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彼は知り合った頃から、私の事なんか興味がなかったんだと思う。だからこそ彼は私のことを、付随する情報抜きで、純粋な私を見てくれていたんだと思う。だから彼の物言いには遠慮や軽蔑、同情は全くなくて、善意や悪意すら感じられなかった。
それでも、今の言葉には少しだけ、カチンときた。
「生みの親からは日常的に暴言や暴力を受け、知り合う人間には尽く馬鹿にされ、玩具にされ、挙句の果て興味を無くされ惨めに捨てられる」
「そうだよ。それが私」
「けどそれ以上にさぁ」
彼が微笑んだ。まるでそれが面白いことであるかのように。目の前の私の状況なんかまるで見えてなさそうで、ただ彼にとっての可笑しい何かに対する微笑み。
「君が君であることが不幸なんじゃない?」
「うん。考えたこと無かったけど、確かにそうかも」
「もっと言うと、君が出会った全てが、君にとって不幸だったんだじゃないかな」
「それは……違うよ」
フェンスを掴んだ手が、いつの間にか固く握りしめられて、金属の軋む音がした。
「どう違う?君は不幸なヤツだろ?」
「君と会えたこと……それは、それはちょっと幸せだった」
頬が紅潮するのを感じる。耳まで熱くなって、喉が渇く。やっと言えた。やっと、やっと。ずっと言いたかった言葉がやっと言えた。その喜びの勢いのまま、手を離して飛んでいってしまいそうだった。
彼の顔はキョトンとして、少しだけ嬉しそうだった。
「だからね。止めないでね」
「もとから説得する気なんてさらさら無いよ。第一僕に君の人生にどうこういう権利は無い。君の苦しみなんか僕にはわからない。一生ね。いや、来世までかかってもわからない」
その言葉には、言葉そのものの意味を超えた心地よさがあった。私の中で如何しようも無いほど絡まってしまった何かが、すっと緩んで解けていくような感じがした。多分私はそのことを、「嬉しい」って思ったんだとおもう。
「あのさ、最後に言いたいことがあるの。いいかな」
私は思い切って手を離し、背をフェンスにつけてもたれ掛かる。
「君が私の事を見ないで、私だけ見てくれたのは、とってもとっても、嬉しかったよ」
心からの本音を言葉にするのは恥ずかしくって、胸が張り裂けそうな程に高鳴った。
「そっか。そりゃよかった。じゃあ僕にも一言だけいいかな」
彼の声は深みを帯びて、そして少しだけ、潤っていた。
「君が死んだら、悲しむヤツもいるんだぜ」
解けた糸が私の心臓を雁字搦めにして締め付ける。どうしても唇が歪むこの感傷の名は、きっと「希望」だ。
「君だと、嬉しいな」私はゆっくりと捻り出すように言った。
「ああ、僕が悲しむ。世界中の誰も悲しまなかったとしても。僕だけは悲しむ。それが君にとってどういう意味を持つかなんて知らないし知るつもりもない。だけど……。君は不幸なヤツなんかじゃないぜ」
「うん」
ずっともっと遠くにいるはずの彼が、この時はとても近く感じて、それはまるで私のすぐ隣で寄り添っているように思えた。
私はなんにも言えなくて、彼も何も言えなくて、ただこの美しい宇宙を二人で見あげていたはずだ。
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