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第1話 青年と幼女、出会う
ーー青年20歳、少女8歳ーー
〝絶世の美男子〟と、社交界で語られる人物がいる。
その名は、月見里縁。
月見里家は何十代と続く貴族で、その名を知らぬ者はいない名家だ。その月見里家の長男であり、後継ぎである月見里縁は、生まれながらに素晴らしい容姿とコミュニケーション能力を持っていた。
漆黒に艶めく髪と瞳、甘い顔立ちと声質、高い身長とすらりと伸びた手足。相手の話をよく聞き、その気持ちを間違いなく汲み取り、上手に切り返す洞察力と会話力ーー。
容姿も中身も魅力的な彼に、老若男女問わず心奪われた。月見里縁がいるだけで社交界の会場はまるで大輪の花が咲いたように輝くのだと、人々は賞賛する。
「縁さま、もう帰られますの?」
今夜もまた、月見里縁の帰宅を嘆く令嬢がいた。
縁は形の良い唇を開く。
「申し訳ございません。これから皇先生と約束があるので……」
少し困ったように笑うと、それだけで令嬢は頰を染めた。
「あら、先生と? 2人は本当に仲がよろしいのですね。確か先生は、縁さまの家庭教師をされていたとか……。だけど縁さまったら、先生ばかりに構って……。そんなに大切な用事なのですか? 縁さまがいないパーティーなんてつまらないわ」
ここに残って。
私を選んで。
そんな無言のメッセージが聞こえる。
彼女の家と月見里家は、ビジネス上で付き合いがある。情報によると、彼女の父親は娘を溺愛しているとのこと。彼女の気分を害するな、と両親に強く言われていた。
令嬢は上目遣いでこちらを見てくる。
その耳元に、縁は顔を寄せてーー、
「I look forward to seeing you again」
そっと囁いた。頭がクラクラするほど、耳心地の良い英語を。
〝貴方にまたお会いできる日を楽しみにしています〟
脳内で和訳した瞬間、令嬢の顔は真っ赤になった。
「物覚えが悪い僕に、根気よく英語を教えてくれた先生に恩返しがしたいのです」
「は、はい! ぜ、是非そうしてくださいです……!」
今にも昇天しそうな令嬢。
同時に周りがざわつく。
「まぁずるい!」
「縁さま! 今、何と仰ったのですか!?」
「私にも囁いてください!」
遠巻きに見ていた他の令嬢たちが一斉に抗議する。縁は彼女たちに丁寧にお辞儀をして、迎えの車が待つ外へ向かった。
「相変わらず罪深い方だな……」
会場の片隅で、誰かが言う。
「あぁ。女性はみんな彼に夢中だよ」
「縁さまは近頃、ますます美しくなられて……。私も女に産まれていたら、惚れていたな」
「確か今年で20歳か。いつ結婚されてもおかしくない歳だ」
「女性たちは気になって仕方がないようだぞ。彼がその辺りについて、どう考えているのか」
「しかし不思議だよ。あれだけ引く手数多なのになぁ……」
月見里縁には、1つだけ不可解なところがあった。
絶世の美男子と謳われ、社交界の華と称され、たくさんの女性を魅了する貴族のプリンス。
そんな彼が、何故か〝絶対に女性と交際しない〟ことだったーー。
縁は実家を離れ、親が所有する家で1人暮らしをしていた。1人で住むには広い純日本家屋で、街から離れた静かな坂の上に建っている。
運転手を帰らせて、門をくぐった瞬間、
「あー、眠い……」
縁は呟いた。
眠気のせいで瞼は半分下がり、口元はだらしなく開いている。そのマヌケな表情に、さっきまでのプリンスの面影は一切無い。
「疲れた……、ここでいいから寝たい……」
独り言をぼやきながら、玄関までの通路をふらふら歩く。
縁は心底疲れていた。ニコニコ愛想笑いを浮かべて、相手を喜ばせること苦ではなく、むしろ性に合っていると縁は思っている。ここまで疲れる原因は、その〝話し相手〟にあった。
(ーーあ、先生もう来てる)
出かける時に消したはずの玄関に、灯りがついていた。途端に縁は嬉しくなって、古風な引き戸を開けた。
「おかえりなさい。縁くん」
迎えてくれたのは、紳士的な雰囲気を持つ、長身痩躯の男性ーー皇恭介だった。
「先生! ただいま!」
「いつも勝手にお邪魔して申し訳ないね」
「何言ってんですか! 俺と先生の仲じゃないですかー!てか疲れたよー! 癒して慰めて!」
「はは。よしよし」
抱きつくと、恭介は縁の頭を撫でてくれる。
(あー、先生といると落ち着く)
縁の元家庭教師である恭介は、縁が素の自分を見せられる数少ない相手だった。10歳も歳が離れているが、とても仲が良い。特に縁の方が恭介に懐いていて、自宅の合鍵を渡すほど信頼している。また恭介は、縁の両親との交流も深い。
