142人が本棚に入れています
本棚に追加
『いいかい、光晴。酷い飢餓を感じたら、迷わずに特効薬を使うのよ』
白神光晴が、中学に進学する頃から祖母に言われていた言葉だ。外出する都度言うので軽く聞き流していた。
特効薬とは、フェロモンを抑える薬剤のことを指す。オメガの人間が、外出中など突発的な発情状態になった場合、緊急性の抑制剤として使われる。オメガ特有のフェロモンは、その気のない人間の性欲を一時的に高めてしまうほど強烈だ。発情期に当てられたアルファや、効力はそこまでではないもののベータまでもを誘惑してしまうため、問答無用で襲われてしまう。不特定多数が行き交う街中で発情期になると厄介なことになる。
常日頃から持ち歩いている小さなケースには、薬瓶と注射器が収められており、高校生以上のオメガは必ず携帯することが義務付けられている。突発的な発情期で襲われた場合、特効薬を所持していなければ被害届は受理されない。
この世には、アルファ性、ベータ性、オメガ性と呼ばれる種を持つ男女が存在する。
アルファ性は生まれつき秀でた遺伝子を持ち、その大半が眉目秀麗だったり文武両道だったりと恵まれている。幼い頃は神童のごとく才能に恵まれ、成長するにつれてすらりと手足が伸びてゆくので、一目見ただけでアルファだとわかる。ただ、アルファ同士だと妊娠しづらく、人口密度は全人類の二割程度と少ない。主に経営者やスポーツ選手、弁護士、医師など活躍している。
ベータ性は従来の人間とあまり変わらず、主にアルファから雇用される側の大半を占めている。ベータはベータ同士結婚することが多く、ベータは一番生まれやすいため人口の七割はベータだ。稀にアルファやオメガが誕生することもある。
ベータは身体能力や外見も特質することはなく、至って平凡。アルファ社会特有の蹴落とし合いやしがらみがないため、目立たなくとも日常生活しやすい種でもある。
そして光晴はオメガ性に分類される。オメガ性は劣勢遺伝子を引き継ぐといわれ、身体能力も他の種と比べるとやや劣る。出生率もとても低く一割しか存在しない。
その代わりオメガには発情期と呼ばれる期間があり、フェロモンを身体から放出させて強制的に他の種と性交することができる。このフェロモンは強烈に甘く、催淫効果もあるため、強い意思を持っていても大多数のアルファはオメガを前にして屈してしまう。その時に性交すると、百パーセントの確率で妊娠する。
アルファやベータを惹き付ける魅力的な容姿をしており、光晴も華奢ではないのに中性的で美しい。
このオメガバースと呼ばれる種は、大規模な感染症や自然災害、テロが世界各国で多発し、著しく人口減少することを危惧して水面下で研究されてきた。人間に定着するまで様々な犠牲があったものの、開発から数百年経つ現在では、種や性別問わず妊娠可能となっている。それぞれバランスよくできている。
一般的にオメガは、十八歳から二十歳までに発情期が訪れる。光晴は十二月で十八を迎えるため、時期的にはそろそろだ。最も、祖母が徹底してくれたので、中学へ入学してからは特効薬と避妊薬を常備するようにしている。オメガだと知った第三者に誘発剤を飲まされ、強制的に引き起こされる事件が年に数回ニュースになるため、常日頃から心配していたのだ。
七歳の時から厳しいながらも育ててくれた祖母は、残念ながら光晴の高校入学を待たずして他界した。倒れてからあっという間だった。
十五歳で祖母を看取ってからも引っ越しすることはなく、広々とした日本家屋を日々修繕しながら一人で住み続けている。土地の名義や管理についてはわからないが、親族から許可をもらっている。
築百二十年ほど経過している屋敷には、時折、都内に住む弟──白神一希が偵察しに訪れる。手直ししているとはいえ建造物は古いし、廊下も軋むので深夜は住み慣れた光晴ですら恐怖を感じることがあるのに、弟は思春期を迎えてからも欠かさずやってくる。アルファ家系に唯一誕生してしまったオメガの光晴は、両親や弟に好かれず、厄介払いされて鎌倉の祖母宅にいるのだ。
それゆえに一希が来ると、近況報告を求められたり、健康状態を確認されたり、一族の名に恥じぬ行動を心がけるようにと二歳年下から諭されたりしまう。これではどちらが兄かわからないくらいだ。光晴は一応、長男だが、オメガゆえに追放されているので次期後継者は次男の一希となっている。白神一族は代々続く老舗食品会社を経営している。
むかしは一緒に寝たり、風呂に入ったり、四六時中二人でいるほど良好な関係を築いていたのに、離れて暮らすようになってからは疎遠になってしまった。弟の一希にも少なからずエリート思考があるゆえ、成長するにつれて親しくしていた兄がオメガという事実に嫌悪感を抱くようになったのだろう。光晴に対する態度も悪化していた。
マナーに厳しい祖母を彷彿とさせるほど口煩くなったのだ。あの人はよくないから付き合うな、だとか、アルバイトはみっともないからするな、だとか、自炊をしろ塩分は控えろ野菜は食べろと言われる。インスタント食品の空き箱が見つかると叱られるし、ファーストフードを買おうとすると、格式高い白神家の人間なんだから止めろと怒られる。生粋の坊っちゃんだと光晴が呆れるほどだ。
そんなこともあり、現在の兄弟仲はあまりよくない。一緒に住んでないのに、両親や弟に一挙手一投足を監視されているみたいでいい気はしなかった。
一人暮らしをするようになってから二年目。高校三年生に進級した光晴は、教諭に頼まれて図書室まで資料を返しに行っていた。その帰りに、自身の身体にとある違和感を覚えて首を傾げる。
「からだが……熱い?」
六月という梅雨の時期ゆえに朝から雨に濡れたので、風邪でも引いたのかも知れない。体温計を借りるついでに風邪薬でももらおうと、たまたま通りがかった保健室の扉をノックした。家に帰っても看病してくれる人間は誰もいないのに、悪化させるわけにはいかない。それゆえに体調の変化には人一倍気を遣っている。
しかし、数秒待っても返事はなかった。保健室は体調不良ゆえに寝に来る生徒もいるため、ベッドで生徒が休んでいる場合は扉に「静かに」と書かれた札を出す決まりになっている。不在の場合は「外出中」という札を掛けるのだが、今日はそのどちらもなかった。試しに扉に耳を当てて室内の様子を探るも、当然ながらなにも聴こえない。
「……先生、いないのかな」
とりあえず物は試しということで扉に手をかけるも、案の定、施錠がしてあるのでガタガタするだけだった。急な来訪かなにかで札を出し忘れたのだろう。それかすぐ戻るからと出さなかったのかも知れない。
養護教諭を探しに職員室まで行くかどうか悩む。そこまで体調が悪いのか考えようにも、自分ではわからない。体温計は扉一枚隔てた先にある。職員室は二階に位置するので今から向かうと五分はかかる。保健室の扉の前で踏ん切りがつかずに右往左往していると。
「あ! こんなところにいたのか、白神。探したんだぞ?」
「ああ、うん、ごめん。次は体育だったよね。でも、次の授業──」
「心配しなくても、おまえのジャージは持って来たから」
「……ありがとう」
体育の授業をどうするか悩んでいたところで、運悪くクラスメートに見つかってしまった。頼んだわけでもないのにジャージを胸に押し付けられる。
「ほら、チャイム鳴るし、遅れたら先生うるさいから、行くぞ?」
「……わかった」
わざわざジャージを届けてもらいながら、サボりたいとは言い出せず、仕方ないので諦めて体育館に向かうことにした。濡れたシャツから着替えると、幾分ましになった気がした。風邪からくる発熱はきっと気のせいだったんだと思い込んで乗り切ることにした。
ところが翌日。
「………………ん?」
四時間目の授業が終わったので、購買で昼食を調達しようと廊下を歩いていると。昨日の体調不良とは比べられないほどの飢餓感にいきなり襲われ、光晴はその場にしゃがみ込んだ。
「なんだ……、……これ?」
どくんどくんと心臓が早鐘を打つと同時に身体が火照り、夏でもないのに喉が渇いてしまう。運動後のように次から次へと汗が吹き出し、喉を潤したくて堪らなくなる。教室には飲みかけのお茶があるというのに、今、手元にはなにもない。
我慢できない──なんでもいいから飲みたい!
