<再び、朔の夜>

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<再び、朔の夜>

 あれから俺は真間の村を遠く離れて方々を歩き回った。何年もかけて。  手児奈の姿をした俺は幾人もの男達に抱かれ、そしてその男達を一人残らず殺していった。  なぜそんなことを飽きもせずに繰り返しているのか。正直、自分でも上手く理由をつけることができない。  ただ、見ず知らずの男に抱かれて快楽に身を任せている時にだけ、俺は手児奈の肉体を最も身近に感じることができた。  俺の中の手児奈の体が恋しくて恋しくて、俺は男に抱かれる。しかしその一方で、事が終われば手児奈の体を知った相手の男がどうしても許し難くなる。生かしてはおけないと思う。  華奢な手児奈の体であっても、屈強そうな男を殺すのは簡単だった。不思議なことに、男であった時よりも今の方が強い力を持っていた。素手で男一人を絞め殺し、首の骨を折ることができるくらいには。  心に虚しく空いた穴を埋めるために抱かれ、殺し、そうして黒々とした穴は余計に広がった。真っ黒に塗りつぶされた虚しさが俺を呑み込んでいく。そんな日々が終わることなく繰り返される。  ある日、俺は妙に見覚えのある場所にたどり着いた。もう日はとっくに暮れて辺りは深い闇に包まれていた。空には小さな露の玉のような光を瞬かせる星々が無数に蒔き散らされている。月はない。朔の夜だった。  下草が乱雑に生い茂った荒れ野。木の柱のようなものが不格好に何本も立ち並んでいる。朽ち果てた家の残骸のようだった。人の気配はない。  こんなにも寂寥として荒れ果て、そして胸を締め付ける程懐かしい場所を俺は知らない。知らないはずだ。しかし、よく知っている……。  そうか、ここは真間の村か、と俺は気がつく。  だが、この荒れようはどうしたことだろう。この数年の間に村の者も一人残らずいなくなってしまったかのようだ。疫病でも流行ったのだろうか。  俺は膝まで伸びた下草を足で踏みつけ、かき分けながら歩いた。景色が変わりすぎているため迷いながらも墓地のあったところまで何とかたどり着く。  枯れ草や薄の穂が覆い尽くす中、こんもりと盛り上がった墓達がかつてと同じ姿で静かに横たわっていた。帰ってきたのか、という実感が胸の奥に沸く。墓地の中には、今はもう死霊達ですら誰もさまよっていないようだった。 ――もう何もなくなってしまったのか、この村には……。  愕然とした想いにとらわれながら辺りを見渡すと、墓地の横にぽつりと一本の柱が立っているのに気がついた。俺の家の跡だと思い、近づく。  柱のすぐ傍の枯れ草の中には骨が散らばっていた。小さなしゃれこうべの眼窩と目が合う。それは手児奈の骨だった。  俺はひざまづいて手児奈のしゃれこうべに触れた。胸の奥にふと、暖かくやさしいものが流れる。何もなくなってしまったわけではない。手児奈がいた。手児奈の骨がずっとここで待っていたのだ、と。  手児奈の骨の傍らに何か小さなものがあった。つまみ上げると小さな壷だと分かった。幼い頃の俺が手児奈に渡した灰を入れた壷。手児奈が命を絶つ時に握りしめていた壷。  俺は慎重な手つきで壷の蓋を開けた。掌にぽろぽろとした塊が転がり出る。手児奈に渡したときは砂のようにサラサラとしたものだった灰も、今はもう固まって小石のようになってしまっている。  俺は灰の塊をしばらく見つめた後、おもむろに口に入れ、呑み込んだ。  喉元が熱くなった。焼けるような痛みを感じ、俺は咳きこむ。何度目かの咳で、喉の奥から火のように熱いものがせり上がってきた。たまらず嘔吐する。吐き出されたのは血だった。 ――ああ、そういうことか。  俺は血を吐き出しながらも妙に納得する思いだった。 ――これは魔除けの灰……。魔を封じる灰だ。魔は俺そのものだ。手児奈に焦がれる余り、弔いという名のもとに手児奈を喰らった。そして、愛する女の姿で数え切れない程の人間を殺した……俺こそが魔の者だ。だから俺は……この灰に……  体を折り曲げ、カァッと噴き出すように再び血を吐いた。草の中に倒れ込む。意識が遠のいていく。  どれくらい気を失っていたのだろうか。それほど長い時間ではなかったのかもしれない。辺りはまだ闇に包まれている。  体を起こそうとした。しかし力が入らない。何かがおかしい、という気がする。ふと自分の手を見る。大きくてごつごつとした無骨な手。「俺」の手だ、と思う。俺の体はいつの間にか元に戻っていた。 「阿止利」  涼しげな凛とした声が耳に響く。 「手児奈……」  俺は掠れた声で答える。俺の喉から出たその声は確かに「俺」の声だった。  重い体を持ち上げるようにして何とか半身を起こす。  墓の盛り土の上に手児奈が腰をかけてニコニコ微笑みながらこちらを見ていた。手児奈の姿は少女の頃そのままで、手児奈が座っているのも彼女が遊びにくる度いつも腰掛けていた墓だった。  俺は手を伸ばした。手児奈に向かって。しかし指先は空を切り、手児奈には届かない。 ――俺はいつもそうだった。手児奈の手を取りたいのにいつも取り損ねてしまう……。  手児奈を連れて逃げようとして井戸の傍らで会ったあの夜、荒嶋を振り切って手児奈の手を取ることができていたなら何かが変わっていただろうか。  上総の国から返されて心を閉ざしてしまった手児奈の手を取ってこの村を共に出ることができていたならば、少なくとも手児奈は自ら命を絶つこともなかったのではないか。  荒嶋の血塗れの手を思った。手児奈に向かって伸ばされた手だ。自分勝手で傲慢な男ではあったがあの男も確かに手児奈を愛していたのだ。  俺の手も、荒嶋の手も、手児奈を救うことはできなかった。  体から力が抜けていく。俺は再び枯れ草の中に倒れ伏した。息が上手くできない。苦しい。手足が冷えていく。目の前が霞んでもう何も見えない。  それでも俺は最期の力を振り絞り、震える腕を持ち上げた。「阿止利」と俺の名を呼ぶ幼い手児奈の声がやさしげに何度も木霊する。声に向かって手を差し伸べた。  ふと、掌に暖かく柔らかいぬくもりが触れる。その手のぬくもりを俺はしっかりと握りしめた。手児奈の小さな、やさしい掌。その暖かさを確かに感じながら、俺の意識は深い闇の底へと落ちていった。
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