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真間の井
群青の闇の中、星明かりだけを頼りに草を踏みしめて歩いた。月のない夜だ。
空から月が消える「朔」は不吉な日であると言われている。そのため、国造の館では朔の日は僧侶を呼んで祈祷を行わせ、家中の者は館の内に引きこもって一歩も外に出ないのが習わしとなってるらしい。おそらく手児奈はその隙にこっそり館を抜け出してきていたのだろう、と親父は言っていた。
この日の昼、俺は手児奈とは会わなかった。いや、会えなかったのだ。親父は俺と手児奈が再び会うことを恐れ、出かける前に俺の手足を縛って家から出られないようにした。俺はこうなるであろうことは予め分かっていた。だから俺は、前日のうちに手児奈がいつも腰掛ける墓の傍に一枚のかわらけの欠片を残しておいた。
昼も遅い時分になって手児奈はいつも通り墓場にやってきた。俺は家の中で縛り付けられてはいたが、手児奈の足音はどんなに微かであっても聞き分けられる自信がある。
手児奈の足音の気配は俺を捜してか、墓場の中をしばらく歩き回っていた。ふと、手児奈が立ち止まる気配。俺の動悸は速まった。
しばらくすると、手児奈が再び歩き出し、墓場を出て遠ざかる気配がした。
手児奈はかわらけに気がついただろうか? たとえ、かわらけに気がついたとしても俺の伝えようとすることを読み取ることができたかどうか……。薄暗い家の土床に転がされ、動くことのできない俺の胸は不安に締め付けられるように疼いた。
炉端の消し炭を使って、かわらけに描いた印の意味……それに手児奈が気がついたのならば俺は手児奈を連れて逃げることができる。
暗闇に慣れた目に、石造りの井戸の形がぼんやりと浮かび上がる。俺は腕に抱えた瓶と柄杓をぎゅっと抱え込んで辺りの気配を伺った。
誰もいない。
俺は落胆した。手児奈に俺の気持ちが届いたのなら、手児奈はこの井戸で待っているはずだった。
俺はかわらけに、石を組んだ井戸の形と柄杓の形を描いたのだ。
真間村には井戸は一つしかない。毎日、夜が更けて暗くなってから俺はこの井戸に水を汲みにきていた。昼間は村の奴らと顔を合わせてしまうおそれがあるので、それを避けていた。
この井戸のことは一度だけ手児奈に話したことがある。
井戸は常に満々と清水を湛えて縁から溢れ、普段は手でもすぐに掬いとれる程だ。しかし、朔の夜だけは違った。なぜかは分からないが、井戸の水が急に減るのだ。だから朔の夜だけは、瓶に水を汲む時に長い柄杓を使わなければならない。
こんなたわいもない話を手児奈が覚えていてくれるかどうか。しかし、字の読み書きができない俺には他に方法がなかった。
柄杓と井戸の印……これを描くことで「朔の夜に井戸で待っている」と伝えたかった。
「阿止利……」
不意に林の中に涼やかな声が響いた。幻聴なのか、と一瞬疑った。しかし、闇の向こうに手児奈の確かな息づかいを感じる。
「手児奈……!」
俺は瓶も柄杓も放り出して手児奈に駆け寄った。
手児奈の手には、あのかわらけがしっかりと握られていた。
「良かった、会えて……。昼間、阿止利がいないから心配していたんだ。それに、これ……」
「逃げよう、手児奈」
「え……?」
暗闇の中、手児奈が戸惑う気配が伝わった。俺は手児奈に己の気持ちをなんと説いていいか分からなかった。しかし、俺はもう一度言葉を紡いだ。
「手児奈……俺と逃げて一緒に暮らそう」
手児奈が息を呑む。手児奈の青みがかった両目が暗闇にほんのりと光を放って浮かび上がり、何かを逡巡するかのように揺らいだ。
「手児奈……」
俺は手児奈を抱きしめようと手を伸ばした。
その時だった。
日光のような烈しい明るさが俺の目を射抜いた。
「手児奈!」