腹拵えよりもまず先に飲料水を入手することにした。近くには自販機があるので、我慢せずに立ち寄ろうとする。まさに目と鼻の先だ。ここから三十歩ほど進むと、真新しい自販機が二台並んでいる。
しかし、すぐそこにあるというのに、なぜか立ち上がることができなかった。足腰に力が入らず、それどころか地面に膝をついてしまった。明らかに身体がおかしい。身体が言うことを聞かない。
「……うっ」
踏ん張りが利かぬまま、光晴は受け身を取る余裕もなく廊下に倒れ込んでしまった。痛いと感じるよりも先に、自由にならない自身の身体に戸惑う。どうすれば最善なのか頭が働かない。
周囲には助けを求められそうな人影もなく、お手上げ状態かに思われたが、背後から不意に声をかけられた。
「白神。こんなところでなにやって………………ん?」
「う、碓井!? こ、こっちに、く、くるな……!」
まずいまずいまずい。クラスメートの碓井颯の声音に光晴は焦り出す。颯に助けられるわけにはいかない。早くここから逃げ出さなければ。なぜなら、颯は──。
「この匂い……お前、もしかして……オメガだったのか!?」
「ちがっ、違うから!」
「いいや違わないだろ。アルファだって嘘ついていたのかよ……クソッ」
三年間、偽り続けていたのにとうとうばれてしまった。こんなはずではなかった。こんなはずではなかったのに。
光晴はオメガだということをクラスメートに隠して来た。学校側はオメガだと真実を記して書類を提出しているが、同級生には黙っていたのだ。
オメガだと知られてしまうと、興味本位で近付いて来る者がいないとも限らない。物珍しいからという理由だけで客寄せパンダの如く、誰彼構わず執拗にからまれたくなかった。誰からも搾取されることなく、一人でひっそり暮らしたかった。だから自衛するためにアルファだと偽っていた。厳しかった祖母の教えでもある。
「一先ず、このままここにいたらやばいだろ。寝ていないで早く立て」
「う、動けないんだ。腰が抜けた…………」
「ッチ。後で文句言うなよ?」
「へっ!? え、あああ、うわぁぁぁ!!」
廊下に転がっていた光晴の身体をひょいと持ち上げると、躊躇うことなく横抱きにされる。俗にいうお姫様抱っこだ。こんな姿、誰にも目撃されたくない。アルファとして君臨しているのに、夢を壊すわけにはいかない。
けれど今はそれどころではないため、大人しく運んでもらうことにした。体重は六十キロ近くあるというのに、落とすことなく軽々と抱えているので驚く。アルファは筋力もあるとは聞いていたものの、ここまでとは想像しなかった。
「……白神。悪目立ちしたくないから騒ぐなよ。とりあえず、あそこの空き教室に運ぶから」
「あ、ああ」
本来ならば、サボる生徒を中に入れない理由で扉には施錠がしてあるのだが、四時間目に使用してから鍵をかけ忘れたらしく、その隙に侵入する。教室に入ると、廊下側の真ん中辺りの机に下ろされた。複数の机を適当に寄せると、簡易ベッドになる。楽になるだろうからとそこへ寝かされた。
「……クッ、まずいな。白神……抑制剤は?」
「きょ……教室の……鞄の中」
「……はぁ、だよな」
フェロモンに当てられたくないのか、口許を押さえながら顔色を窺われる。それだけでなく眉間にしわを寄せ、心底嫌そうな表情をしている。他人の嫌悪感を目の当たりにするのは久しぶりだ。アルファであることを重んじている実家にいると錯覚しそうになる。気が滅入る。
けれど身体の飢餓状態はなくなったわけではない。アルファを前にして火照りは治まるどころか触発されている。とても甘い香りに酔いそうになる。
「…………碓井?」
「ウッ」
「ね、ねぇ、碓井! はやく僕から、離れて……!」
「ハァ……もう遅い」
「や、やだ待って!」
発情期のフェロモンを浴び続けると、アルファの自制心はほんの数分で蝕まれてしまう。茶色い眸を真っ赤にさせた同級生の碓井颯は、光晴の上半身に覆い被さる。誘発行動だ。アルファに発情期自体はないが、オメガのフェロモンで発情を誘発されることがある。
首筋に顔を埋めて匂いを嗅ぎ、上半身をまさぐられる。力では敵わないアルファが至近距離にいるだけでも恐怖なのに、自我を失えば取り返しのつかないことになる。それなのに、怖いのに、オメガゆえに期待している自分もいて、殊更恐ろしく感じてしまう。
「や、やめて、やめないで、やめて……!」
「ッ……、どっちだよ」
「や……やめて」
オメガの本能のせいで颯の広々とした背中にしがみついてしまった。こんなことはしたくないのに、触られたくて堪らない。こんな自分は知らない。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。助けてほしい。
颯の指先は光晴の胸部を弄び、やがて下半身に伸ばされる。反応しかけた股間の猛りを、制服越しに撫でられ恥ずかしくなる。
このまま学校で一線を越えてしまうのか。血走った目をした同級生に、好きか嫌いかもわからない男に、初めてを奪われてしまうのか。
発情期のせいで触れられたくて堪らない感覚に襲われているため、冷静に判断できない。
とうとう碓井颯の指先が、光晴のズボンにかけられる。ファスナーをゆっくり下ろし、生唾を飲み干す音が光晴の耳に届く。怖い。怖い。こわい。
「やだ……やだ!」
伸ばされた足を胸につくまで折り曲げられると、大胆にも窄まりが露になる。そこをいつの間にか露出していた颯の、獰猛な陰茎の先端部分で突かれる。まずいまずい。このままではセックスしてしまう。取り返しのつかないことになる。
「今、楽にしてやるから……!」
「や……めッ、ううッ」
「…………白神?」
「うう」
心と身体が伴わない行為に涙が自然と溢れた。泣くことしかできなかった。号泣する光晴に怯んだ颯の動きがぴたりと静止する。
「……クソッ!」
発情状態で颯も辛いはずなのに、寸でのところで光晴の上から遠退くと、自分の左腕に噛みついた。どうやら痛みを与えることで、オメガのフェロモンを一時的にやり過ごそうとしているようだ。
「薬……取ってくる」
血走った目をしたまま教室を飛び出すと、ほんの二、三分足らずで有言実行とばかりに特効薬を手にして戻って来る。注射器に薬剤を注入してからすぐさま太股に打ってくれた。緊急時ゆえに痛みは感じない。
激しかった動悸や高揚感が徐々に治まると、今度は薬の副作用からかいきなり眠くなる。洋服を正さないまま眠りたくはないのに、指一本動かしたくないほど疲労していた。辛うじて絞り出せたのは、碓井颯に対する謝罪とお礼だった。
「う、すい……ごめ……ありが……とう……」
「ハァ……この借りは必ず返せよ?」
「…………うん、わかった…………」
とうとう眠気に耐えきれなくなり、光晴は下半身を露出したまま瞼を閉じた。浮遊感と共に意識を手放す。
光晴の規則正しい寝息を耳にした颯が、盛大な舌打ちをしたことは当然ながら気付くはずもなく。副作用により強制的に眠りについた光晴が、数時間後に目覚める場所は、学校の空き教室や保健室ではなく自室の布団の中だった。自宅住所を調べた颯が、わざわざタクシーを使ってまで送り届けてくれるとは想像していなかった。てっきり担任か副担か、養護教諭の誰かだと思っていた。
学校で発情期を引き起こしてから五日目の朝。はじめての出来事に振り回されたものの、現在は症状も落ち着いていた。今のうちに溜まっていた家事をどうにかしなければならない。着るものがなくなる。それに、抜き打ちでやってくる弟の一希に、堕落した生活をしている姿を見られてしまうと面倒なことになる。今さら実家に連れ戻されて離れで暮らしたくはないので、気合いを入れるためにも自分の頬を軽く叩いた。自分の自由は他でもない自分で守る。
ピンポーン。ピーーンポーーーーン。
