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プロローグ
ジリジリと、昔ながらの目覚まし時計の音がする。
「んん……」
耳障りな音を消そうと、大きく寝返りを打ったとたん、尚人は布団から落ちて床に転がった。
フローリングに汗ばんだ頬が張り付く。ひんやりしていて気持ちが良い。
――布団でよかった。
覚醒しながら、尚人はそんなことを思った。
ここに引っ越してくる前はセミダブルのベッドだった。
ほふく前進して、ようやく部屋のドア近くに置いてあった目覚まし時計に手が届いた。ベルの音を停止させ、尚人は伸びをする。
今日は金曜日。ふつうに仕事がある。
目覚まし時計の針は、六時を指している。今日はいつもより一時間早く出社するのだ。
――早く帰りたいし。
尚人は恋人の寝姿を眺め、ちょっと笑った。
自分の布団の隣に隙間なくくっついている布団――その上には和真が仰向けになって眠っている。タオルケットが布団から落ちている。就寝中に彼が放り投げたか、蹴飛ばしたのだろう。昨晩は暑かったから。
「今日も暑そうだな……」
寝室の二つの窓を閉めて、リモコンでエアコンを稼働させると、尚人はキッチンに行き水を一杯飲んだ。
そのあと洗面所で洗顔とうがいをしてから、朝食の準備に取り掛かる。ケトルでお湯を沸かす間に、トースターに食パンを二枚入れる。フライパンを熱し、油を少々入れる。冷蔵庫から卵を二つ取り出して、目玉焼きを作る。
お湯が沸いて、二人分のコーヒーを淹れているときに、和真がキッチンにやってきた。
「おはよう、なお」
欠伸混じりの声で、背中を掻きながら。
「おはよう、和真」
挨拶を返す自分の声は、相変わらず浮ついている。もう彼とは三年近く付き合っているというのに、今でも顔を見るだけでドキドキして嬉しくなる。
「朝ごはんの準備ありがとう。今日は早く出るの?」
「うん。一時間早くでる。その代わり、帰りも早い、はず」
トラブル、もしくは突然のミーティングが夕方に入らなければ。
「俺も今日は早く帰るよ」
そういって、和真が尚人の横に立った。彼が強引に尚人の手からケトルを奪い、それをカウンターに置いた。
「なお」
呼ぶ声とともに、彼の顔が近づいてくる。尚人は目を閉じて、恋人からの優しいキスを受ける。下唇が軽く触れあうだけの朝のキス。
すぐに離れていく顔を、尚人はじっと見る。でも、分からない。目も鼻も口も、顔の輪郭も、時間差で目には映るのに。一つの顔として認識することができない。
「なお」
陽だまりのような声で、また呼ばれる。いつの間にか俯いていた顔を上げると、和真が頬を撫でてくれた。
「早くここに帰ってきたい。で、なおをいっぱい抱きたい」
朝から大胆なことを言って、和真が抱きしめてくれる。尚人も彼の背中に腕を回した。
「俺も。――早く和真に会いたい」
離れる前からこんなことを言っている自分たちは、そうとうイかれてる。
ふたりは顔を合わせ、声を出して笑った。
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