野太い声が響く。何者かが手児奈の腕を引いて俺から引き離した。
俺は手児奈に追い縋ろうとする。しかし、次の瞬間、俺は胸に強い衝撃を感じ、はね飛ばされるように土の上に仰向けに転がされていた。起きあがろうとしたが、胸を沓で勢いよく踏みつけられた。
「ぐぅ……!」
痛みに耐えかねて思わずうめき声を上げる。そいつは、さらに二度三度と俺の胸に足を踏み降ろした。俺は咳き込み、痛みから逃れるように体を丸めこんだ。
苦しさに歪む視界の中で見上げると、煌々と燃える松明を手にした体の大きな少年が俺を見下ろしていた。年は俺と同じか、いくらか上のように見えた。
少年は俺を冷たく見下ろしながら、腰に履いた剣をすらりと引き抜いた。
「やめて! やめて、兄上! 阿止利は悪くない! 吾が悪いんだ……吾が……!」
闇を裂くような声で手児奈が叫んだ。
「この者はぬしを……国造の娘を拐かそうとした。死に値する罪だ」
「違う! 吾は……」
「ぬしが朔の日に館から抜け出しているのは知っていた。父上や母上に知られれば面倒な事になる故、見て見ぬふりをしておったのだ。しかし、よりによってこのような下賤の者と会うていたとは……。間者に密かに調べさせた。墓守の息子らしいではないか」
そう言って、手児奈が兄と呼ぶ少年は侮蔑のこもった目で俺を見下ろした。俺は身の内がカッと熱くなるのを感じた。殴りかかり、本当に無理矢理にでも手児奈をさらって逃げる己の姿を一瞬だけ夢想した。
しかし、それはできないことだった。相手は手児奈の兄……つまり、国造の長男だ。俺は動くこともできずに地に這い蹲り、斬り殺されるのをただ待つことしかできない。
「兄上……!」
再び、手児奈の声が闇の中に凛と木霊した。
「兄上が阿止利を斬るとおっしゃるのなら、吾も喉を突いて死にます」
声の方を見やると、松明の明かりに照らされ、手児奈が手に持った小刀がきらりと光っていた。手児奈の白く反り返った喉元すれすれに鋭い刃が突きつけられている。
「……」
手児奈と手児奈の兄は、松明の明かりの中でしばしの間、無言でにらみ合った。しかし、ついに手児奈の兄が剣を鞘におさめた。そして、再び俺を見下ろすと、俺の頭を憎々しげに思い切り蹴り上げた。俺は転がり、井戸の石垣に頭をしたたかに打ち付けた。
「……っ!」
息が止まるような痛み。声さえも出せず、頭を押さえてのたうった。
「妹に免じて此度ばかりは許してやろう」
手児奈の兄が鼻で笑う気配がする。
「二度と手児奈に近づくな……次は首を斬り離してやるからな」
手児奈の兄は、そう捨て台詞を残すと手児奈の手を引いて闇の向こうへ消えていった。去り際に、一瞬だけ手児奈と目があった。悲しみの色を湛えた黒い瞳が涙で濡れていた。俺は胸が締め付けられるようだった。いっそのこと、剣で斬り殺されていた方がましだったかもしれない。
俺は一人残された。辺りは再び闇と静寂に包まれていく。
ドクドクと痛みに疼く体をさすりながら俺はゆっくりと体を起こした。頭に手をやると、額が裂けているらしく掌にべっとりと血が付いた。
いつの間にか東の空がほんのりと明るくなっている。
ふと井戸を見ると、水の量が増え、縁から溢れ出た水が石垣を濡らしながら流れ始めたところだった。
朔の夜が明けたのだ。
井戸から溢れた水はやがて細い流れをつくり、鏡ヶ池と呼ばれる塩辛い池へと注ぎ込む。
井戸から流れ出る水のせせらぎの音に合わせるように、俺の目からも我知らず涙が溢れた。
俺は膝を抱え、ただ静かに泣き続けていた。
手児奈とまともに言葉を交わすことができたのはそれが最後だった。
その後、手児奈は二度と墓場に姿を現さなかった。
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