ぱちんと叩くと同時にインターフォンが鳴り響く。まだ九時前だというのに、一希だろうかと首を傾げる。しかし弟ならば鍵を所持しているのでわざわざ呼び鈴を鳴らすことはない。勧誘の類は居留守を使うようにしている。
「ど、どちら様ですか……? あ!」
訝しいと思いながらも玄関まで急ぎ、開錠してから戸を引くと、目の前に現れたのは碓井颯だった。しかも、そこにいたのは一人ではない。その背後にいる、荷物を手にした男達の姿に驚愕する。たまたま居合わせた宅急便などではなく、段ボールに書かれた「引越」という二文字に、わけもわからず腰を抜かしそうになる。
「今日からよろしくな、白神」
「は? え、なんで!? なにしに来たの?」
「先週のこと、忘れたのか?」
「…………ええと、お世話になったこと?」
「ああ」
「……忘れてはないけど、けど……」
光晴の記憶には一切ないものの、自宅まで運んで介抱してくれたことは、碓井颯本人から自己申告されている。自宅に設置している防犯カメラを確認すると、実際にその姿が映っていた。三十分後に帰る姿もはっきり映っていた。
数時間後に目覚めた際に、身体には違和感がなかったので、発情期を迎えながらも無事でいられたのは碓井颯のおかげだ。タクシー代や迷惑料を請求されても、可能な範囲ならば快く支払うつもりでいた。それなのに、置かれている状況はなかなか理解しがたいものだった。
「──俺も一緒に住むことにした」
「はあ? なんでいきなりそうなるわけ!?」
「オメガだとばらされたくないんだろ? それなら今、借りを返してくれ」
一体全体、朝っぱらからなにを言い出すのだろうか。奇想天外すぎて思わず首を傾げてしまう。どうして、わざわざ学校まで三十分以上かかるというのに居候したいと言い出すのだろうか。詳細は把握していないが、颯の実家は学校から徒歩五分圏内に位置すると人伝に聞いたことがある。興味がなかったので根掘り葉掘り質問するようなことはなく、真偽不明のままだが。
「ばらされたくは……ないけど……な、なんで?」
「過干渉な弟妹から匿って欲しいのもあるけど、まぁ単なる気まぐれだな」
「き、気まぐれ……」
「ああ。それ以外にあるわけないだろ? それに、俺は楽しいことに飢えてる」
そんなことを誇らしげに力説されても、光晴にはどうにも理解しがたい。光晴がベータならそこまで疑心暗鬼になる必要はないが、数ヶ月に一度、発情期のあるオメガと、社会的にも肉体的にも秀でているアルファだ。間違いが起こらない保証などどこにもない。
しかし、だからといって秘密を漏らされるわけにもいかない。並々ならぬ努力をしてアルファとして君臨しているのだから、せめて高校を卒業するまでは演じ切りたい。学年首位をキープするために、毎日の予習復習を欠かしたことはなく、最低でも二時間は勉強している。体育祭があれば一ヶ月前から走り込みをして体調を整えるし、行事があれば面倒でも積極的に参加し、生徒会長にも立候補して見事に当選した。中学、高校と続けたことを、オメガというだけで無駄にしたくない。自衛方法を学んできたオメガという種を足枷にしたくない。
「………………わかった」
「今日からよろしくな、白神」
「う、うん」
拒絶する選択肢は端から用意されていなかった。祖母が他界してからは一人で住んでいるので、炊事や洗濯は光晴自らの手で行っている。料理は苦手ゆえに簡単なものしか作れないし、一希には手を抜くなと怒られてしまうが、まだまだインスタント食品のお世話になることも多い。家政婦は一週間に一度だけ、屋敷の隅々まで清掃する際に呼ぶので普段は来ることない。自由気ままな一人暮らしだ。
自由気ままな一人暮らしなのだが、雨が降れば急いで雨戸を閉めなければならないし、廊下の雑巾がけは毎週末に行うし、電球が切れれば脚立を使って自分で取り換えるし、どこか床が軋めば業者を呼んで相談するし、庭も放置するわけにはいかないので月に一度は専属の庭師と打ち合わせしている。祖母が手入れしていた花畑の草取りも定期的にする。可能な限り自分で修繕も行うため、障子に使われている和紙や、色褪せてしまった襖を張り替えることもある。さすがに一日費やしても終わらないため、長期休暇のうちに数日かけて行っている。ネズミが出れば罠をしかけて駆除するし、風呂場のかびとの格闘も慣れてきた。
おそらく、実家で悠々自適に生活しているであろう碓井颯は、一ヶ月しないうちに音をあげて逃げ出すだろう。近隣にある屋敷の中でも最大の敷地面積を誇る日本家屋は、現状維持するだけでも想像以上に手間がかかる。一人から二人に増えるのだから、当然、すべての作業を分担するつもりだ。負担を軽くしてやるつもりは毛頭ない。
ところが──。
相手は、なんでもそつなくこなすことのできるアルファだということを、光晴はすっかり失念していた。やったことのないことでも、一度教えるだけでコツを掴んで要領よく動けるアルファの学習能力は、オメガよりも遥かに高い。家から追い出すはずが、次から次へと適応していく颯になにも言えなくなるのだった。
役割分担をしつつ、二人分の料理を作るようになってから早一ヶ月。赤の他人との生活に、早々慣れることはないと思っていたのに、碓井颯との新しい日常はそこまで困惑するようなことはなかった。
自転車と電車を乗り継ぎ高校まで登下校していた光晴。そこに颯も加わるようになる。雨が降ると自転車は使えないので、その場合は颯の家から送迎車が来る。そこそこの家のお坊ちゃんだということを知る。
季節は梅雨明けの七月中旬。そろそろ本家から弟の一希が偵察に来る頃合いだ。二歳年下の白神一希は、光晴が自堕落に過ごしていないかを一週間から二週間に一度、わざわざ確認するためだけに足を運ぶ。二週間前に訪れた際は、タイミングよく颯の帰宅が遅くなったので顔を合わせることはなかった。
なんとなく一希とは会ってほしくなかったので、二、三日だけ一人にしてほしいと頼んだ。テスト明けなので泊まりたいと駄々をこねるだろう。弟は頑固なので一度決めたことは実行せずにはいられない性分だ。コンプレックスを刺激されたくないので、颯には紹介したくなかった。
けれど颯の実家が改築工事中らしく、帰られないのだと断られてしまった。余計な出費になってしまっても、数日間だけホテルに泊まって欲しい──とはさすがに申し訳なくて伝えられるはずもなく。
仕方がないので、本家から弟が来ることを正直に打ち明け、少々個性的な性格をしているので、滞在中にはバッティングしないようにして欲しいとお願いした。颯は快く引き受けてくれた。引き受けてくれたと思っていたのはどうやら光晴だけだったのだが。
一緒に住んでいるのだから当然なのだが、屋敷の至るところに颯の私物が点在している。持ち込みを禁止にはしていなかったので、光晴が読まないような文庫本や、真っ黒いパーカー、キャラクターもののバスタオルなど探せば出てくる。それら颯の私物の数々を、目星をつけていた日の前日に片付けたはずなのに、なぜか当日の朝には元通りになっていた。居候していた痕跡を消したはずなのに、ほんの数分で弟にばれてしまった。頭を抱えないわけがない。
居間に設置された背の低いテーブルに、真顔で正座している二人の姿を目にすると冷や汗が止まらない。余計なことを言わないだろうかと、二人の顔を交互に見比べる。
「碓井颯さん……ですか。卑しいうちの兄さんに、発情期でも使って誘惑されたんですか?」
動揺していることを少しでも隠すために二人に麦茶を出したのに、一希は手を付けることなく目の前にいる男を鋭く睨んでいる。開口一番で危惧した通りの展開になってしまった。予想通りだとしても、一応、弟を制御しなければならないので『こら!』と光晴が形だけでも叱る真似をする。犬猫ではないので子供騙しだとわかりながらも、野放しにはできない。
