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「殿下とはぜひじっくり話をして欲しいわ。もう蛇が逃げてるんですもの」
「そう言えば、リックも蛇がどうとか言っていました。嫌な気配がする方を睨んだんですが、俺には何も見えなかった」
「あなたに睨まれたのなら、さぞ慌てて逃げたんでしょうね」
「俺は、蛇にもわかるほど恐ろしげな顔をしていますか?」
オートが真顔で尋ねることに、マルグラントは思わず笑った。
「いいえ、蛇はあなたの顔に驚いて逃げたんじゃなく、あなたの芯が強いところに敵わないと思って逃げたのよ。自分が付け入る隙もないと思ったんでしょう」
そう言われても、オートには何のことか少しも理解できなかった。同じように、フロールもぽかんとした顔をして首を傾げている。
「まず、その蛇について教えて下さいませんか。できるだけ手短に。おそらく俺にはすぐにでも処分が下るでしょう。それから」
オートはすっと背筋を正すと、今までにないほど鋭い目つきでマルグラントのことを見た。
「リックのことを教えてください。あの子は何者ですか」
◆
早馬に乗るリックの首筋に、ぽつりと冷たいものが落ちた。肩を竦めて上を見れば、空は低く、鼠色の分厚い雲が遠くまで連なっていた。
雨に濡れたまま走るのは馬の体力も落とし、道も悪くなる。王都は目前だったが、雲が薄くなるまで雨宿りするしかない。リックは街道から外れた野山に雑木林があることに気付き、そこを目指して手綱を取った。
雨粒が大きくなる前に立派な杉の木を見つけると、馬の手綱を括り付けた。すると張り詰めていた緊張の糸が解け、ずしりと体が重くなる。思わず倒れ込みそうになり、慌てて蹲ったリックの頭を、馬が鼻先でふんふんと撫でた。
「ありがとう、お前は優しいね。雨の日に出会ったから、お前のことはシズクと呼ぶよ」
顔を撫でると、シズクは嬉しそうに鼻を鳴らした。周囲に生き物の気配はまるでなく、静かな雨音が響くなか、自分の息使いだけが妙に大きく聞こえる。
――オートさん、大丈夫かな。母さんとフロールさんも。それから、あの蛇。
オートに睨まれ、あっという間にどこかへ消えてしまった。あれは、どこに。そう思って、リックははっと顔を上げた。あの蛇が音もなく自分に忍び寄っているような気がしてあたりを見回したが、それらしい気配は感じられない。
リックは父の言葉を思い出し、背筋を伸ばして深呼吸した。
――ある日突然、たったひとりで知らない世界に放り出されても生きていけるように。
「こうなることを知ってたんなら、もう少し詳しく教えてくれてもよかったのに」
リックがふてくされて呟いた言葉は、雨のなかにするりと消えた。
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