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「九時方向。距離およそ八メートル」
わたしの言葉を受け、並んで歩いている上司が小さく頷き、方向転換。非常階段への扉を開け、中へ滑り込んだ。
音を立てないようにそっと扉を閉めて息を潜めた途端、カツカツとヒールの音を響かせ、女が通り過ぎていく。
間一髪だった。
ドアの脇の壁に背を貼り付け気配を消した上司が「危なかった」と呟き、ふーっと細く長く息を吐く。
「どうせあの女の行き先は、俺のオフィスだろう。いま戻るのは危険だな」
上司が汗も掻いていないのに、額を拭う。
「どうします? ここで時間を潰すというわけには……」
「急ぎの話でもないが——まあいい。このまま直接、階段伝いに社長室へ出向くとするか」
「わかりました」
頷いて一歩下がったわたしを斜めに見下ろし、フフンと上司が笑った。
「あんた、そうしてると、ホンモノの秘書みたいだな」
なに言ってるの、こいつ。
白い目で斜めに上司を見上げ睨みつける。
「いまはホンモノの秘書ですよ。忘れてしまったんですか?あなたが客室清掃のアルバイトをしていたわたしにどうしても傍にいて欲しい力を貸して欲しいと泣いて縋り付くから、やっとの思いで内定にまでこぎ着けた仕事を諦めて、仕方なく! 何の興味も無かった秘書検定まで受けて、あなたの第一秘書になったんじゃありませんか」
破格の条件に惹かれたのも、正直なところではあるが、恩を売ることを優先する。
因みに、第二秘書こそがホンモノ中のホンモノの秘書だ。名目は第二だが、じつはあちらこそがわたしの直属の上司である。
「そんなに強調しなくてもいいじゃない……」
「バカなこと言ってないでさっさと行きますよ」
——好い加減にしろよ、バカ専務。
「……うん」
ジャケットの裾が皺になるのもお構いなしにスラックスのポケットへ片手を突っ込み、ルンルンと鼻歌を歌いながら前を歩くこの上司の名は、西園寺要。
高級ホテルチェーン、不動産、アパレル、その他いろいろ——とはいえ、わたしには無関係だから興味も無いし詳しくは知らない——を傘下に君臨するホールディングカンパニー創業者一族の次男サマだ。
御曹司のくせに総領息子ではないというお気楽なご身分のこいつは、ホテル事業を束ねる長男である現社長のもと、専務という要職に就き、若さを生かした斬新な思考と、年齢にそぐわぬ見事な手腕で、さまざまな業態の高級ホテルを開業し成功へと導いている、業界ではちょっと名を知られた若手実業家である。
身長は一メートル八十センチを超え、ホテルの専属トレーナー付きジムで鍛え上げた、実用性に乏しいハリボテの細マッチョ。
髪は明るい栗色——これが地色だなんて、ずるい——ちょっと癖のある長めの前髪。男の色香を醸し出す、刈り込まれた襟足。
アーモンド型の切れ長の目に、気持ち下がり気味の眉は、母性本能を刺激し、すっと通った鼻梁に少々骨張った細い顎のラインは精悍さをも感じさせる。
この整った美形、おまけに独身、三十二歳男盛り御曹司が、イタリア製オーダーメイドスーツを纏うその姿に魅了されない女はいない——とは、わたしを除く若手女性従業員一同の共通認識。つまりは、仕事ができ、見目麗しい、血統書付きのこれ以上ない超優良物件なのである。
当然の如く引く手数多選り取り見取り。客先、会議室、パーティー会場等々、こいつの行き先々には常に女が付きまとう。
だが、遊びにも本命にも事欠かないはずの一見完璧なこの男にも、弱点がある。
「相沢、兄貴に渡す資料は手元にある?」
「いいえ。専務が机の上に放置したまま出てきたはずですが? 必要でしたら取りに行ってまいりましょうか」
「うん。頼む。俺は先に行って話を進めておくわ」
「承りました。では——くれぐれもお気を付けて」
「わかってる」
面倒くさい。
肉食女子に集られる恵まれた人生を歩む男の気持ちなんて、わたしには理解できないのだが仕方がない。これも仕事だ。
非常階段を上る上司の背を見送りつつ、ため息をついた。
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