第6話 賢者の憂鬱(上)

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 オートに促され、席を立ったサメロの顔は曇っていた。立ち去る間際、彼は思い詰めたように呟いた。  ――父上の容体が(かんば)しくありません。次にお会いするときが、悲しみの場でありませんよう。  サメロはそう言って力なく笑ったが、その思いは裏切られた。彼の懸念は的中し、それからほどなくしてグランダが崩御した。ヴィントが城へ弔問に参じたとき、喪服に身を包んだサメロの顔は青白く、ヴィントへの挨拶もそこそこに皆の前から姿を消した。儚く消えそうな彼の背中を守るように付いて行ったのもオートだった。  ――ああ、どうしてこんなことに。彼らに一体何があったんでしょう。  ヴィントは再び深いため息をついた。この一年の間に、自分にも様々な葛藤があった。それでもようやく、マルグラントとアロモのことを心から祝福できると思っていたのに。   ◆  マルグラントは七つという幼さで司書試験に合格し、書見塔へとやってきた。  試験に合格するのはどれほど若くとも十歳を過ぎてからが普通のことで、マルグラントの合格には当時の総書司サージェを始め、他の司書たちも随分慌てた。更に彼らが困惑したのは、彼女が祖国を持たずに国を渡り歩く、ヴァガという民族の一員だったことだ。  ヴァガは踊りや音楽、占いを生業とし、特定の神や信仰を持つことなく各地を転々とする民族だった。西の大陸から海を渡ってオーザの山を越え、偶然この国に長く留まっていたキャラヴァンが、とりわけ優秀な幼子を書見塔に預けたいと願い出てきてのことだった。 「僅か一桁の年歳(ねんさい)でここへやってきたのはそなた以来のことじゃ。ヴァガの者が試験だけでも受けさせて欲しいと懇願してきた気持ちもわかる。しかし情けないことに、あの子をよそ者と快く思わん者も少なくない。ヴィント、そなたには既に三人の弟子がおるが、加えてあの子を任せたいのじゃが。ヴァガたちは、土地の神を信じることもない自分たちを快く受け入れてくれたのはこの国が初めてだと言っておった。決して大きくはないこの国を、懐の深い国と好いてくれた。彼らの期待に応えてくれんか」  そうしてヴィントにマルグラントを教育する任務が転がり込んだのが、まだ総司書になる前の、三十七のときだった。幼い少女の指導に自分を指名してきたことはサージェなりの慰めなのかもしれないと思ったが、どうにも決まりが悪かった。   *  マルグラントが書見塔に来る三年前、ヴィントは妻子を揃って失った。  当時既に書見塔の重要役職に就いていたヴィントは、塔の中枢で蔵書の管理と分類を行い、更に新しい書物の受け入れを行うのが責務で、新たに寄贈された貴重書の修復と整理がままならず、しばらく家に戻れずにいた間のことだった。  二人が死に至る感染症に罹ったという一報を受け、慌てて帰ったが遅かった。妻と娘は死してすぐ、被害を拡大させないという理由から火で清められ、綺麗な灰になっていた。ヴィントへの一報が遅れたのは、妻が自分を心配させまいと気遣ってのことだったと知ったのも、すべてが終わってからだった。
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