「いや? そんなことはされてないよ。先月からうちの実家で改築工事がはじまったから、光晴に頼んでその間だけお邪魔してるんだ」
「先月から……? こうせい……?」
「友人を名前で呼ぶくらい、自然だろう」
「そう、ですね。碓井さん」
普段は『白神』と名字呼びなのに、突然『光晴』と親しげに名前で呼ばれ、隣に座る男の顔を二度見した。光晴の視線に気づいた颯は、微笑みを決して崩さず穏やかな表情のままだ。薄気味悪い笑顔のせいで考えが読めないので、なんとなく怖さを感じる。
「颯でいいって、光晴」
「は、ははははは」
だめ押しとばかりに耳にしたことのない爽やかな声音で呼ぶので、反射的に溜め息吐きたくなるところをぐっと堪える。その反動からか乾いた笑いしか出なかった。
「そ、そういうことだから一希。今日は悪いけど、お客さんがいるから──」
「だったら僕も、颯さんと呼んでもいいですか?」
「一希……?」
「いいじゃない。兄さんの友人なら、僕も友人だよ」
泊まらせることなく実家に帰そうとしたのに、光晴の言葉を遮り、正面に座る颯にテーブル越しに詰め寄る。光晴ですら『碓井』呼びなのに、同級生でもなんでもない弟が名前で呼ぶのは、さすがにまずいと焦り出す。一希の提案を咎めようとするも、なんと颯本人からの了承を得てしまった。
「好きに呼んでくれて構わない」
「わー、ありがとうございます! えへっ」
怪訝な表情を瞬時に引っ込めると、一希は満面の笑みを浮かべた。悪い予感がする。先ほどまでとは打って変わり、ころっと態度が豹変したのだ。智久にぶつけていた不機嫌さを引っ込めて、不気味なほどににこにこしている。弟の考えていることは、光晴から碓井颯を奪うことだろうなとすぐさま思い付く。一度や二度ではないのだ。友人が増えると、一希はどこからともなくしゃしゃり出てきて、光晴よりも親しくなってしまう。だから今回もこのパターンになるのかと落ち込みそうになる。
可愛がられて育った弟の一希は、持ち前の人懐こさを持ち合わせているので人の懐に飛び込むことを得意としている。頭の回転もはやく、人の表情や空気を読むことをいとも簡単に行ってしまうので、相手の種がなんであろうとすぐさま打ち解けてしまう。
こうなってしまえばなにを言っても無駄になるので、お茶請けを取りに台所へと向かった。和気あいあいとした二人を目にしたくないので居間には戻りたくないのに、一希に「おやつはないの、兄さん」と催促されるので、学校帰りに購入していたシュークリームを二つ皿に盛ってから戻った。一希の好物でもある。このシュークリームを食べさせて帰らせるはずが失敗してしまったので、今度こそ盛大に溜め息を吐いていた。我慢できなかった。
あれから一週間。光晴の予想した通りの展開になりつつあった。颯と交流するためなのか、弟の一希は二、三日に一度のペースで遊びに来るようになってしまった。いない隙を狙って上がり込んでいるため、一希が所持している鍵を取り上げたくなる。けれど、祖母から一希にと託したものでもあるため、口頭で軽く注意することしかできなかった。
縁側に腰かけながら碓井颯が夕涼みしていると、その隣を狙った一希はそっと寄り添い存在をアピールしている。人気のあるアルファ様は素知らぬ顔をしているが、この場には自分もいるというのにまるで空気みたいな扱いだ。二人が口にしているカットされたスイカを、家庭菜園にて苗から大事に育てて、収穫をして、冷やして用意したのは光晴なのに、素知らぬ顔で貪っている。そんな二人の姿を洗濯物を畳ながら眺めているが、ちっとも面白くない。自宅だというのにのけ者にされている気すらしてくる。
「……一希。白神家の次期後継者が、こんな頻繁に油を売ってていいのか? 心配されるぞ?」
「兄さん……一体僕を誰だと思っているの。アルファだよ? ちょっとくらい息抜きしたところで、なーんにも問題はないから。オメガの兄さんと違って、ね?」
「…………」
思わず溜め息吐きたくなる。反抗期、真っ只中の弟を相手にするのはなかなか大変だと、本人を前に愚痴を溢したくなる。まさに、ああ言えばこう言うのだ。光晴に対してだけ一希は可愛げがない。
「────よし。今日はカルボナーラにするか」
颯は二人の会話には一切口を出さず、夕飯当番だからとスマートフォンでレシピを調べていたようだ。険悪なムードなどお構いなしといった様子で、早速調理に取りかかるのか台所に消える。
関係のない颯からしてみれば、兄弟のいざこざなどどうでもいいのだろう。その我、関せずという態度は、今の光晴にとっては非常にありがたいものだ。これでアルファである弟の味方をされてしまえば、ただでさえ肩身の狭い思いを強いられているのに、兄としての立場が危ぶまれてしまう。情けないのでそれだけは嫌だった。
「あ、颯さん。僕も手伝います!」
その後ろ姿を一希が甲斐甲斐しく追うので、光晴は居間にひとり取り残されてしまった。テレビからはお笑い芸人の談笑が流れているが、会場の観客と違いちっとも笑えない。二人がいない隙に、腹の底から盛大な溜め息を吐くと、どっと疲れが押し寄せてくる。
洗濯物を畳む手を一旦止めて少しだけ休もうと、座布団を枕がわりにしてから縁側まで歩いて寝転がる。心地よい陽気とそよ風に包まれて、あっという間に意識を手放していた。ふて寝をして現実逃避することにした。
下半身が重い。とんでもなく重い。十キロくらいの鉛を乗せられたような重量があり、寝返りを打てずに目を開けてしまった。
夕食後に眠くなり、十九時には自室の布団で寝ていたはずなのに──そう思って上半身を少しだけ起こして様子を窺うと、なぜか、太股付近に二匹の黒猫が丸くなって寝ていた。時折、中庭に猫が迷い込むことはあっても、こうして家に上がり込んだり、人懐こく近寄ったりすることはない。
十畳の和室には光晴の布団と、小さな机と本棚が置かれているだけで殺風景だ。チェストなどは大きな押し入れに収納しているし、猫が興味を引くようなものはなにもない。それなのに猫に乗られている現状にも驚くが、違和感はまだあった。すぐ隣から人の気配がするのだ。光晴が寝ている右隣にも布団が敷かれており、おまけに寝息も聴こえる。暗闇に目が慣れないのでよく見えないけれど、確実に誰かがいる。
考えられる人物は二人。弟の一希と──。
「…………碓井?」
一瞬、幼少の頃のように弟が一緒に寝ていると勘違いしたが、むかしならともかく高校に進学した一希が、わざわざ光晴の自室にまで足を運ぶとは考えにくい。光晴の日常生活についてあれやこれやと口出ししてきても、兄のテリトリーに無断で立ち入るようなタイプではない。自分にも他人にも甘くない一希は、たとえ兄弟とはいえわきまえている。
隣にいる人物のことは気になる。とても気になる。しかし、スゥスゥと規則正しい寝息を暗闇の中で耳にしていると、釣られるように光晴の眠気も復活してしまうのだ。薄暗さから真夜中だということは確実だったので、もう一眠りすることにした。
もしかしたら夢という可能性もある。下半身で眠る猫や、隣にいる碓井颯らしき幻覚も消えるかも知れない。一縷の望みにかけて目を閉じると、すぐさま眠りの淵に落ちた。
──にゃん、にゃーん、うにゃ、にゃーん。
どこかで猫が鳴いている。誰かに甘えているような、とても可愛らしい声音だ。きっと猫の夢でも見ているのだろう。やっぱり自室の暗がりで目にしたのは夢だったんだと安心する。
ところが鳴き声はなかなか止むことはなかった。
──にゃう? にゃんにゃー! うにゃあ!
「……しー、寝ているから静かに……」
──にゃーん? にゃーん。にゃ、にゃー。
「……こら。今おやつやるから、鳴くなって」
──にゃーん、にゃにゃ……しゃー!
