756人が本棚に入れています
本棚に追加
/207ページ
「店長なら……」
ここまで口にして、はっとする。相手は名前も知らない謎の男。なにも確認せずに猫田がいることを伝えるのは、きっとよくないはずだ。
いづきはふうっと深呼吸して、男を見すえる。悠太よりも身長が高く、襟足まで伸びた髪。全体的に、優しくて穏やかな雰囲気を醸しだしている。
「すみません、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
とりあえず最初に名前、そのあとに用件を聞きだそう。いづきは極力丁寧な対応を心がけて、男に問いかける。
名前を聞かれた男は「あ、そうか」と呟いたあと、小さく微笑む。
「犬山です。猫田さんとは大学時代からの仲なんだけど……ちょっと話したいことがあって」
こちらから聞くまえに用件まで話してくれた。しかし詳しい内容まではわからない。詮索していいものか、いづきには判断できなかった。
「いるなら伝えてもらえるかな? 俺がきたこと」
「あ……少しお待ちください」
見たところ悪い人ではなさそうだし、猫田に声をかけるだけかけてみよう。犬山に待ってもらうよう伝えて、事務所にいる猫田のもとへ向かう。
パソコンで作業をしていた猫田は、手を止めていづきに視線をやった。
「店長」
「んだよ、仕事の邪魔すんな」
ぴりぴりしている。こんな状態で話しても大丈夫か? そう思ったがここまできたら話さないわけにもいかない。
これ以上の悪態をつかれる覚悟でいづきは話を切りだす。
「犬山さんっていう人がきてて、店長と話したいそうです」
「……」
犬山という名前を発した瞬間、猫田の表情に変化が見られた。驚いたように目を見ひらいたかと思えば、すぐにいつもの仏頂面に戻った。
そしてただ一言、「帰らせろ」とだけ。
「え? いや、でも……」
「いいから。いないって言え。いるって言っちまったんなら手が離せないって伝えろ。あと二度とくんなともな」
「ええ……」
前半はともかく最後の言葉は言えるわけがない。しかたないオブラートに包むか、といづきは困ったようにため息をつきながら事務所を出る。
売り場に戻ると、犬山がこちらを見ていた。気のせいだろうか、なにか期待されているような。
「すみません、今忙しいみたいで。話せないそうです」
「……だよねえ」
ものすごく残念そうにしている。その姿はまるで震えた子犬のようだ。こんな相手に二度とくるなとは言えない。
最初のコメントを投稿しよう!