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土曜の昼間だと言うのにタクシーがつかまらない。仕方なく病院まで全力疾走したら、残暑厳しくでは通用しない程汗だくになってしまった。とりあえず財布と携帯だけ持って飛び出してきたから、汗を拭くものなど何も持っていない。目に入りそうになる汗を肩で拭いながら、俺はどうにかこうにか「キヅカワトシオ」の病室に辿り着いた。
ドア横のプレートを再度確認しながら耳を澄ましてみると、誰もいないのではないかというくらい何も聞こえない。父の切羽詰まった雰囲気から、てっきり心電図がピーピー言っているのかと思っていたが――
或いは、もう。
俺は意を決し、ドアをノックした。
「失礼します」
ドアを静かにスライドさせると、思わず目を覆いたくなるほどの光に包まれる。秋の太陽が、窓から容赦なく俺に突き刺さってきた。ここ、思い切り南向きだ。
「――どちらさんか」
窓の手前の真っ白なベッドから、低く、少ししわがれた声がした。ひとまず、最悪な事態になっていないことに、俺は胸をなでおろした。
声の主はベッドに横たわって天井を向いたまま、逆光もあって顔がよく見えない。俺は目を細めながらベッドに近づき、窓側に回った。
「突然失礼します。佐藤一静の代理で来ました。息子の佐藤彰人といいます」
頭を下げると、ごそごそと音を立ててキヅカワ先生が体をこちらへ向けた。
「佐藤、彰人……」
「はい」
顔を上げると、少し驚いたように見開かれた目と、目が合った。
いくつくらいなんだろうか。頬はこけ、皮膚も枯れて老人然とはしているが、布団からのぞく顎や手の骨格はがっしりとした感じがする。声もはっきりしているし、耳も聞こえているようだ。
なんだ、父さんが何か早とちりしたんじゃないか。
と、キヅカワ先生が体を起こそうとし、俺は慌ててそれを押さえた。
「いいんですいいんです、寝ててください」
「あぁ、いや……すまんな、こんなんで。ちょっと今日はしんどくてなあ。その辺に椅子があるやろ、座ってくれるか」
「はい、お借りします」
俺は棚の下にもぐっていた小さな椅子を引っ張り出し、キヅカワ先生の顔をすぐ見下ろす場所に座った。
「俺なんかが来てすみません。父も母も、今東北の方に学会で行ってて……飛行機にはもう乗ったみたいなので、もうしばらくしたら来ると思うんですけど」
「なんや、わざわざ帰ってくるんかいな。大げさやなぁ」
「あの、えっと、お家の方とかは」
「さっきまで来とったけど帰ったわ。危篤やて聞いて来たのにぴんぴんしてるやないか、言うてな。薄情なもんやろ」
関西なまりで早口にそう言って、先生はくつくつと笑う。
「誰かが焦って一静に連絡しよったんやな、いらんことを。見ての通りもうぴんぴんしてるから、心配せんと学会に戻れて言うてくれへんか。君も、来てもろて悪いけど、こんな病院にいることあれへんやろ。日が暮れんうちに帰りなさい」
一瞬、「そうですねわかりました」と返事をしそうになる。それくらい、先生は元気に見えたのだ。
だが、「何があってもなくても」俺はここにいなければならない。
ない知恵を絞っても何も出てこないので、俺は正直に言うことにした。
「すみません。両親が来るまで、絶対に先生の傍にいろと言われたので、もうしばらくここにいさせてください」
先生が驚いたように――少し怒ったように、目を大きく開いた。
「誰や、そんなこと言うたんは。一静か」
「いえ、母です。香織です」
「香織――……ああ、香織か」
はぁ、とため息ひとつ。
「で、彰人くんは、律儀にそれを守るんやな」
「はい、頼まれたので」
「一静に似たな、損するで」
「え、似てますか?」
「似てるわ」
ふ、と今度は小さく笑い、先生はまた天井を向いてしまった。
「顔は母親そっくりやけどなぁ」
「よく言われます。あの、母のこともよく知ってるんですか」
「そうやな、割と長く付き合いはある。この間も、本を出してもろたとこや」
「そうなんですか」
「ああ――彰人くん、身長は母親に似んくてよかったなあ。一静よりももう大きいんちゃうか」
「いえ、まだちょっと追いつかないです」
「そうか。でもまぁもうちょいしたら抜くやろうなぁ」
