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出会い
手児奈と俺が出会ったのは、下総の国は勝鹿の真間村だ。俺はそこで生まれ育った。真間のすぐ近くには、下総の国一帯を治める国府が置かれている。そのためか小さいながらも人の往来が多く、豊かで賑やかな村だったと覚えている。
しかし、俺はそんな賑やかさからは弾き出されたような暮らしをしていた。俺の家は、村を取り巻いて掘られた壕の外側にあった。家といっても、浅く掘り抜いた土床の上に木の柱を組んで茅を葺いただけの粗末なものだ。親父と俺の二人で住む小さいその家は、墓場の脇にひっそりと立っていた。
村人が死ぬと、こんもり盛り土をして築いた墓の中に埋めることになっている。家や血縁ごとに屍を埋める墓は決まっていた。俺は、墓場の中でひしめくように立ち並んだ寡黙な墓達を眺めながら育った。俺の親父は墓守で、俺はその息子だったのだ。
初めて手児奈と出会ったのもやはり墓場だった。大宝二年(702年)。俺が八つくらいの時分だったか。手児奈は体が小さくて、俺よりも幼く見えた。
初めて見かけた時の手児奈は一人きりで墓の盛り土の影に座り込み、手で顔を覆ってしくしくと涙を流しているところだった。親父がいない昼間は、俺が墓場の見回りをすることになっていた。最初、俺は少し離れた所からそれを見つけ、あやかしではないかと訝った。村の者は死人が出た時以外はこの墓場にはほとんどやってこない。女の童であれば尚更のことだ。
――子供の姿をして油断させて、通りがかった者を食おうとする鬼かもしれない。
俺は音を立てぬよう、少し離れた墓の盛り土の影にそっと身を潜めて、不審な童の様子を伺った。
童はいつまでも泣きやまない。時々、思い出したようにしゃっくりを上げる。俺はそれをじっと眺めていた。
華奢な肩がおこりのように震えていて、糸のように細い黒髪も肩の上で一緒にさらさらと揺れている。顔を覆う手の色は池の水面に張った薄氷のように滑らかで白い。そして、細い指の間からは、透き通った涙の粒がとめどなく滴り落ちる。その涙は、磨き抜かれた玉石に似て清廉な暖かい光をその内側に宿しているかのように俺には思えた。
――美しい……きっと人ではなく鬼だから、あんなに美しいのだ。人の心を惑わそうとしてる……俺は惑わされない……惑わされてなるものか。
俺は懸命に己自身に言い聞かせ、気を引き締めようとした。
そうして、しばらく経った頃……童のすぐ傍らに、いつの間にかぼんやりと白い靄のようなものが立ち現れていることに気がついた。
靄は膨らんだり縮んだりしながらゆらゆらと揺らめいている。よく見ると人間の形をしていることが分かる。
死霊だ、と俺は思った。
童は死霊の靄には気がつかない様子で相変わらず泣きじゃくっていた。
――鬼であれば下等な死霊は近づかない。むしろ逃げていくものだ。それにあいつは死霊にまったく気がついていない。見えてもいない……どうやらあの童は、あやかしではなく本当に人間の子供らしい……。
俺がそのように考えた次の瞬間、死霊はふわりとその場で伸び上がり、童を頭の上から包み込むような動きを見せた。
俺は勢いよく草むらから駆け出す。親父に教わったまじないを口の中で唱えながら、腰に下げた皮袋の中の灰をつかみ出した。力一杯に死霊の影に向かって灰を投げつける。
死霊はぶるぶるっと体を小刻みに震わせた後、くしゃりと崩れるように土の上に落ち、そして消えた。
俺はふぅっと安堵のため息をついた。
ふと傍らを見ると、童がびっくりした顔をして、口をぽかんと開けながら俺を見上げていた。涙は止まったらしい。
「……引きずられそうになってたから……。気をつけろ」
気まずさを感じながら、俺はぼそぼそと小さな声で言った。童は俺の言うことがよく分からないという顔をしている。そりゃあそうだろう。死霊やあやかしの類が見える人間などそう多くはない。
「……ぬしはだぁれ?」
