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その気配は、分厚いドアの外へまで漏れ出していた。
心の中で舌打ちをしつつ居住まいを正し、ドアをノックする。
ドアノブに手をかける寸前に、内側からドアが開いた。顔を上げると目の前にあったのは、下がりきった専務の眉毛。
「だから気を付けるようにって言ったじゃないですか……」
囁けばさらに情けなく表情を歪めるこいつの弱点は、そう、女。
世間では、女嫌いで通っているらしいがその実態は恐らく、女性恐怖症なのだと思う。
原因は知らない。好奇心がまったく無いではないが、他人のプライベートに必要以上に踏み込みたいとは思わない。聞いて欲しければ自分から話をするだろうとの気持ちもあるし。
もしかしたら、言葉にするのも悍ましい精神的外傷を残すような恐怖の体験をしているのかも知れないし。
尤も、そんなのは私の知ったこっちゃない。我が身の安全、つまり、相手を深く知るイコール自分をも同じ深さで知られる危険があるのだということ、を、考えれば、余計なことに首を突っ込まないほうがいいに決まっている。
そもそも、成り行きで仕方のなかった面も否めないが、もう何年もこんな男の相手をさせられて振り回されている現状のほうが、私にとってよほど大問題なわけで。
こんなに面倒くさいお守りをさせられるのがわかっていたら、あのとき、客室清掃バイト中の廊下で、こいつを拾ったりしなかった。廊下の隅で膝を抱えしょぼくれていたアレが、このホテルの専務様だと知っていたら、うっかり声なんてかけなかったのに。まったく。
後悔先に立たずどころか、日々繰り返される頭の痛い状況に、後悔後を絶たず、である。
情けないその顔を上目遣いに一瞥し、コホンと咳払いをした。
「お待たせして申し訳ありません。資料をお持ちしました」
一瞬、目を泳がせた表情に訝しさを覚える間もなく、いきなり肩をつかまれた。頭上から、甘い声が落ちてくる。
「うん。待ってたよ。こっちへ来て」
薄気味が悪い。
甘さと反比例するように込められた、わたしの上腕に食い込む指の力に、悪い予感が現実になるであろうことを知る。
「ちょっ……痛い……」
——何を企んでいるのよ?
身じろぎをしても睨みつけても、指の力も緩まなければ、麗しい笑顔も動じない。
「ちょうどよかった。美月さんにも紹介するよ」
レトロモダンな社長室の重厚なソファーに浅く腰掛け上品に紅茶を啜る、ハイブランドに身を包み栗色の巻き毛を踊らせたこの女は、先ほど非常階段で躱したハイヒールの主。
「彼女が相沢優香。僕の婚約者で、秘書をしてくれているんだ」
カチャッ、と、耳障りな音を立て、彼女の手の中のカップがソーサーに落ちた。
「相沢、彼女は——橋田美月さん。本社の橋田常務のお嬢さんだよ」
古くからの習慣で本社と呼ばれている親会社の橋田常務とはたしか、あの、たぬき——いや、ずんぐりむっくり狸腹の脂っこいオジサン。あのオジサンからこんな、モデル並みの美女が生まれるなんて。生物学的におかしくないか?
それよりなにより、こんな美女に言い寄られて逃げ回るとは、なんてもったいないことをしているのかこいつは——じゃなくて、ちょっと待てい! コンヤクシャとは? いったいなんの話だ?
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