嫁入りの舟

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嫁入りの舟

 手児奈と最後に出会った朔の夜から月日は瞬く間に流れた。  十五の年、親父が死んで俺が墓守の仕事を継いだ。  親父が死んだ時のことはよく覚えている。  ある日、夕刻近くになっても親父が帰らなかった。俺は胸騒ぎを覚えて、いつも親父が物乞いをやっている通りまで探しに出かけたのだ。  親父は頭から血を流して道端に倒れていた。呼び掛けたが返事はなかった。  通りすがりの役人が道端にただ座っていただけ親父を、邪魔だ、と言って馬で蹴り殺してしまったらしい。近くにいた別の物乞いが教えてくれた。  役人に殺された親父の死体は道行く人たちの誰にも省みられず、今の今までまるでごみのように道の端に転がされていたというわけだ。 「親父さんを運んでやれりゃあ良かったんだが、俺は足が悪くてなぁ。すまんなぁ」  俺に事情を教えてくれた物乞いの男は申し訳なさそうにそう言って、冷たくなった親父に向かって手を合わせてくれた。それだけが救いだった。  俺は親父を背負って帰り、一本の松の木の下に穴を掘って埋めた。俺たち墓守は自分たちが守る墓場に葬られることはない。この墓場に葬られるのは「真っ当な村人」だけだ。墓守は死んだ後もケガレの者だと言われ続ける。  俺は親父の体を墓穴に横たえながら考えた。  理不尽に殺された親父は恨んでいるだろうか、と。自分を殺した役人を。親父を無視し続けた村の者達を。そしてこの世の全てを……。  俺は親父が死霊となってさまよわぬよう、親父の胸元に魔除けの灰を置き、その上から土を被せた。  俺は親父が死んだ次の日から、大通りに物乞いの働きをしに出るようになった。働きといってもほとんどは道端にただ座っているだけだ。  しかし、下総国の国府前の目抜き通りだけあって、ただそこにいるだけでも様々なことが目や耳に入ってくるようになった。おかげで手児奈に関わる噂もいくつか聞くことができた。  国造の正室は都から下ってきた女で、名を()()()といった。帝の遠縁に当たる血筋らしい。当然、気位が高く、国造も高貴な出自の妻には頭が上がらない。それに加え、沙由子は大層嫉妬深かった。国造には数人の側室がいたが、その何人かは正室の沙由子が追い出してしまったという噂がまことしやかに囁かれている。  手児奈はその国造の側室の娘だという。  手児奈の亡くなった実の母はもともとは身分の低い婢女(はしため)だが、万人の目を奪うような月の如き美貌だったため、下総の国内の小豪族から国造に貢ぎ物として献上されたのだ。側室の中でも最も身分卑しい出自ではあったが、国造は殊の外この女を愛おしんだ。そして、その娘である手児奈にも愛情を注いだ。  一方、沙由子にも子があった。荒嶋(あらしま)という名の男子だ。この荒嶋こそ、あの朔の夜に手児奈を連れ戻しにきた手児奈の兄だった。  沙由子は、国造の跡継ぎたる息子の荒嶋を溺愛する一方で、側室の娘である手児奈には辛く当たるのだという。  幼い頃、手児奈が「母上は吾をいらない子だという。兄上も意地悪をする」と言って嘆いていたのはこういうわけだったのか、と俺は改めて思い返した。  俺は物乞いの仕事をするようになってから、何度か荒嶋の姿を見かけた。街道を行く国造の煌びやかな行列の中で、あるいは、荒嶋が供の者を連れて遠駆けに出かける時に、荒嶋はいつも胸を張って颯爽と馬の背に跨がっていた。  荒嶋が俺に気がつくことはなかった。そもそも庶民など虫けら程度にしか思っていない男だ。通りの端に座る物乞いに気を留めるはずもない。  俺は、いつも、無駄とは知りながら荒嶋の近くに手児奈の姿を探した。しかし、手児奈の姿を目にすることはできなかった。館の内に籠もっているのだろう。それに、かつて朔の日に館を抜け出していたことが分かって以来、見張りを厳しくされているのかもしれなかった。  結局、俺が再び手児奈を見ることができたのは、手児奈の嫁入りの時だった。俺が十七の年のことだ。手児奈と最後に出会ってから十年近くの時が経っていた。  手児奈の嫁ぎ先は上総国の国造だった。真間の手児奈の神々しいまでの美しさは、遠い上総の国にまで話に伝わっていたらしく、彼の地の国造が手児奈を求めたのだという。  手児奈が旅立つ日は、美しい姫の晴れの姿を一目見ようと、通りに人が溢れて大変な騒ぎだった。  俺は通りの方には行かなかった。その代わりに俺は、一人、墓場の南にある入り江に向かった。  真間の入り江は太日河(おおいがわ)(現在の江戸川)に面して複雑に入り組んでおり、いくつもの砂州が川の上に顔を出している。そして、その砂州を繋ぐようにいくつも継橋が架け渡されていた。その中の橋のひとつに俺は立ち、川の方をじっと眺めた。手児奈は舟で太日河を下り海路で上総の国に向かうと聞いたからだ。ここで待っていれば必ず手児奈の乗る舟が通るのを目の前で見ることができると信じた。  長い時が過ぎた。頭上にあった日が西へ傾き、東の空にうっすらと夕闇の色が滲もうかという時分になった時、舟はゆっくりと入り江の合間を縫い、水面を切って流れてきた。漁師の舟とは比べようがない程立派で、美しく滑らかな白木で造られた大きな舟だった。  舟の舳先近くには手児奈が真っ直ぐに前を見て佇んでいた。手児奈は鮮やかな朱色の衣を纏い、豊かな黒髪を頭上にふんわりと結い上げて金色の髪飾りで飾り付けている。  久方ぶりに見た手児奈は艶やかさが増し、俺の記憶にあった幼い頃の手児奈よりも更に美しくなっていた。天女、という言葉がまさに相応しいほどの優美さであった。  俺は声を出すことも出来ず、ただぼんやりと突っ立って船上の手児奈に見とれていた。もう二度と会うことはできないのだ。俺に気がついてほしいという気持ちはもちろんあった。しかし、俺のような身分の者が貴人に声を掛ける等許されないことだ。俺もガキの頃に比べたら幾らかの分別は持ち合わせている。  その時、不意に俺の耳にガタンガタンッ、と木が激しく打ち合わされるような音が響いた。驚いて横を向くと、別の橋に馬に乗ったままの荒嶋がいた。俺はぎょっとして後ずさったが、荒嶋は俺のことには全く気がつかない様子だった。荒嶋の眼差しはただ舟の上の手児奈だけに注がれていた。 「手児奈ぁー!」  荒嶋は叫んだ。舟の上の付き人達や漕ぎ手が驚いたように振り返るが、荒嶋の姿を認めると皆、慌てて頭を下げた。  しかし、手児奈は振り返らなかった。荒嶋の声が聞こえていないはずはない。それでもなお、手児奈は毅然として背筋を伸ばし、行く手を真っ直ぐに見つめている。その姿は幸せになりにいくというよりも、むしろ戦地へと戦いに赴くような悲壮さを漂わせていた。  荒嶋は悄然として肩を落としていた。  幼い頃は手児奈に意地が悪かったという荒嶋だが、本心では手児奈に格別の感情を抱いていたのではないか、と俺はふと思った。  手児奈を乗せた舟が川の向こうへ消えていくのを、荒嶋と俺はいつまでも見送っていた。
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