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――お前が突然、たったひとりで知らない世界に放り出されても生きていけるように。
それが父の口癖で、リックは幼い頃から様々なことを教えられてきた。おかげで大抵のことはひとりでこなせるようになったが、今にして思えば、父は自分をどこか知らない遠くの土地に行かせるつもりなのかもしれない。
そう思うと喉のあたりにぐっと何かが詰まるような苦しさを覚え、目が潤んだ。顔を上げて大きく息を吸い込むと、一目散に駆け出した。
黄金色の草原を走る風を追い越し、葦の茂みをかきわけて進んでゆくと、昨日降った雨が作ったのか、泉のように大きな水たまりができていた。
リックはそれの淵に勢いよくへたり込むと、肩で息をした。もやもやとした黒い塊が胸の奥で渦巻いているようで、わけもなく叫びたくなる。空を仰いで深呼吸すると、目の前にある穏やかな水面に視線を落とした。
鮮やかな天空が映り込んだ水面は、空を見下ろすような眺めだった。静かに雲が流れ、その雲を追い駆けるように飛ぶものがある。目を凝らすと、それは翼を生やした馬だった。
普段は空を飛ぶことのない動物にも翼を与え、悠々と天空を駆け回ることができるのは、特別な力を持った石使いたちだけだ。王都にあるスクーロという場所を拠点に活動する彼らを、そこから遠く離れたこの土地で見かけることはめずらしい。
リックは馬の背に乗る者の姿を見ようと顔を上げたが、その姿はどこにもない。不思議に思って水たまりに視線を落とすと、急に強い風が吹いた。風は水面に波を立てると空を消し去り、リックの体にまとわりついた。
巻き上げられる砂に目を細め、体を舐めるように吹く風が通り過ぎるのを待っていると、水の底でちらちらと光るものがある。風が過ぎ、水面が再び空を映しても光るものはそのままで、引き寄せられるように水中へ手を差し入れると、硬いものが指に触れた。
それはリックの掌にすっかり収まるほどの、小さな丸い何かだ。握って引き上げようとすれば、ぐんと重みを増してますます水に沈みこむ。慌てて手を離そうとしたが、それは掌に吸いついたまま、ずるずると体を引き込んだ。
やがて浅いと思っていたはずの水たまりに、右腕がすっかり飲み込まれてしまった。それでもなお引き込まれて沈んでいくことに、言いようのない恐ろしさが込み上げた。
「助けて、父さん!」
思わず叫ぶと、リックは小さな空に転げ落ちていった。
*
自分は水たまりに落ちたはずだった。それともあれは、水たまりのふりをした本物の空だったのか。考える間もなく、眼下に石造りの堅牢な建物が見えた。
それは灰色の空中にぽっかりと浮かぶ、今にも崩れ落ちそうな古い砦だった。周りには砦になり損ねたような巨岩がいくつも浮かび、渦巻く風の中で人形のように翻弄されているリックの体は、吸い寄せられるようにそこへ向かっていた。
言いようのない恐怖にざわざわと鳥肌が立ち、強く拳を握りしめると、湿った右手に何かがある。気付くと同時にそれが強い光を放ち、ふわりと温かいものがリックの体を包む。その瞬間、リックの意識はすとんと抜け落ちた。
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