「……だから今やるって……」
至近距離から聴こえてくる猫の鳴き声と人間の声に、さきほど見た光景は幻ではなかったのだと薄ぼんやりとした意識の中で覚る。声の主は碓井颯であっていたようだ。重い瞼を開けると、すぐ傍に毛艶のよい二匹の黒猫と、慌てた様子の颯がしゃがんでいる。颯の焦る顔をはじめて目にしたのでなんだか新鮮だ。
「……どうしたの?」
「ああ、悪い、煩かったよな。うちで飼ってる猫なんだけど、家族が海外旅行に行くから預かってほしいって、光晴が寝て三十分後くらいに両親が連れて来たんだ。当初は別の人に頼んでたんだけど、その人が入院することになったらしくて、でもペットホテルだと食欲失くすってんで、俺が世話を引き受けた。一言も家主に相談しないで連れてきて悪い」
玄関や居間の壁、戸棚など、家中の至る所に祖母と猫二匹の写真を飾っているので、それを目にしたのも理由の一つだったようだ。それになんとなく処分できなかったキャットタワーを納戸に置いていたので、目撃していたのだろう。断りもなく連れ込んだことに対して申し訳なさそうに頭を下げられる。けれどそれくらい構わなかった。
「そうだったんだ。うちは平気だよ。ひっかき傷ができても修繕できるし。それより、なんでこの部屋に……?」
「いたずら好きの猫たちが、襖を開けて勝手に入るんだ。連れ出しても連れ出してもここに戻るから、諦めて俺も隣で寝ることにした」
それで猫に乗られていたのかと納得した。二匹はお座りしたまま甘えた声で何度も鳴き、なにかを催促している。
「もう夜だったし縁側から脱走でもされると、敷地が広い分、捕まえるのに苦労するだろうから、とりあえず二階ならいいかと放してた。まずかったか?」
「問題ないよ。ばあちゃんが動物好きだったから猫飼ってたし。ばあちゃんが他界してすぐ、二十年生きていた二匹も数分違いで看取ったから、家にはもういないけど」
猫たちは祖母によく懐いていたため、寂しくないように寄り添ってくれたのだと信じている。台所で倒れたあと、祖母が寝たきりになっても猫たちは絶対に傍を離れなかった。だから入院はせずに自宅で療養することにしたのだ。
それから一ヶ月足らずで光晴は一度に家族を失ったので、たった一人取り残されたことについては一抹の寂しさを感じながらも、心のどこかでは安心している。祖母と猫たちが共にいるのならそれでいい。
偶然とはいえ二年振りに黒猫との縁を持てたので、颯には申し訳ないが懐かしく思っていた。飾られた写真も黒猫だ。
可愛らしい来訪者の名前を聞くと、赤いリボンタイプの首輪の黒猫が姉のラピスで、桃色の首輪は妹のラズリだと教えてもらう。双子のメス猫はその名の通り、ラピスラズリというパワーストーンから取ったようだ。
「ラピスにラズリ。短い間だけど、どうぞよろしくね」
「うにゃーん」
「にゃーん」
頭を撫でようと手を出すと、逃げられることなく掌に頭部を押し付けられた。久しぶりに猫と触れ合う。初対面なのにちっとも物怖じせず、愛想もよい二匹にさっそく心を奪われる。艶やかな毛並みと痩せすぎず太すぎないしなやかな身体を持つ二匹は、碓井家で大切にされているのだろう。二匹同時に来るので両手を差し出してたっぷり堪能させてもらった。
「いたずら好きな部分があるだけで、二匹はとても頭がいいから、粗相もしないし、攻撃性もないから心配ない」
「お利口さんなんだね」
「ああ、俺の自慢の家族だ」
颯が笑みを浮かべながら黒猫を誉めると、言葉の意味を理解しているのか、にゃーと鳴きながら左右に尻尾を振った。黒猫たちは返事をしてくれるらしい。少しの間だけでも、寂しかった一軒家が以前のように賑やかになるのは嬉しい。
颯は、慣れた手付きで持参した猫用のおやつを用意すると、待ってましたと言わんばかりに二匹はくれくれと鳴き声をあげる。夕食を済ませてから来ているようなので量は少なめだが、競い合うように食らいつき、女の子とは思えない食べっぷりに和んだ。あらかた食べ終わると、満足した様子で部屋から出たがったので、襖を開けてやると二匹は飛び出して行った。
廊下をゆっくりと歩き、匂いを嗅ぎながらキョロキョロしている。さっそく偵察に向かったので、光晴は颯と目を合わせてから同時に吹き出す。自由気ままな性質は、どこの家で飼われていても同じようだ。
黒猫の姿が見えなくなったところで、光晴はとあることを思い出した。
「……あ!」
「ん? どうした? 猫が入ったらまずい部屋があるなら、今から捕まえてくる──」
「ううん、それは大丈夫なんだけど…………あの。か、一希は……どうしてる?」
夕食後に襲われた眠気に耐えられなくなり、いつもより早く自室に引っ込んだので、弟のことは知らなくて当然だ。今日の食事当番だった颯を手伝うために、一希も台所に消えたので二人のことがなんとなく気になっていた。
今までにも似たようなことはあった。光晴が自宅に友人を招くと、なぜかタイミングよく訪問した弟の一希が、光晴の友人にべったり甘えて兄以上に仲良くなってしまう。それどころか、いつの間にか二人で会う約束をされてしまい、友人を奪われたことは一度や二度では済まない。
今回もこのパターンだろうかと密かに心配している。光晴はあまり人付き合いが得意な方ではないため、ただでさえ狭い交遊関係だというのに、これ以上友人を減らしたくはない。碓井颯とは友人ではなくライバルだが、イレギュラーとはいえ、同居している相手に対して感情がないわけではない。共に生活していれば情くらい沸いてくる。
それなのに、颯まで一希、一希と連呼するようになるのならば、当然、光晴の胸中は複雑になってしまう。オメガだとばれる前から順位を競い合い、切磋琢磨した間柄なので勝手ながら同志のつもりでいた。
「一希くんなら、光晴が部屋に引っ込んでからわりとすぐに、ここの隣の部屋に消えたぞ。疲れたから寝るって。それから見かけていない」
「そ、そっか、そうなんだ。あ、そうそう一希も猫好きだから、きっと喜ぶよ!」
猫を室内に入れる許可は、居住はしてないものの弟でもある一希でもよかったのに、二人で親睦を深めることなく早々にお開きになったと知り、安堵に胸を撫でおろした。危惧した通りの展開にはならないようだ。
「光晴。それより身体は大丈夫か? まだ眠いだろ。日付けが変わったばかりだから」
「うん、まだ眠い……かも。あと怠さがあるんだけど、このまま発情期が終わるといいんだけど……」
「うーん、フェロモンを微かに感じるから、きっとこれからだろうな」
「やっぱり……。申し訳ないんだけど、酷くなる前にここから出てくれる?」
「わかってる。もう出るから。飲料水と夜食は廊下に用意しとく」
「ありがとう」
やたら眠いのは発情期前の症状でもある。自尊心の強いといわれているアルファでありながら、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる颯には、感謝してもしきれなかった。
再び目が覚めてしまったのでスマートフォンを確認すると、あれから三時間経過していた。丑三つ時を過ぎた頃。口を開けて寝てしまったのか喉がからからに渇いていた。我慢できないほどではなく、水を一杯飲めば満足する程度の飢えだ。枕元にミネラルウォーターのペットボトルがあったはずだと手に取ると、キャップを外して中身を一気に呷る。けれど、ちっとも満たされなかった。
(──もしかして………………発情期?)
初めての発情期から約一ヶ月。また来てしまったのかと落ち込みそうになる。期間については個人差があり、三ヶ月来ない人もいれば一ヶ月で来る人もいるという。
風邪の初期症状と似ているため、前日に雨に濡れたり、寒気がしたりしていなければ、十中八九発情期だということを学んだ。戸惑うだけだった初回とは打って変わり、二回目である今回は心身的に余裕がある。今のうちに抑制剤を飲めば、悪化することなく終えることができるだろう。
飲料水を飲み干してしまったので、台所まで水を取りに行こうと布団から起き上がると。
「智久。起きてるか? 大丈夫か?」
襖の一枚向こうから小声で呼び掛けられる。碓井颯だ。発情期かも知れない光晴を心配して様子を見に来たようだ。
けれど颯は生粋のアルファだ。今、不必要に近付けば、オメガのフェロモンに誘発されて発情を起こしてしまう。先ほどもお願いしたが、もう一度、自室に入らないよう頼むしかない。助けてくれるのはありがたいが、同じ過ちを繰り返したくない。迷惑をかけたくない。
「……さっき起きたんだけど、やっぱり発情期っぽいから部屋には近付かないで」
「そうだろうと思って、追加の飲料水を用意しといたから、薬を飲むといい」
「……ありがとう」
「このくらいは当然だ。一緒に暮らしてるんだからな。なにかあればスマホから連絡してくれ」
「うん、わかった」
世間一般なアルファはエリート思考が根強く、自尊心の塊のようなタイプばかりだ。まるで一国の王様のように振る舞う人間を何人も目にして来た。容姿も身体能力も、そして経済的にも恵まれているため、どうしても天狗になってしまうのだろう。弟がまさに典型的なアルファだったので慣れてはいるものの、あまりもの暴君っぷりに関わりを持ちたくないと苦手意識があった。
けれど碓井颯はそんなことはなく、光晴が相手でも態度を変えるようなことも、自慢してくることも、そして蔑むことも一切してこなかった。不思議だった。
他のクラスにいるアルファ男子が、オメガの同級生を面白半分で襲おうとしたという、あまり気持ちよくはない話題は時々耳にするのに、颯のことを悪く言う人間は一人も会ったことがない。
気配がなくなったことを確認してから扉を開くと、丁寧に包まれたサンドイッチと水の入ったアクリル製のピッチャーが置かれていた。薬剤を服用するためにグラスに水を注ぐ。一気に中身を飲み干す。冷たい水が心地よかった。
どんなサンドイッチを作ったのか心引かれるが、喉は渇いていても空腹というわけではないので、もう少し睡眠を取ることにした。
人一倍親切だと思っていたのに──。
「…………ッ」
信じられない光景を目にした光晴は、身動き取れずに固まってしまった。
(──どういう、こと……?)
