完璧な作戦

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完璧な作戦

彼は錆びた時計を覗き込んだ。ゆっくり分針が12の文字盤を捉えるのを確認するといそいそと「感情銀行」のドアを開けた。 10年前から始まった感情の売買。これで確かに貧富の差は多少なりとも改善した。貧しい人間は喜びを売り、金持ちに売る。金持ちは金と共に負の感情を差し出す。その取引は直接もできるが基本的にはこの感情銀行で取引される。 毎週金曜日の午後3時。彼の取引はいつもこの時間に予約されている。週末を前にクソったれた感情を捨てたい金持ちのお陰でレートがあがるのを彼は知っているのだ。 彼はストレージに溜めた僅かな喜びを送り、引き換えに大量の負の感情と数枚の紙幣を受け取る。 これで1週間は凌げる。そんな安堵、喜び、達成感を彼は噛み締めない。またストレージに貯めれば僅かでも金になるのだ。 彼は無表情のままいつもの決まった場所、繁華街の裏路地で息を潜め、引き受けたありったけの悲しみや怒りを今日もロードする。 負の感情は廃棄が出来ない。消費しなければ世界から感情が枯渇してしまうからだ。 涙で済めばいい、反吐が出るような感情が押し寄せて吐いてしまうことも、気絶することもある。ただ、日々このノルマを消費するしかない。そうしなければ生計が成り立たないのである。 ただ今日は違った。彼の指定席には1人の女性が立っていた。薄汚れた路地には似合わないような、清楚な服を身に纏った女性。彼が訝しげに彼女を見るのも気にせずに彼女は笑顔で切り出した。 「憎しみを売ってくれないかしら」 彼はひどく馬鹿にされているように感じたが、混みあげようとする怒りを無理やり押さえ込んだ。今日もノルマの感情が山のようにある。彼自身の負の感情ほど無駄なものは無い。 「どういう意味だい?」 穏やかな口調で聞き返す。 「殺したい人がいるの。ただそう出来る感情を持ち合わせていないのよ。」 彼女は続けて事情を説明してくれた。 彼女の家はとても裕福だ。父親が家族の負の感情を集め、喜びや快感に変えてくれる。彼女は悲しみや怒りなど知らずに育ってきた。ただ、父親にはもう一つの顔があった。病的なサディストの顔だ。彼は妻に暴力を働いた。母親は暴力を受ける悲しみや痛みの感情を感じることもなく、笑顔でただその仕打ちを受けた。ただ肉体の傷は消えることはない。日に日に母親は衰弱していった。顔には笑顔を浮かべながら。彼女は母親を助けなくてはと考えた。そしてそれには父親を殺すしかないと考えたのだ。しかし、生憎それを実行する感情を持ち合わせていないのである。 彼は困惑した。確かに彼の3日分程の感情を渡せば殺人くらい働けるだろう。ただ、怒りなど知らない無垢な少女にこのクソったれた感情を売って人を殺めさせることなどできるのか。彼の心に彼女を慈しむような優しい気持ちが湧いた。いや、この優しい感情もストレージに入れれば別の金持ちに売れる。そうすれば一石が二鳥にも三鳥にもなる。 彼はそこまで考えると彼女から金を受け取り、ストレージを転送し、こう伝えた。 「この感情は殺人をするまで決して開くなよ。恐ろしい代物だから。」 彼女は頷くと路地を後にした。 彼女が帰るのを見届けると彼は彼女の父親の元に向かう覚悟をした。彼の作戦を実行するための感情は腐るほど持ち合わせているのだ。 そしてそれを実行した頃に、彼女はあの慈しみの感情をきっと開くだろう。その優しさで母親を癒してやればいい。こんな完璧な作戦があるだろうか。
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