怪しい人物

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怪しい人物

 和真の胸の中で、泣き疲れるまで泣いたあと、尚人は頭がクラクラしてきた。恋人から体を離して、布団にコテンと転がった。 「あつい……」 泣くと体温が上がるらしい。全身が汗で湿っている。 「大丈夫かよ」  和真がリモコンで冷房の設定温度を一度下げ、冷蔵庫からアイスノンを持ってきてくれた。スポーツドリンクも、尚人が自分で飲むと言っているのに、少しずつ、ゆっくりと飲ませてくれた。  水で絞ったタオルまで目のあたりに掛けてくれた。とても助かる。泣きすぎて瞼が腫れそうだから。 「これで二回目だな。なおが大泣きしたの」  和真が尚人の隣で仰向けになり、静かに言った。 「一回目は三年前の御宿だった」  懐かしそうな声。  尚人も懐かしくなった。三年前の夏、和真が率いるS大グループの旅行に参加したことを思い出す。旅行一日目の夜、尚人は民宿の駐車場で泣いた。声を殺して。  これから先ずっと、皆のように写真を見て笑い合うことができないのかと思ったら、普通ではない自分に絶望した。 ――和真の前だと我慢できなくなる。  人前で泣くことなんてなかったのに。泣きたくなっても、悲しみはすぐに消え去り、諦めが訪れていたから。和真を好きになるまでは。 「あのとき俺は、なおの頭をずっと撫でてたよな。でも本当は抱きしめたかったんだ。今はこうして抱きしめられるから――良かった」  尚人の目にタオルを押し当てたまま、和真が抱き締めてくる。すると、泣いた疲れが取れていく。いつもそうだ。疲れていたり、辛いことがあったとき、和真が慰めて癒してくれる。 「いつも俺ばっかり、支えてもらってる」  自分も恋人のことを支えられるようになりたいのに、できていない。いつも自分のことだけで一杯いっぱいになってしまう。 「なに言ってんの。俺だってなおに支えてもらってるよ」 「――本当?」  尚人は目からタオルを外して、和真の目を見た。 「あ――その上目遣い、すごくかわいい」  和真が困ったように笑った。 「え? 上目遣い?」 「そういうかわいい所に癒されるし、仕事で嫌なことがあってもなおの顔を見れば吹き飛ぶよ」 「――それなら、嬉しい。俺もそうだから」  濡れタオルを放り、尚人は思い切り恋人を抱き返した。  思う存分体をくっつけ、キスを重ねたあと、和真が真面目な口調で切り出してきた。 「なおは昨日のなりすましに、本当に心当たりがないのか?」  尚人は暫し逡巡してから「ない」と答えた。周りにそんな、下劣なことをする人はいない――いないと思いたい。 「俺はひとり、怪しいと思う人物がいるよ。確信はまだ持てないけどな。だから話してくれよ。なおが面倒見た熱中症の後輩のこと」 「えっ?」  思いがけない話の展開に、尚人は置いてけぼりになる。 「って、野宮くんのこと? なんで?」  彼に感謝されていたし、どちらかというと慕われていた、と思う。彼がなりすましなんて、と尚人は苦笑したくなった。 「今の会社にずっと勤めてきて、昨日みたいなことは一度もなかっただろ? 新しい出来事とか、新しい人間関係が始まって、こうなったんだと思う」  そう言われてみると、そんな気がしてきた。でも、野宮が犯人だとは思えない。 「とりあえず、野宮くんの話、してくれよ」 「いいけど――野宮くんは今年新卒で入って来たんだけど、あまり職場での評判が良くなかった。遅刻もよくしてたみたいだし――仕事のモチベーションが下がってたんだと思う。周りに仕事を教えてくれる人がいなかったんだろうし」 「彼が熱中症になったときも、周りの奴は放っておいたんだろ?」 「放っておいたっていうか――無関心だった。具合が悪いんじゃなくて、居眠りしてるんだろうって」  尚人の左隣の同僚は、そう思い込んでいた。 「そんなとき、なおが心配して声をかけた」  言ったあと、和真が尚人の鼻をつん、と指で押してきた。その場所に、軽いキスもしてくれる。それだけで、尚人の心はふわふわと浮き上がった。 「まあ、感謝はされたと思う。お礼も言われたし、デザートもくれたし」  コンビニのチョコレートタルト。ふつうに美味しかった。 「懐かれたんだろ?」  確信に満ちた声で言われ、尚人は頷いた。 「熱中症の件があってから、野宮くんは俺と同じ時間に出勤するようになった。遅刻もなくなって」  もともと真面目な気質だったのだと思う。尚人が彼のプロジェクトに移ってからは、積極的に質問をしてきたし、仕事にも集中していた。今までの悪評を払拭して余りあるほどに。 「良い方向に向かってたよ。だから、俺を騙すようなこと野宮くんはしないと思うんだけど」 「普通はな」  和真がため息を吐いた。 「変な方向に突っ走ったのかも。なおは野宮くんとどんな話をした? 付き合ってる人がいるとか、同棲してるとか言った?」 「言ってないよ。そんな話するほど仲良くなってない」  というより、恋愛話をする相手が社内には一人もいない。 「会社から帰るとき、彼につけられた、とか」  和真が物騒なことを言う。まるで野宮がストーカーのようなことを。 「ちょっとそれは酷いよ。野宮くんはそんなことするキャラじゃないって。仕事は真面目にやってたし――堀之内さんのブログで勉強までしてたよ、昼休みに」 「――堀之内?」  和真が険しい声で聞き返してくる。  ――あ、これは言わない方が良かった?  尚人はちょっと慌てた。 「俺はもう見てないよ、堀之内さんのブログ。やりたいことが微妙に違ってきたし。野宮くんがスマホで見てたんだよ」 「久しぶりに思い出した。堀之内。チャラい奴だったよな」  不愉快そうに言う。相変わらず和真は、彼のことが嫌いなようだ。 「そういえば、俺がスマホを覗いたから、野宮くん怒ってた。スマホを裏返しにして隠してたし」  尚人は閃いた。それで反感を持たれたのかもしれない。昨日の帰り、夕飯に誘ってもついてこなかった。 「――仕事の勉強が目的じゃなかったのかもな」  和真が急に閃いたように、上体を起こした。  部屋の隅のコンセントつなげてあったスマホを取りに行って、すぐに戻ってくる。  和真がネットで何かを検索し、すぐに尚人に見せてきた。その画面を見て、尚人は息をのんだ。  堀之内のブログだった。記事のタイトルは、『相貌失認って言葉、知ってますか』。 そこには、相貌失認という障害の説明や、失顔症の人が起こす行動パターン、それに対し理解を求める文章が連ねられている。 「堀之内さんって……いい人だったんだ」  尚人はかなり感動していた。本人は失顔症でもないのに――むしろ分かりすぎて辛い人が、こういう記事を書いてくれたことに感謝の念を覚えた。 「はい、おわり」  まだ読んでいる途中なのに、和真にスマホを奪われた。 「俺が推測するに、野宮は技術的な記事を読んでたんじゃなくて、今見せた記事を読んでたんだろうと」 「なんで、野宮くんが」 「お前のことを知りたいから、だろうな」
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