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就寝は午前五時。醒めない目も頭も瞬時に目覚めて回りだしたのは、褒めて欲しいところだ。
専務の野郎。ずいぶんと仕事が早いじゃないの。
たしかに。同居は了承させられた。泣き落とされた、落ちた、無理やりに。だからってはいそうですか、と、自ら即座に荷物を纏め、専務の家に転がり込むつもりなんてさらさら無かったし、適当な口実を作って時間を稼ぎ、その間になにか打てる手を考え回避するつもりでいたのに。
まさか、昨日の今日でこんな暴挙に出られるとは。
あいつの頭がそこまで回るとは思えない、つまり、誰かの入れ知恵だろう。その誰かが誰かなんてわかりきっているけれど。
たった三十分の間に身支度を調え、貴重品、つまり、重要なもの見られては困るものを、押し入れの奥から引っ張り出した段ボール箱にまとめ上げられたのは、自分でも立派だと思う。
もちろん、命よりも大切なデータが入ったノートパソコンを、新たに強固なパスワードをかけ直し、手持ちのバッグへ収めたのは言うまでもない。
一通りの作業を終え、額の汗を拭い一息付く間もなく、パンダ引越センターの作業員が、ピンポンと容赦なくインターフォンを鳴らしてくれる。
挨拶もそこそこにドタドタと足音を響かせて上がり込んだかと思うと、ろくに指示すら出していないのにあっという間にすべてを梱包し、すべての荷物を部屋から運び出した。
お任せ仕事の手際の良さには目を見張るものがある。
大学進学時から住み慣れた我が小さな城ともこれでお別れなのか。がらんどうとなったワンルームのアパートに取り残されたわたしは暫し感慨に耽るも、携帯電話に送られた指示に従い、途中しっかり寄り道をしつつ次の住居となる専務のマンションへ向かったのだった。
マップ片手に辿り着いてみれば運び込んだ荷物は、パンダ引越センターの手により、それはそれはご丁寧に仕分けされていた。
キッチン用品はキッチンへ、書籍等々は書斎へ、タイプ別に分類された衣類は大きなウォークインクローゼットに収まり、唯一、梱包を解かれることなく無事にその片隅へ置かれていたのは、引っ越し業者からの連絡後、わたしが大急ぎで纏め、赤いマジックでデカデカと『触るな!キケン!』と認めた段ボール箱だけ。
危なかった。この箱を開けられてしまったら最悪の相手に弱みを握られる。そんなことになったら一生涯、悔やんでも悔やみきれない。
だだっ広いリビングの十人は楽に座れるだろうと思われる豪華な革張りのソファの中央に陣取り、専務と第二秘書の男ふたりは優雅に紅茶を嗜んでいる。
睨みつけようと文句を言おうとお構いなし。御曹司さまとその秘書の面の皮は極厚だ。
引越祝いと称し、シェフごとケータリングサービスの豪華イタリアンディナーを振る舞われ、ライトアップされたルーフバルコニーの花々が風に揺られている幻想的な景色を目の当たりにした頃には、身も心も疲れ果て抵抗する気力すら失せてしまった。
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