時間は何時かわからない。鳥の囀ずりが聴こえないためまだ夜だということだけは確実のようだ。
自室にて一人寝ていたはずなのに、瞼を上げると何者かに覆い被さられていた。下半身がやけに熱を帯びているだけでなく、味わったことのない異物感に驚愕する。恐る恐る自身の下半身に手を伸ばすと、なにかが体内に挿入されていた。熱い、なにかが────。
「どう……して、んんッ」
目の前にいる人物に疑問を投げ掛けるも、答えることなく腰を小刻みに揺すられる。挿入がより深くなり、容赦なく襲う刺激に光晴は必死に耐えようとする。けれど体内を出入りする男の熱く猛った陰茎を、我慢できずに締め付けてしまった。男は羽詰まった苦悶の表情を浮かべている。
嫌なはずなのに、今すぐやめてほしいのに、下半身の奥を熱い楔で埋めて欲しくて堪らない。獰猛な性器で体内を暴かれているのに、もっと欲しいと背中にすがりつきたくなる。このまま止めないで欲しい。怖い怖い怖い。
「う、や……め……うう……ッ」
「……ここか?」
「ひっ、やあ、めっ……!」
窄まりから抜けてしまいそうなくらい腰を引いてから、ズンとまた一気に熱く猛った陰茎を挿入されて集中的に狙われる。光晴の目元にはだんだんと涙が浮かんでくる。イヤイヤと首を振って抵抗するつもりが、なぜかうんうん頷いてしまい、幾度となく突かれる。光晴の性器からはぽたぽたと透明な粘液で溢れ、先端が男の腹部で擦れる都度、甘く痺れる。このままでは耐えられない。余計なことを口走ってしまいそうで怖い。
「あっ、ああ、ん、やだ……うう」
与えられる刺激に抗うことも敵わず、ただただ喘ぐことしかできなかった。
「も……むりっ! あ、ああ……っ!」
激しい揺さぶりと突き上げに我慢できなくなり、男の前で呆気なく射精してしまった。羞恥心に消えたくなる。
ひとまず吐き出したので、手加減してくれると思いきや。
「ちょ……と、まって。いま、イッてるから、イッてるからぁ、やめてッ、動かないで、ああっ」
「くくっ、自分だけ楽しむ気か?」
「ち、ちが……ッ、あんん」
絶頂に達したために下半身に力が入らず、ぐったりしているのに執拗に下から突き上げられる。しつこいくらいに攻め続けられてしまい、光晴の萎んだ性器がまた頭をあげそうになる。
「お、ねがい……休ませて」
「俺がイッたら、な」
「ひゃあ、あっ、んあ、やだっ、やめ、」
我慢することもままならず、みっともないと頭ではわかっているのに喘いでしまう。発情期ゆえに与えられる刺激に敏感になり、全身が性感帯になってしまったのか、なにをされても感じてしまう。
「くっ、光晴の中に出していいか?」
「な、なかはだめ……!」
「……悪い、無理だ」
「ひっ、う、ああっ……熱い……!」
熱い。とにかく熱い。結合した箇所から体内に射精されているのだと瞬時にわかった。アルファは射精する際に、抜けないように陰茎の根本が膨らむ。男のものも栓をするようにぴったり密着して微動だにしなくなった。
ぽたぽたと光晴のものからも白濁が溢れ出てくる。体内に射精された気持ちよさに耐えられずに達していた。
しがみつきながら荒れた呼吸を整えようとしていると。
「……ハァ……すまない、光晴」
「……え?」
なにに対しての「すまない」なのかを光晴が理解するよりも前に、ほっそりとした首筋に噛みつかれていた。
「いっ、痛い、やだ、やめて、やめ……! ああっ、身体が……あつい……!」
アルファがオメガの体内に射精しながら項を噛むと「番」と呼ばれる契約が結ばれる。逆だと効力はない。これは番になると、不特定多数を誘っていたオメガのフェロモンが、番相手のアルファ以外に効きにくくなる。まさか、碓井颯に噛まれるとは想像すらしていなかった。
「どうして…………どうして噛んだの!?」
「…………」
理由が知りたいのに、光晴が問い詰めているのに視線を逸らされるだけだった。
噛み付いた本人は悪びれた様子はなく、脱ぎ散らかしていた衣服を集めて身形を整えている。光晴にも着用するように指摘してくるがそれどころではない。
「付き合ってすらいないのに、それをすっ飛ばして番になるだなんて……」
「嫌か?」
「嫌かどうかなんてわかる段階じゃないだろ! それに、碓井は僕と番になっても大丈夫だったの? 婚約者がいるとか、他に好きな人がいるとか──」
エリート一家あるあるだ。長男である光晴にも、本来ならば同等の家柄でアルファの許嫁がいるはずだった。しかしオメガとして生まれてしまったので、一希には婚約者がいても光晴にはいない。いないのだ。
「お前はどうなんだ」
「僕? 僕は………………」
「光晴?」
「ぼ、僕は家族からは厄介者扱いされているし、弟からは羽目を外さないよう監視されているだけで、婚約者なんているわけないだろ……」
「なら、好きな相手は?」
「……いないから」
「本当か?」
「ほ、本当だよ!」
噛んでから確認する意味がわからない。一度噛まれてしまえば、オメガではどうすることもできないのに、なぜ知りたがるのだろう。アルファは複数、番を持つことができるゆえに弾みで噛んだことも考えられる。それなのに、今さら意思を確認する必要はあるのだろうか。
「なら問題はない。俺は長男だが許嫁はいないし、両親も厳しくはない。番を持っても反対されるようなことはない。光晴は?」
「だから僕も問題はないってば!」
「ならよかった。これからもよろしく頼む」
「う……うん。こちらこそ」
上手く丸め込まれた気がするけれど、後の祭りなので深くは考えないようにした。
「ハッ! そういえば、避妊してないよね!?」
「一応、薬ならある。──本当は飲ませたくないんだけどな」
「え……?」
「正直に言うと、お前には俺の子供を産んでほしい」
「で、でも、学校が……」
「ああ。だから卒業後に出産できるように調整する」
「な、なに言ってるの!?」
然り気無くすごい発言をされてしまい、光晴の目が点になる。いきなり番になっただけでなく、妊娠、出産と口にされてしまえば狼狽えないわけがない。突拍子もない言葉に怪訝になるなと言われても無理だ。
「俺は本気だ」
「アルファだって偽っていたことの仕返しで、そこまでする!?」
隠していたことは心から反省している。コンプレックスから来るものとはいえ、罪悪感があったのでクラスメートにも正直に打ち明けようとしたが、それは様子を見ようと颯から止められていた。アルファよりもオメガは数が少なく、クラスに一人いるかいないかだ。光晴たちのクラスにはいない。興味本位で近付く者もおり、アルファだけではなくベータにも襲われないとも限らない。生徒の安全を守るために学校には提出を義務付けられているが、公表するかどうかは本人の意思に委ねられている。なにか事件が起こっても、学校側は責任を負えないからだ。
颯もわかってくれていたと思っていたし、初めて発情期が起こったあの日は途中で止めてくれたのに、まさかこういう形で裏切られてしまうとは──。
「ハァ? 腹いせでこんなことするかよ」
「え? でも……」
「番にした以上、責任は取る」
裏切られた──とは思ったものの、交際をすっ飛ばして番になったことは、発情期間近にきちんと対処しなかった自分にも落ち度がある。しかし颯は責任を取ると誇らしげな表情をしている。
「……ちょっと兄さんたち……いったい何時だと思ってるの! 煩いんだけど!」
「えっ、一希!?」
一度眠ってしまえば絶対に起きないはずなのに、ノックもせずに襖を開け放たれた。颯は衣服を着ていたが、光晴は全裸でシーツに包まっている。なにをしていたのか一目見ただけでばればれだろう。
「なにその格好……!? すぐ傍の部屋に僕がいるのに、えっちしてたの!?」
