わたしには、ヒミツが、ある。

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「それで? 受け入れちゃったんだ? 同棲」  専務室からドアを一枚隔てた外側の秘書室で、わたしのデスクの上に向かい側から斜めに腰をかけているこの人は、佐伯祐司(さえきゆうじ)。名目は専務第二秘書。専務の従兄弟であり、彼の人となりをよく知っている——つまり、唯一、わたしがここにいる理由を知っている人物なのである。 「違いますよ。同棲じゃなくて、同居です。同居。いったぁ……」  ——そんなに無遠慮に触られたら、痛いですってば。  わたしはいま、彼に顎をつかまれ、至近距離から頬の殴られ具合を検分されている。 「あ、やっぱり痛いよね。バッチリ手の痕付いてるもん。こりゃ、痣になるかなぁ? あの長い爪で引っ掻かれなかっただけマシってところか」 「ん……ですね」  あんなヤツのために顔に引っ掻き傷を付けられるなんてシャレにならんのだが——目の前のこの人はわたしの心配なんてしていない。眉を顰めているわりに目が笑い、鼻歌まで聞こえてきそうな顔をしている。 「このままじゃあれだな。湿布でも貼るか」  机の上には、蓋の開いた救急箱。傷の具合を確かめつつ、消毒液に脱脂綿、絆創膏、湿布薬に軟膏と、ひとつずつ手に取って効能書きを熟読し、どれを使おうかと眺めている。その傍らには、氷嚢。最早遊んでいるとしか思えない。 「顔に湿布なんて……目に染みるし見た目最悪だし嫌です勘弁してください」 「だよねー。じゃ、とりあえず冷やそっか」  氷嚢を頬にギュッと当てられた。冷たい。  最初から冷やせばいいだけじゃないか、とは、手当てをしてもらっている手前、言えないけれど。 「しっかし。いきなり殴るなんて、すげーお嬢ちゃんだ。尤も、あんただって大人しくやられているだけなんてわけはないんだろうけどさ」 「当然、反撃はさせていただきました」  そうだろうそうだろう、と、目の前の顔が楽しげに頷く。 「それにしても要のヤツ、ついに婚約だ同棲だって社長の前で言い切ったのか。しかも、あんたまで同意するとはね」 「同意なんてしていません。成り行きで嵌められたんです。それに……佐伯さんだって」 「俺は共謀してないよ?」 「でも、ご存じだったのなら」 「訊かれてもいないこと、知ってたってわざわざ言わないさ」  言っちゃったら面白くないもん、って、あなた、他人ごとだと思って。他人ごとだけれども。 「でもさ、あんたも往生際が悪いよね。要と同棲するって決めたんだろう? だったらこの際、あいつにおいしくいただかれちゃえばいいんだよ」 「冗談は止めてください。わたしは専務のご飯でもデザートでもありません。それから、何度も言いますが、同棲じゃなくて『同居(・・)』です」 「ハハハ。拘るね。男と女が一つ屋根の下で暮らすことに変わりはないんだから、どっちでも一緒でしょうに」 「それに、まだ同居すると決まったわけでもありませんし」  無駄な抵抗とばかりに、冷ややかに睨まれた。 「じゃあ訊くけどさ。相沢あんた、縋り付く要を振り切れたことってあるの?」  無い。  はじめて出会ったあの日から、今日まで一度たりとも、あいつが言いだしたことを断れた試しは、無い。  もちろん、できないこと、したくないことに関しては、必ず抵抗を、した。したが——結果的にあの泣き落としに負けてしまうのだ。 「しかしですね……そもそも、わたしが専務に付いているのは」 「女避けだろ? それがなに?」 「なにって……ですから、専務がわたしなんかと男女の関係を望むなんて到底有り得ないんです。佐伯さんだってご存じでしょう?」 「そうかな? 直接聞いたことはないけどさ、あいつ、案外本気であんたに惚れてんじゃないかと俺は睨んでるんだよね?」 「そ、そんなわけ」 「ぜったいに無いとは言い切れないでしょ? 蓼食う虫も好き好きって言うし、あんただって、よく見れば案外かわいいし? 要の御手付きじゃなかったら、俺だってお願いしたいくらいだよ」  よく言うよ。あんたも専務も——口先だけなら、なんとでも言える。  こんなに見目麗しくハイスペックな男に顎クイなんぞされ、耳元で甘い言葉を囁かれれば、大抵の女はコロッと落ちるのだろうけれど。  幸か不幸か、持って生まれたこの特異能力のおかげで、わたしには、この手の戯れ言は一切通用しない。 「冗談も大概にしてください。好い加減にしないと怒りますよ?」  相沢優香。恋愛に夢を見ることもなければ、はじめから望みのない相手に想いを寄せることも無く生きること、早、二十五年。 「その目! いいねー。そそられるわ」  いまだ誰からも(・・・・)、恋慕の情を向けられたことは、無い(・・)
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