手児奈の死

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手児奈の死

「網にかかっとった」  浅黒く日に焼けた肌の漁師の男は、堅い表情で俺の目を見てそれだけ言った。  ドサリ、と投網にぐるぐると巻かれた「何か」が地面の上に置かれた。漁師達が二人がかりで墓場の隣の俺の家まで運んできたものだ。まだ霧が辺りに薄く漂う薄闇の早朝だった。  漁師は投網をたぐり寄せるように広げた。中にあったモノの姿が明らかになる。しかし、それが何であるのか、俺は自分の目で確かめるよりも前になんとなく分かるような気がしていた。  網の中から現れたのは、手足を丸めた格好でぐったりと横たわる白い女の姿だった。  漁師がたぐり寄せる網が女の体から離れ、女の体は土の上にごろりと転がる。しかし、女の長い黒髪はなおも網に絡みついていた。漁師は屈み込んでそれを外そうとする。妙に慣れた手つきで、まるで網に取り付いた藻を一本ずつ剥がすように。網の目に複雑に絡みついた髪を器用に一本一本取り外していく漁師の太い指の動きを、俺は何も言わずにただぼんやりと眺めていた。 ――手児奈が死んだ。  俺は胸の内で呟いたが実感は伴わなかった。  目の前に横たわるその姿は、川の水でぐっしょりとそぼ濡れてはいたが、生きている頃と何ら変わりなく美しいままだったから。  漁師達は作業を終えると投網だけを持って立ち上がった。遺体をどうしろとも俺に対しては何も言わなかった。  しかし、奴らの考えていることはだいたいは分かる。  本来であれば国造の娘が亡くなったのならば国府に届け出るのが筋だろう。しかし、手児奈は国造の一族から拒まれて村外れに住んでいた。果たして国府に届け出るべきか、しかし、正直に届けてかえって要らぬ嫌疑をかけられても困る……そのように考え、結局、墓守である俺のところに運んできたのだ。はっきり言ってしまえば、扱いあぐねて墓場に捨てにきたようなものだ。万一、国府から良からぬことを疑われるようなことがあったら俺に罪をなすりつけようという気持ちもあったかもしれない。  二人の漁師は手児奈を置いて立ち去っていった。そのうちの一人、年配の男が手児奈の顔をしばし見下ろして、「可哀想にのう」と誰に言うともなくポツリと呟いていったのが耳に残った。 「手児奈……」  一人になった俺は膝をつき、手児奈に呼びかけてみる。手児奈は今にも瞼を開けて俺のことを見上げてきそうに見えた。  しかし、いくら呼びかけたところで死んだ者を呼び起こすことはできない。少なくとも俺はそのような術を持ってはいなかった。  空の色が徐々に日の光を帯び始める。しかし、墓場の中にはうっすらとした靄が未だ留まったままだ。乳白色の靄の中を意思を持たない死霊達が力なく漂い歩いているのが俺の目には見える。死霊の中には手児奈らしき気配はなかった。  昨日の手児奈の悲痛な叫び声を俺は思い出す。そして、薄の原の中に倒れながら悲しげに目を見開いて天を仰いでいた彼女の顔を思い出す。それに比べて、今の手児奈の顔は穏やかで、全ての苦しみから解き放たれて安らいで見えた。哀しみと苦しみに満ちたこの世にもはや未練などないのかもしれない。  俺は手児奈の体を抱き上げようとした。その時、俺は彼女の右手がしっかりと何かを掴むように握りしめられていることに気がついた。妙に気になって、固くなった手児奈の指を一本一本ゆっくりと伸ばすように開かせていく。  ふと、手児奈の手の中から転がり落ちたものがあった。拾い上げる。小さな守り袋だった。俺はそれに見覚えがあった。  震える手で守り袋の中にあるものを探る。小さな壷……。 (ぬしにもらった魔除けの灰をいつも持ち歩いているんだ)  不意に手児奈の声が耳の奥に蘇り、反響した。 ――そうだ、これは俺が手児奈に渡した灰……子供の頃、手児奈はこの壷に入れて持ち歩いていたのだ。  俺は掌に載せた壷を見ながら、動くことができなくなった。  手児奈を守る魔除けの灰……しかし、この灰は手児奈をあやかしから守ることはできても、人の世の身勝手さから手児奈を守ることはできなかった。  身勝手だったのは、手児奈の継母であり、手児奈の父の国造であり、上総国の国造と息子であり、そして、荒嶋であり……そして、俺であった。  手児奈は、周りの人間達の身勝手さに振り回され、傷つけられ、心を失い、そして自ら命を絶ったのだ。  気がつくと俺は壷を力の限り握りしめ、額が地面に着く程に体を折り曲げて嗚咽していた。
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