まじまじと情事の痕残る身体を見られてしまい、居たたまれなさに視線を逸らすことしかできない。小さい頃から可愛がってきた弟に醜態を晒すことは、光晴にとってとても耐え難いものだった。この場から消えたくなる。
オメガの部分を極力見せないように努力していたのに、目だけでオメガであることを責められているような気がしてならない。
「……まさか、コイツと番になってないよね!?」
「こら、一希。コイツ言うんじゃない」
「うるさい! 兄さんを誑かしたくせに!」
ああ、こんなことになるなら無理やり追い出せばよかったと、一希は地団駄を踏んでいる。状況が飲み込めない。
「せっかくここまで無事だったのに、どうしてくれるんだよ!」
「任せろ。責任はきちんと取る」
「当たり前だよ! ヤるだけヤって逃げたら、地獄だろうとなんだろうと追いかけるし、一生許さないからな! ああ、僕だけの兄さんが……兄さんが……アルファなんかの毒牙にやられるだなんて~、クソー!」
追い払い続けた意味がないじゃん、と憤慨している。
「ど、どういうこと?」
一希は光晴のことを疎ましく思っていたのではないのか。弟含む両親は、厄介払いをしたくて祖母の元へ預けたのではないのか──光晴は素っ裸のまま混乱している。そんな狼狽している兄に、ぷりぷり怒りながらも弟は、とりあえず服を着なよと浴衣を手渡してくる。言われるがままに袖を通す。
「極度のブラコンなんだぞ、一希は」
「うっさい、ブラコンじゃないし! 僕の大好きな兄さんだけど……でも従兄弟だから、僕だって結婚できるんだからな! なんで噛むんだよ、颯のバカ!」
「は……、え……、なに、従兄弟……?」
「うん。兄さんはね、僕の父さんの弟の子供なんだよ」
「…………え」
両親の本当の息子ではなく、伯父伯母だと言われて言葉が出てこない。しかも可愛がってきた弟のはずの一希は、実弟ではなく従兄弟──。
「………………だから、僕は厄介払いされてたの?」
「違う! 父さんと母さんは、年の離れた晴一叔父さんのことを溺愛していたらしいんだ。六つ年下だけど優秀だし、父さんは跡継ぎに考えていたみたいだよ。だけど、晴一叔父さんは学生のうちに、オメガ女性と駆け落ちしてしまって、行方不明のまま兄さんが産まれたんだって」
幼くして事故で両親を亡くした光晴は、二歳になる前に、まだ子供のいなかった伯父夫婦に引き取られたのだという。オメガだとは公表せず、種については周囲に明言せずに育てられた。
引き取ってから一年しないうちにアルファの一希も誕生し、本当の兄弟のように育った。年々、晴一に似てくるオメガの光晴を見ることが辛いからと、祖母の元へ預けられてはいたものの、伯父夫婦は光晴のことを厄介払いしたかったわけではないと言われる。母方の祖母を選んだことは、親戚中の好奇の目から守るためでもあったそうだ。
父親である晴一がオメガと駆け落ちしたことと、種を明言しないから、光晴はオメガではないかと疑われていたのだという。もっとも、跡継ぎとされる長男の息子である一希がアルファだったため、光晴の種はなんだろうと関係なかったのだが、アルファ一族の血を重んじる家系ゆえに、光晴も嫌な思いを強いられてきた。
てっきりオメガだからと厄介払いされていたのだと思い込んでいた。
「…………知らなかった」
「うん。だから僕が頻繁に来ていたんだよ。写真とか動画を父さん母さんは楽しみにしているから、いつもこっそり撮ってる」
「まさか……普段からスマホを向けられていたのって……!」
「そうだよ。見せるためだよ。まぁ、僕のコレクションでもあったけどね」
やたらとスマートフォンを向けられていたのは、そのためだったのかとようやく納得した。監視されているような窮屈さを感じていたものの、杞憂に終わってホッとひと安心する。
「俺に牽制して来るくらいだし、ブラコン過ぎるだろ」
「うるさい! 僕はまだ許してないんだからね!」
深夜だというのに二人のやり取りを見ているだけで楽しかった。久しぶりに笑っていた。
碓井颯と番になってから今日で一月経過する。揉めることなくトントン拍子にことが運び、光晴の両親と一希、碓井家との会食を老舗料亭にて済ませた。向こうの両親はオメガに対して先入観など一切なく、典型的なエリート思考とはかけ離れていた。反対されることもなく、挨拶前に番にしてしまったことを詫びられたくらいだ。
居候は一旦解消し、光晴と颯が高校を卒業したら、改めて同棲することになった。新たに賃貸を探す労力を省くため、光晴が一人で住む日本家屋を提供することを伝えると、最初は渋られたものの一緒に住むことを了承してもらえた。祖母と過ごした場所を気に入っていたので、離れたくなかったのだ。好きな人が出来て結婚することになっても、引っ越しはしたくないと長年考えていた。これからも住めることに感謝した。
「ねえねえ聞いた? 学年首位と二位の二人が付き合ってるって!」
「え、知らない知らない! 一年の頃から碓井くん狙ってたからショック~!」
「私は白神くんだよ……優しいし、あの外見でしょ? 好きだったのになー」
いつものように登校し、教室に入ろうすると。教壇の前で、興奮冷めやらぬといった様子で会話に花を咲かせている女子に動揺する。
告白されることは頻繁ではないにしろ、時々ある。一ヶ月に一度、あるかないかくらいだ。けれど長年、オメガではなくアルファだと偽って生きてきたため、好意を寄せられても頷くことはできなかった。彼女も彼氏もいたことはない。
生真面目さゆえに滅多にないが、なんとなく授業を受ける気になれないので回れ右をする。どこかで適当に時間を潰すのも悪くない。
「一時間目からサボるのか?」
「あ……碓井」
光晴の後ろからひょっこり現れた長身の男と視線が合う。昨晩、会食したばかりだったので、なんだか落ち着かない。
「颯でいいって。それより、フケるんなら俺も行く」
「え」
「一緒に行ったらだめか?」
「別にいいけど……」
「じゃあ行こうぜ」
体調がよくないと保健室のベッドを拝借するつもりが、颯に肩を抱かれて連行された。動揺しながらも足を動かし、導かれるまま階段を上る。着いた場所は空き教室ではなく、立ち入り禁止のはずの屋上だった。施錠されていて開かないのに、ポケットから取り出した鍵を差し込み捻る。
「なんで鍵を持ってるんだ……?」
「日頃の行い、だな」
「ひごろの、おこない……?」
成績を競い合うライバルとしか認識していなかったので、日頃の行いと言われてもしっくり来ない。それをそのまま伝えると、にやにやしながら付け足される。
「昼休みに男女問わず群がられるから、ゆっくり勉強したいって相談したら、合鍵くれたぜ?」
「……根っからのアルファめ!」
「お前も偽ってたろ」
「うぐっ」
ここで言い争いをしても仕方がないので、扉を潜って移動した。雲ひとつない夏の青空に浮かぶ太陽が燦々と輝き、とても眩しい。しかし晴れ晴れとしているため清清しい。
促されるままベンチに腰かけると、緩やかに吹いている風で前髪が揺れる。
「屋上デートだな」
「な……!」
「だってそうだろ? 二人っきりだ」
「うう……」
ただ一緒にサボっているだけでデートと言われてしまい、なんだか恥ずかしくなってくる。そんなつもりではなかったのに、緊張しそうになる。
「居候を解消したから、こうでもしないと一緒にいられないだろ? 家に行くと一希に邪魔されるし、ラブホは嫌だって言うし」
「あ、当たり前だ! 金を払ってまで……い、イチャイチャなど、で、できるはずがないっ!」