不意に童が俺を真っ直ぐに見つめながら口を開いた。俺は驚いた。ためらいもなく俺に話しかけてくるやつなんてこの村にはいるはずがないのだ。
墓守は死のケガレを身にまとう不吉なモノ。だから、親父も俺も村人達から避けられていた。墓守に話しかけてはいけない。目を合わせてもいけない。それが口には出して言わない、村の掟。
「吾は手児奈という……ぬしの名は?」
俺がいつまでも黙っていると、手児奈と名乗る童はじれたように再び問うた。
「阿止利……」
渋々と俺は名乗った。
「あとり……」
注意深く確かめるように、薄紅色の小さな唇が俺の名をささやくように呟く。
「阿止利……なぜ阿止利は走ってきたのだ? 白い粉のようなものを撒いていた……何を撒いていた?」
手児奈は全く物怖じする様子を見せない。さっきまで泣いていたのが嘘のように好奇心で目をきらきらさせながら俺に話しかけてくる。
「魔除けの灰……悪いあやかしを追い払ったんだ」
墓守の仕事は屍を土に埋めることだけじゃない。墓場に集うあやかしや死霊達が暴れないように見張る役目もある。だから俺も親父から魔を払う法やまじないを幾つか教わっていた。
「ふぅん……」
手児奈は俺の言うことをあまり飲み込めていないようだったが、ありがとう、と言ってにっこり笑った。
「お前こそ、なぜこんなところに一人で来て泣いていたんだ?」
俺は率直に問うた。
すると手児奈の目から急に光が消えた。青菜が萎えるように元気がなくなり、しょんぼりとした様子で俯いてしまった。また泣き出すのではないかと思い、俺は身構えた。
だが、手児奈は泣かなかった。
「母上が吾はいらない子だと言う……兄上も吾にいじわるをしてばかり・・・・・・」
震えるような声でそれだけ言うと口を噤んだ。
何と言えばよいのかわからなくて、今度は俺が「ふぅん……」と呟いた。
「館では泣けない。一人になれるところを探していたらここに来た……ここは静かで良いところだ」
手児奈は再び顔を上げて微笑んだ。しかし、それは寂しい笑顔だった。
「でも、あやかしがいるぞ。手児奈みたいな子供がここに来たら、あやかしや悪い霊に引っ張られてしまう」
「そうなのか?」
手児奈はきょとんと俺を見る。やっぱり、あやかしの話はまるで分かっていないようだ。
手児奈はしばらく何かを考えた後、俺の腰の皮袋を指さした。
「では、魔除けの灰をおくれ。そうすればあやかしが寄ってこないのだろう?」
手児奈はそういうと、俺の返事も聞かずに浅葱色の小さな美しい布を懐から取り出して俺のほうに差し出した。
俺は押し切られる形になって、その布の上にひとつまみの灰を載せてやった。
「ありがとう、これでまたここに来られるし、阿止利に会える」
手児奈は屈託がなかった。灰を包んだ布を懐に入れると、もう帰らなくては、と手を振って跳ねるように墓地を出て行った。俺は手児奈の後ろ姿を見送りながら、彼女の行く先が村のある方角とは違うことに気がついていた。
手児奈が歩いていく先には国府や貴族達の屋敷がある。
手児奈の身なりやしゃべり方からして、きっと身分の高い家の娘なのだろう。都から下総の国府に遣わされた役人の娘なのかもしれない。だからきっと、墓守の息子である俺にも平気で話しかけたのだ。
手児奈は、また来る、と俺に言った。しかし、きっともうここには来ないだろうと俺は思った。大人達に知られれば「墓守の子供等とはもう口をきいてはいけない」と止められるだろうし、手児奈も成長すればいずれ「墓守はケガレの者」とみなすようになり、墓場も俺のことも避けるようになるだろうから。
だが、俺の考えは外れ、手児奈はその後も何度も墓場にやってきた。墓の盛り土に躊躇うこともなく腰を下ろし、俺を相手に他愛ないおしゃべりをする。かと思うと、何も言わずにぼんやりと空を眺めていることもあった。
死霊はもう手児奈を襲おうとはしなかった。
「ぬしにもらった魔除けの灰をいつも持ち歩いているんだ」
