915人が本棚に入れています
本棚に追加
/153ページ
「お手伝いに参りました」
「……いらないわ。持って行くものなど何一つありませんから」
沈痛な面持ちで入室した執事に微笑む。
いつでも、どんな場面でも表情を崩したことのない彼が、いま初めて見せる感情に思いの外、わたしの気持ちが浮上する。
「ないことはありません。これまで貴女が当家の為に尽力したことは、当然の権利として保証されねばなりません」
「権利も何も、悪事を働いた妻にあるわけないじゃないですか」
「奥様」
「もう違うわ」
捨てられたのだ。
妻を名乗るのも呼ばせるのも、失ってしまった立場のわたしにも、身の程を弁える術だけは残されている。
「旦那様は思い違いをなさっているのです。貴女が悪事など、そんなこと」
「いいえ。旦那様がそうだと言うなら、わたしはそうだったのでしょう」
元より、真実に意味などなかったのだ。
夫は、まだそう呼んでしまうけれど、夫は聞こうともしなかった。
弁解も、間違いを訂正することも、させないままに。思えば、当たり前の話だろう。
夫は最初から、結婚する以前から、わたしという者の存在を切り捨てていたのだから。
最初のコメントを投稿しよう!