってきて、ちらりと視線を班長に向けた。どうやら旅行番組を見ているようだ。テレビには綺麗などこか、海外の海が映っていた。深い深い蒼の中を名前の知らない若いモデルか女優が泳いでいる。  あぁ、いきたいなぁ。  諦めたような、願うような言葉が聞こえて、頭を鈍器で殴られたような衝撃がした。 「……いきたいなら、いきゃぁいい。お前ならどこにでも行けるだろ」  自分でも驚くほど低い声が出た。班長は、少し驚いたが視線をテレビに戻して、 「無理だよ」  と、言った。冷たくて硬い声だった。 「なんで」 「中学生には、どこかにいける手段も、お金もないから」 「でもお前なら行こうと行けば行けるだろ?」  自分でも驚くぐらい食い下がる。 「私は、ね、小谷くん。自力でこの街から出られないんだよ。そういう決まり」 「自力じゃ駄目なら俺が連れてってやる。今は駄目でもバイトして連れてってやる」  だからそんな、諦めたような事を言うな。 「ありがとう。でも、駄目だよ」  眼を細めて柔らかく班長は、笑った。まるで小さい子に言い聞かせるように優しく、ゆっくりと言う。 「なんで私が君との賭けの期限を卒業までって決めたか解る?」  静かに首を振る。 「それはね、水野の両親をそれ以上苦しめない為だよ。私の我が儘であの人たちは、自分の子供が生きているのか死んでいるのか、わからない状態で半年も、願い続けて、祈り続けて待っているんだ」  もう二度と帰らない人を、ずっと待って、待って、待ち続けるのは辛くて悲しいことなんだよ。と、班長は言う。 「なんで、お前はそんなに物分りが良いんだよ……もっと抗えよ、逃げちまえよ」 「これでも十分抗ってるよ。でもこれ以上望んだら罪深過ぎる」  水野の居場所を班長が知っていたとして、それを告げなかったとして、水野が手遅れだとしても、班長に罪は無いのだ。誰がなんと言おうと罪など無いのだ。 「……水野の場所なんて教えなくていい。俺が狂ったままでもいいから、逃げろよ。逃げて、逃げて、遠くへ行けよ。例え誰に知られなくても、気づかれなくても俺が知ってる。見ててやる。責められなくて辛いなら、俺がずっと恨んでやる」  偽りでもなんでも、生きてて欲しかった。未来を諦めないでほしかった。  班長は、そっと俺の頭を撫でる。 「ごめん。ごめんね、小谷くん。でも、ありがとう。その言葉だけで本当は十分なんだ」  満足しなきゃいけないんだ。そんな声が聞こえた気がした。  それから俺たちはお互いに無言になって、班長はテレビを見る気力を失い電源を落とした。俺も何かをする気が完全になくなってしまい、二人してもう寝ることにした。押し入れから毛布を一枚出して渡すと、班長は部屋の隅で丸くなる。女子を床に寝かす事に抵抗があったが、本人が頑なに拒んだため俺はいつも通りベッドに寝転び、天井をぼんやりと見ていた。しばらくすると部屋の隅から小さな寝息が聞こえてきて、俺はそれに少しだけ安堵した。水野のことも班長の事も、もうどうしようも無いのは解ってる。けど、俺はそんなに物分りなんて良くねぇから、どうやったらアイツを殺さずに済むのか、せめてどうやったらあいつが「自分は罪深い」なんて考えさせないで居られるか考えて、考え続け、やがて俺も眠りへ誘われ落ちていった。 「新聞、書くぞ」  広報班が全員揃った朝、俺は班員にそう告げた。 「内田は編集後記とセンセーの一言貰ってこい。それぐらい出来るだろ? 吉田は二面、生川は、四面頼む。俺と、班長は一面と三面だ」  ……返事がない。前を向くと、皆は鳩が豆鉄砲食らったような顔をしていた。 「小谷? 大丈夫? アンタ熱があるんじゃないの?」 「小谷が、あんなにサボって逃げていた小谷が、自ら書こうなんて……」 「否、俺内田より何だかんだ書いてたからな! それに水野が居なくなったぐらいであの鬼が許すわけ無いだろ」 「……確かに」 「受験生に未だ新聞書かせてるし」 「ご、ごめん」  班長が申し訳なさそうに言う。お前の責任じゃねぇだろ。 「水野が居なくなっても、誰が居なくなっても、いつも通り、いつ戻ってきても良いようにやるぞ。締切りは勿論いつも通りやってくるんだから」  そう言い切ると、班員はお互いに顔を見合わせてからはーい、と良いお返事が返ってきた。班長は、驚いていたがちょっぴり嬉しそうだった。  一晩考えて、考えて、解らなくて、結局辿り着いたのがこれだ。何もせず眺めているより、参加する方が楽しい筈だ。  それでも今のままでは俺は、アイツを殺さなきゃならないのは変わらない。  
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