手児奈は帯に下げた守り袋の中から、指で摘めるくらいの小さな薄緑色の壷を出して見せてくれた。蓋を開けると確かに中には白い灰の粉が入っていた。しかし、その灰が本当に手児奈の身を守っていてくれたのかどうかは俺にはよくわからない。
手児奈はいつも唐突に墓場に現れたが、やがて俺は、手児奈がやってくる日にはある決まりがあることに気がついた。手児奈が来る日の晩は、なぜか決まって空から月が消える夜だった。
星だけが光を瞬かせる暗い夜……「朔」と呼ばれる日。
朔の日が過ぎればやがて月はほっそりとした姿を現し、だんだんと太り、円くなる。そして円くなった月は今度はたちまち痩せていき、細く細くなる。そうして再び、月の消える晩が近づいてくる。それが手児奈が来るという知らせだった。
俺は毎晩、月の形を見るために、真剣に空を見上げた。月の形が日に日に細くなる頃になると、嬉しいような恐いような気分に心が浸されて揺り動かされるように、どうにも落ち着かなくなった。
親父には手児奈のことは言わなかった。親父は昼間は墓場にはおらず、国府前の通り沿いで物乞いをしていた。墓守の仕事で得られる銭だけでは暮らしてはいけない。村の者達は親父のことは避けていたが、少なくとも目抜き通りを行き来する役人や旅人達は、親父が墓守だ云々だのに頓着はしなかった。道端の物乞いに幾ばくかの銭を気紛れに放り投げていくこともたまにはある。それに加え、道を行く牛馬の荷の積み降ろし等に人手がいれば、親父も人足を買って出て働き、少ないながらも報酬を得ていたらしい。
そんなわけで、半年ぐらいは手児奈のことは秘密にしていられたが、ある日、たまたま親父が昼も早い時分に墓場の家のほうに戻ってきていた。俺はそれに気がつかず、墓の横でいつものように手児奈と話し込んでいた。
手児奈が去った後、親父が俺の前にぬっと現れた。あの娘は誰だ、と親父は責めるような低い声で俺に問いつめた。こうなってはしらばっくれることもできず、手児奈の名を告げた。すると親父の顔色がたちまち蒼白になった。
「あの娘とはもう会っちゃならねぇ」
「なぜだ。手児奈が貴族の娘だからか? でも、俺が会いにいったわけじゃあない。あいつが……手児奈の方からここにくるんだ」
俺はムキになって親父に言い返した。
「手児奈様はただの貴族の娘じゃあねぇ。国造の娘御なんだ。お前が国造の姫様としゃべったとしれたら、俺もお前も首を切り落とされるぞ!」
親父は俺の頬を張り倒した。しかし、俺は殴られた頬の痛みよりも親父の語った言葉に強く打ちのめされた。
手児奈が国造の娘だと……?
信じ難かった。広大な下総の地を治める国造の娘が、村の者に人として扱ってももらえぬような墓守の子に会いにきていたなど……。しかし、一方で手児奈が貴人の姫だと聞いて俺の中で妙に納得するものがあった。手児奈のたおやかな所作や清らかな美しさはあまりにも人離れしており、俺にとってはまさに天上から舞い降りてきた天女のようなものだったのだ。
俺にとっては天女であろうと姫であろうと大して変わることはない。しかし、国造の娘だからという理由でもう会うことができないのであれば、天女よりも不都合だ。もう二度と手児奈に会えない。そう考えるだけで俺は身を切られるように辛かった。
俺は心に決めた。
――手児奈を連れ去り、一緒に逃げよう。
今思えば、いかにも子供らしい性急な思いつきだ。しかし、その時の俺は至って真剣だった。
初めて墓場で手児奈と出会った時に彼女の頬を伝っていた涙を思った。手児奈は母や兄に意地悪をされているという。手児奈の話から、手児奈の生みの母は既に死んでいて今の母親は継母であるということは知っていた。兄というのも異腹の子だ。
一見して恵まれ過ぎた育ちであっても、手児奈にとっては針の筵のように辛いのだ。
手児奈を救わなければならない。
その日以来、俺はそのことだけを考えるようになった。
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