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<月の満ちたる夜>
薄い麻布のかさかさと乾いた感触を素肌に感じて俺はゆっくりと瞼を上げた。
眠りから覚めたばかりで頭の中に靄がかかっているようだ。
懐かしい夢を見ていた。真間村にいた時の夢を……。
人として扱ってももらえないような墓守として暮らしていた日々……辛いこと、苦しいこと、惨めなことの方が多かった。しかし、手児奈と会えた。短い間ではあったが、まだ幼い童だった手児奈と出会えたあの日々が俺にとっては唯一幸せな時だった。
手児奈…………。
遠い記憶を心に呼び起こそうと再びゆるりと目を閉じかける。しかし、それはならなかった。男の太く熱い腕がすぐ隣から伸びてきて俺の体を胸元に引き寄せた。
ああ、そうか。俺はこの男に抱かれていたんだっけ。
「眠れないのか?」
男は俺の耳元で囁きながら、片手で俺の秘部をまさぐった。俺は体を反らせて淫らな嬌声を上げてやる。
屋根に拭かれた茅の隙間から月の明かりが零れ、だらしなく絡まり合う俺たちの姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。
あの日、天から姿を消していた月は太く円くなった。それは、俺が山賊達に拐かされてからおよそ半月が経ったということを示していた。
俺は山賊達を殺した後、立ち寄った村で「身寄りをなくした哀れな貴族の娘」として涙ながらに助けを求めたのだった。事は俺が思っていた通りにうまく進んだ。村の中に新しく建てられた家に住み着いた俺に、親切を装って近づいてくる男は多かった。俺はその中から慎重に一人を選んだ。
俺の美しさに最も心酔している男……そして、格別懇意にしている女もおらず、子も親もなく、孤独な者。……死んでも誰も困らぬ者。
それが今、俺の体を貪っているこの男だった。名前は覚えていない。名を覚えてしまうと情が移ってしまって良くないから。
男が俺に口づけ、俺の唇を割って舌を差し入れてきた。俺はそれに答えるように男の舌を吸った。
粘ついた塊が虫のようにうごめき俺の口の中を蹂躙する。
「ああ……ふ……あぁ……」
俺はため息混じりの声を出しながら、男の背中に縋るように手を回し、そして、前歯を男の舌に突き立てた。
ガリリ、という硬い歯ごたえ。鉄錆じみた血の味が口の中いっぱいに広がった。
瞬間、男の体にぶるぶると激しい震えが走った。
「うっ……うっ……ぐううううういいいぃぃぃっおおおおおおお……おおおお……!」
男は突如として仰け反り、両手で顔を覆って獣のように吼えてもんどりを打った。その手の隙間からは生臭い血がたちまち湧き水のように噴き出した。
俺は噛み千切ったぬるぬるした舌の塊をぺっと口から吐き出すとゆっくりと立ち上がった。奇妙な叫び声を上げて狂ったように転げ回る男を見下ろす。
俺は男の背を蹴り上げた。
「ぐっ……くあああ……あああ……」
男は白目を剥いて、釣り上げられたばかりの魚のようにびくりびくりと体を大きく反り返らせる。
――無様だ。……滑稽な程、無様だ……。
俺は口元の血を拭いながら、かつて荒嶋に蹴り倒されて地に這い蹲って呻いていた己のことを思い出していた。
――荒嶋もこんな風に俺を見下ろしていたのか。無様な俺の姿を……嘲笑いながら……。
荒嶋が俺のことを鼻で笑った、あの時の息遣いが不意にはっきりと耳に蘇ってくるような気がした。
俺は柱に立てかけてある畑仕事用の鍬を手にとった。そして、血にまみれて呻き声を上げ続ける男の頭に向かって、おもむろに鍬の刃を振り下ろした。
顔についた血を拭い取り、衣を身に纏うと外に出た。頭上には円い月が煌々と光り輝いている。思わず目を細めた。
近くの家々から息を潜めてこちらを伺っている気配を微かに感じた。先ほどの騒ぎで起こしてしまったのだろう。しかし、構わなかった。たとえ俺のことを追ってきたところで村の者に何ができよう。今の俺には、屈強の男ですら赤子のように容易く殺すことができるのだ。
俺は、いつまでも消えない血の味を喉の奥で味わいながら、もう二度と戻ることはないであろう村の壕を渡った。行く手の道は白い月に照らされている。
行く当てなどどこにもない。
それでも俺は真っ直ぐに足を踏み出した。呪われたこの体を、この心を、誰かの血で潤すために、俺はきっとこれからも男達を殺め続けるだろう。
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