「俺、今日も最後まで隠し通せましたよ」
「そうか。頑張ったね」
「はい。だから今夜は俺と遊んでくれますよね?」
「まったく、仕方のない子だね……」
うっとりと妖しく目を細める縁を、恭介は優しい瞳で見返す。
令嬢に〝先生に恩返しをしたい〟と言ったのは、嘘だった。もちろん恭介には感謝しているが、今夜は別件で会うことになっていた。
嘘で女性を遠ざける月見里縁は、これまで5回の縁談を破談にした過去がある。
容姿、教養、家柄に秀でた5人の女性が彼の花嫁候補となったが、婚約までには至らなかった。しかも振られるのはいつも縁の方で、両親を毎回ガッカリさせた。
その気になればどんな女性でも手に入れられるであろう彼が、女性に振られ続ける理由については、様々な憶測が飛び交っている。
「あれほど完璧な人だ。きっと女性に対しての理想が高いに違いない」
と、大多数の者は言い、
「まだ遊びたいんだろう? 甘やかされて育っているからな」
とか、
「表向きは愛想が良いが、実は〝性格に難あり〟なのかもな」
と、月見里家を快く思わない一部の者は言い、
「もしかして縁さまは異性ではなく、同性にご興味があるのでは……? ほら、皇先生や神谷さんと仲が良いようだし。特に皇先生は頻繁に縁さまのご自宅に宿泊されているとか……。もしかして危険な関係なのでは?」
と、一部の女性は何故か嬉しそうに言う。
恭介の腕の中で、縁は思った。
(うーん、理想はそんな高くないと思うんだけどなぁ……)
普通に話が合って、相性が良ければそれでいい。
(遊んでいたいわけではない)
そんなつもりはない。
そして、
「じゃあ先生! 今日は男同士、朝まで呑みましょう! お酒いっぱいありますから!」
「やれやれ。君は少し呑みすぎだよ」
恭介と危険な関係というわけでもない。
(そりゃ先生のことは大好きだけど、そういう意味の好きではない)
彼は大切な親友だ。
多くの憶測の中で唯一、否定できないものは、
(……〝性格に難あり〟……か)
これだった。
縁にはその自覚がある。
「縁くん」
急に恭介が改まった声を出したので、縁の思考は止まった。
「昨日、電話でも伝えたんだけど、今日は縁くんに大切な話があるんだ」
「あ、そうですね。酒の前にそれですよね。で、何ですか?」
「……詳しいことは部屋で話すよ」
「??」
ーー何だ?
いつもと様子が違う恭介を不思議に思いながら、縁は彼の後を付いていく。すぐに縁側に面した客間の前に着き、恭介は立ち止まった。
「縁くん。今からこの障子を開けるよ?」
「え? はい、どうぞ」
「本当に開けるよ?」
「どうしたんですか。何か先生おかしいですよー? あ、もしかして俺に愛の告白でもするつもりですかー?」
縁が茶化すが、恭介は神妙な顔をするだけだった。
(先生……? 本当にどうしたんだ?)
恭介が障子を開けた。
縁の視界に、見慣れた客間が飛び込んでくる。
……。
……ん?
見慣れたはずの空間に、縁は強烈な違和感を覚えた。
何かがおかしい。
畳の香り、和紙で作られた天井照明、古い箪笥、床の間、掛け軸、木製の机、座布団、そこに正座する少女ーー。
(え?)
縁は固まった。
肩まで伸びた亜麻色の髪
白い肌
抹茶色の着物
細い体
小さな頭
こちらを見る大きな瞳
あれは少女だ。
いや、少女というよりは、
(幼女)
10歳にも満たない子供だった。
そして、
(お、女……)
幼女といえど、女。
自分の家に、居間に、プライベートの空間に、いないはずの女がいる。
「彼女の名前は〝柊直生〟さん。その苗字は、君も聞いたことがあるだろう?」
ある。月見里と同じく、貴族の家柄だ。
縁の心臓がバクバクと鳴り始めた。
「私は今、彼女の家庭教師を勤めさせてもらっている。……君のご両親に頼まれて、彼女をここに連れてきたんだ」
( ーー両親に?)
じわりと汗が滲む。
「ど、どうして……?」
「ご両家の希望により、彼女は今日から、君の婚約者になったからだよ」
……は?
「はああああああ!?」
縁は叫んだ。
今、何て言った!?
「そして今日から、ここで君と暮らすことになった」
あの幼女が!?
婚約者!?
俺の!?
ここで暮らす!?
一緒に!?
「急な話で私も驚いたんだけど……、って、縁くん? 大丈夫かい?」
(あ、目眩が)
あらゆるショックと今日の疲労が重なって、縁はそのまま白目を剥いて倒れた。
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