ふふ、と笑いながら、先生は目を閉じる。
そのまま眠ってしまいそうな気がして、俺は慌てて話題を探した。「今日はしんどい」のかもしれないけど、両親が来たときに眠っていては具合が悪い――というのもあるが、何だかそのまま寝かせてはいけない気がした。
「あの、先生も背が高いんですね」
「んん? まあ、せやな。ちょっとな」
「手も大きいですよね。俺、バスケやってるんですけど、手が小さくて、ボールの片手持ちが結構きついんです」
「そない小さいか」
「そうですよ、比べてみますか」
先生が目だけでこちらを見る。俺は無理やり先生の手に自分の手を重ねた。
「ほら、先生の方が大きいですよ」
「ほんまやな。でも君は、まだ大きくなるやろ。俺よりしっかりした手しとる。飯はちゃんと食うとるか」
「食べてますよ。毎日、母が大量に作るんで、バイトでまかない食べて、家でも食べてます」
「はは、そら食べすぎや。でも細いんやなぁ」
「そうなんです、俺、筋肉もつきにくいみたいで」
「あぁ、それは俺もや。大丈夫、骨はしっかりしてるし、筋肉も目立たんだけでちゃんとついとる」
「そうですかね」
「一静の二十歳の頃よりもよっぽどええ体になってる思うで。力もありそうや。そのまま俺の手に力入れてみ」
腕相撲をするかのように、ぎゅっ、と重ねた手を握られて、思わず俺は自分の手を引きかけた――握られたのが嫌だったのではなくて、その力が思いのほか強かったからだ。でも、思い切り力を入れるわけにもいかず、俺は控えめに手を握り返した。
「こうですか? 痛くないですか?」
「全然や。もっと力入れてみ、折れへんから」
ぐっ、と先生の手に力が入り、俺の手が少し白くなる。結構痛い。
これは手加減しない方がよさそうだ。俺は負けじと握った手に力を入れた。
「おお、やっぱりスポーツやってるだけあるなぁ。痛いわ」
「わっ、ごめんなさい」
「ええ、ええ。そんまま握っといて」
「え?」
俺はわずかに力を抜いた手のやり場に困り、先生の顔を窺う。
天井を向いたまま、先生は楽しそうに笑っていた。
「俺は何にもスポーツはやらんかった。タッパがあったから、やれとは言われたけどな、もうその頃には体が動かんかった。多分、一静もそうや。その分、君はいい選択をしたな」
「いや、俺はただ、父さんみたいに頭がよくないから」
「そんなことあれへん。ええか、考えることが大事なんや。頭がいいとか悪いとかじゃない。考えた分だけ賢くなって、よく生きられるようになるんや。例えば、ほら、何で今君はここにいるんや?」
「え?」
促され、俺は目だけで天井を見ながら答えた。
「両親からここにいろと言われたからです」
「なんで彰人の両親はここにいろ言うたんや?」
「先生が、病気だから……?」
「何で俺が病気だと彰人がここに来ないといかんねや?」
「それは、ええと……先生を、一人にしてはいけないから」
「ほぉ。何で俺を一人にしてはいかんのやろうか?」
「それは、ええと、ええーっと……」
先生は、少し楽しそうに、目だけで俺を見ている。体は天井を向いたまま、手は俺の手を握ったままで。
ない知恵をぐるぐるとひっかきまわし、俺は先生の方を見ずに答えた。
「ええと、2人とも先生に一人じゃなくしてもらったから、です」
「それは、どういうことかな?」
「どういう……ええと……」
「ええとこついてるわ、焦らんと考え……ああ、でも、そうやな。ヒントをやろうか」
「ヒント?」
俺はベッドへ身を乗り出した。
そして、考えることに夢中になったせいで、先生の手の力が少しずつ弱くなっていることに気が付けなかった。
「俺が一人じゃなくなったんは、一静と香織と、彰人のおかげや」
「え? 俺?」
「そうや。彰人が一静と香織と生活して、3人とも幸せなのが、俺の幸せや。これ、えらいヒントやで」
「えらいヒント、って……先生?」
すとん、と。
俺の手を握っていた、先生の大きな手が、落ちた。
「ちょっと、あの……先生? 先生!」
その後のことは、よく覚えていない。
突然部屋に一人にされた俺は、両親が駆け付けた後も、先生の手を握ったまま、泣いていたという。
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