交際経験のない光晴にとって、いきなりラブホテルチャレンジは敷居が高過ぎる。ゲームの世界ならば、レベル壱のままラスボスに挑むようなものだ。どういうシステムなのかは知らないが、これから二人で性行為をします、とフロントにて宣言するようでとても耐えられない。
「……俺はしたい。発情期以外、俺は不要なのか?」
急に声のトーンを落とされ、どきりと心臓が跳ね上がる。悪ふざけではなく真剣な表情に、思わず視線を逸らす。こんなことは慣れていないため、光晴はどうすれば正解なのか頭を悩ませる。けれど黙ったままでは肯定と取られてしまうので、とりあえず否定することにした。
「う…………誰もそんなことは言ってない!」
「じゃあイチャイチャしようぜ」
一人分ほどのスペースを空けてベンチに座っていると、いきなり肩に逞しい腕を回された。そのままぐっと、颯の胸元まで引き寄せられる。触れた背中がなんだか熱い。至近距離に颯の体温を感じて心臓が早鐘を打つ。はじめてというわけではないのに、密着されることに耐えられなくなった光晴は、腕から逃れようと慌てて肩を押し返した。
「ま、待て、僕たちはまだ結婚していないし、ここは神聖な学び舎だ。まず、碓井の気持ちを僕は知らないし……!」
「……はあ? 俺の気持ち……?」
「僕がオメガだと知ってから態度が変わったじゃないか。それって、オメガなら誰でもいいってことだろう……?」
たまたまそこにいたのが自分だった──というだけで手を出され、なぜか居候になり、そして番にされた、とは思いたくなかった。
「──それ、吹き込んだの一希だろ?」
「う、うん。そうだけど、それがなに?」
「番の俺より弟……いや従兄弟か。その従兄弟を信じるのか? 散々、嫌味を言われてきたのに?」
「そんなこと言われても……一希はツンデレというやつだったんだから」
嫌われていたのではなく、思春期特有のものだと耳にしてからは気が楽になった。
「俺は光晴が、オメガだと知る前から気になってた」
「…………それ、本当?」
「ああ。フェロモンがあまり分泌されない中学時代から、ずっと一方的に見ていたからな。一希にはバレバレだったのか、まだ小学四年だというのに牽制されてたよ」
クツクツ笑いながら重要な情報を打ち明けられ、予想外の言葉に目を見開いた。進学校にいそうな颯と、まさか中学校が同じだったとは記憶にない。光晴の通っていた中学校は、自宅近所にある、偏差値はそこそこの一般的な公立校だ。進学校には存在するアルファ学級もなく、生徒数の九割はほぼベータで占められている。
光晴の学年は八クラスもあったので、一度も同じクラスにならないまま交流せずに卒業していても不思議ではない。
「同じ学校にいたのに、名前に聞き覚えがないんだけど……?」
「変に目立ちたくなかったんだよ。だから上位十番以内には入らないように調整してた。お前に勝ったらばれるだろ?」
「なっ! 誰が負けるか!」
「はは。こっそり眺めるだけでよかった。白神家がエリート一家なのは知ってたし、許嫁がいるって一希に牽制されてたからな」
「一希……」
偽りのアルファ時代のはじまりは小学校からだったが、中学でも並々ならぬ努力をして学年首位をキープしていた。学年唯一のアルファとして君臨していたのだが、まさか本物のアルファである颯が在籍していたとは思わなかった。
「アルファだっていうのに、身体の線は細目だし、なにより美人だろ? 光晴に惹かれていたのは俺だけじゃなかった。陰では高嶺の花って呼ばれてたんだぜ?」
「し、知らない……」
「進学する高校の情報を仕入れたら、アルファはどうやら俺だけではなくなったと聞いたから、今度は大勢の中の一人ではなくて、名前を知ってもらうために首席を目指した」
「それで同点だったのに、名前の順番が先という理由だけで、碓井に新入生代表挨拶を奪われたのか……!」
今思い出すだけでも悔しい。中学時代にはいなかったアルファが高校にいることは容易に予想できたので、負けないためにも勉強の時間を普段よりも二時間増やした。それなのに、自分の力ではどうにもならない部分で敗れてしまった。点数が足りないのなら実力不足だと納得したのに、全教科満点で新入生代表を逃したのだから悔しくて堪らなかった。
「でも大学入学前に俺と結婚すれば、碓井光晴になって、名前も光晴の方が先に来るから、同点でも有利になるぞ?」
「こうせい……はやて……そうだな!」
「だろ? だから今のうちに婚姻届を提出するぞ」
「わかった!」
ほぼ記入済みの婚姻届を懐から取り出すと、ペンと共に手渡される。名前と住所と本籍を記入すれば提出できるようだ。保証人の欄は既に埋まっている。印鑑は財布にあるので取り出して、わからない本籍は空欄のままペンを進めた。
「本籍は帰りに戸籍を取り寄せるから、それを見たら書く!」
「ああ。忘れないよう、すぐにでも提出しよう」
お互いの両親を交えてした約束は、大学を卒業して社会人になってから籍を入れることと、子供を作るのも、先に籍を入れてからにすると口頭だが決めている。ところが、まんまと颯に丸め込まれて高校生のうちに婚姻届を提出することになった。番になった以上、籍は絶対に入れると颯が求婚したのだから、それが少しだけ早くなっただけだ。
首位合格するためだけに婚姻届を書いているのだが、光晴は自分たち以外が満点合格した場合のことは考えてはいない。晴はまだまだ詰めが甘いのだった。
あと数日でソメイヨシノの開花を迎える三月初旬。高校の卒業式に出席した後、光晴の両親が眠る墓地に足を運んでいた。都内から電車で一時間。海の見える高台にはいくつも墓石があり、見張らしはとてもよい。立派な御影石には大きく、白神晴一と彫られている。軽く掃除をしてから持参した花束と果物を供えた。
「──お義父さん、お義母さん。あなたたちの大事な光晴くんを、どうか俺にください」
蝋燭に火を灯し、線香を立ててから墓石前で膝まずいたので驚く。予想外の行動に目を瞬かせていると、一緒に訪れていた一希が怯むことなく突っ込みを入れた。
「だーめーでーすー! 兄さんは僕のものでーす!」
光晴は思わず吹き出す。結婚して籍が変わっても、一希のブラコンっぷりは健在だ。寧ろ、とある理由で日に日にエスカレートしており、二人で住むはずの家には、なかば押し掛ける勢いで上がり込んでくる。
「兄離れしないと、あと数ヶ月で叔父さんになるんだぞ?」
「オジさんにはなりたくないけど、兄さんの子供なら僕、大歓迎だよ。バカみたいに甘やかすから」
「光晴と、お、れ、の、子供な?」
「アーアー、キコエナイ~!」
現在、光晴は妊娠六ヶ月目に突入していた。ほんの少し出ているお腹を、颯は愛おしそうに撫でてくれる。
学生のうちは学業に専念しなさい──そう言われていたものの、新しい命が宿ってからの颯はいきなり真面目になった。後継者にはならないと拒絶していた父親の仕事を、自ら手伝うようになったのだ。今では社長秘書の見習いとして、ホテル経営がどういうものかを勉強している。高校は単位を取得済みだったので問題はなく、しばらく資金を貯めてから大学に復学するつもりでいる。
「兄さんに似た美人で産まれて来なよ~あ、僕に似てイケメンでもいいけど!?」
「俺の遺伝子もあるから、きっと二人に似た眉目秀麗な人間になるぞ」
「うわ、自分で言っちゃう? 普通~!」
墓地だというのに賑やかにしているので、顰蹙を買いそうだが、お墓参り中の老夫婦はにこやかに通りすぎてゆく。
「騒がしいパパとお兄ちゃんですね?」
光晴がクスクスと笑いながら膨らむ腹部を撫でると、足で元気よく蹴って賛同してくれる。産まれてくる子供はきっと秀才になるだろうなと、光晴までさっそく親バカを発揮していた。
誕生する赤子と一希とみんなで、またお墓参りしたいなと思っていた。
おしまい
最初のコメントを投稿しよう!