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真相
そう言って、和真はまた布団から出た。クローゼットに向かい、中から黄色いTシャツを取り出して、さっさと着替え始める。
「なおも着替えろよ。もう十時過ぎてる」
「まだ大丈夫だよ。二時までに行けば良いし」
尚人としては、十二時に家でご飯を食べてから出社する予定だった。
「俺もお前の会社に行くよ。昼飯一緒に食べよう」
その言葉で、尚人のテンションは上がった。
「ほんと? だったら着替える」
尚人は勢いよく起き上がった。体は軽いし、頭はスッキリしている。
Tシャツとハーフパンツを脱いでいると、和真がこちらを見て目を細めた。
「野宮はいつも、昼はどうしてるんだ? どこかで食べてる?」
いつの間にか、野宮を呼び捨てにしている。彼の中で、野宮が犯人だと確定されているのだろう。
「昼はコンビニで買って食べてるよ」
いつも昼休みに入ってから、ビル内のコンビニに買いに行っている。朝、出勤前に昼食を吟味して買う余裕はないらしい。
「じゃあ、十二時前にコンビニで待ち伏せするか」
「待ってよ、野宮くんがやったっていう証拠がないだろ」
「ないけど。俺が口を割らせる」
尚人は更に反論しようとしたが、恋人がスポンジボブのTシャツを着ているのを見て、舌が止まった。自然と笑顔になってしまう。
「そのTシャツ好き」
兄が和真にプレゼントした中古のTシャツ。目立つから見分けがつきやすい。
二人で一緒に出掛けるとき、カラフルなキャラクターTシャツを、和真はよく着てくれる。本当は彼の趣味じゃないだろうに。
「ありがと」
和真に勢いつけて抱きつくと、「こら」と困ったような声で叱られた。
「したくなるからくっつくなよ」
言葉とは裏腹に、腰から尻をゆっくりなぞってくる。
「俺もしたいよ。まだ時間あるし……」
さっきみたいに、上目遣いというやつをやってみた。が、誘いは断られる。
「ダメ。病み上がりだろ」
代わりに、額に優しいキス。
「――最近、あんまりできなくてごめん。旅行もいけなくなったし」
ふたりは二週間ほど、セックスを控えていた。尚人が毎週、土日も出社していたからだ。
「悪いと思ってるならさ、今度休みが取れたときは、俺になおの時間を全部くれよ」
和真が不思議なことを言ってくる。お互い休みのときは、いつも一緒なのに。
尚人が首を傾げると、「わかってねえな」と和真が喉で笑った。
「俺のこと甘く見てるよ、なおは」
和真の目に昏い光が帯びるのを、尚人はぼんやりと眺める。
十二時五分前に、尚人と和真は目当ての場所に着き、店内入ってすぐの雑誌売り場で待機することになった。
――本当に野宮くんが?
まだ尚人は半信半疑だった。タイミング的には、和真の言う通りなのだ。熱中症になった野宮の世話をしてから、二つの事件が起こっている。
――でも、なあ。
疑いたくない自分がいる。あんなに懐いてくれた人が、なりすましを行うなんて。
正午を過ぎたとたん、続々と店内に人が流れ込んできた。尚人は私服の男だけを目で追った。ネームホルダーが見える腹部あたりを注視していくが、野宮の文字は見つからない。人が早いペースで通り過ぎていくから、見逃したかも、と諦めかけたときだった。
「風無さん」
尚人を呼びながら、レジ前から雑誌売り場に向かって駆けてくる男がいた。黒い短髪、ストライプの半袖シャツ、墨黒のチノパンを穿いている。靴は黒いスニーカー。
「今日はどうしたんですか? 半休って。体調悪かったんですか?」
心配そうに、尚人を案じてくれる。彼はネームホルダーを掛けてくれていた。
「野宮くん」
尚人は極力、いつもの態度で接しようと試みた。まだ彼が犯人と決まったわけではない。
「昨日の夜、熱中症になっちゃって。だから大事をとって、午前中休んだんだ」
説明している途中で、雑誌を読んでいるふりをしていた和真が、尚人の隣に来た。
「それは――大変でしたね。大事にならなくてよかったです」
心底ほっとしたような声で言われ、やっぱり彼は違うんじゃ、と思い始めたときだった。
「知らない奴に部屋に入って来られそうになって、夢中で逃げたからだ」
和真が淡々と告げた。その声に怒りが滲んでいる。
「この方は」
戸惑うように、野宮の声が揺れた。尚人は彼の顔を見た。でもどんな表情をしているのか、分からない。
「付き合ってる人。一緒に住んでるんだ」
尚人は正直に言った。ここで和真のことを友達だと言いたくなかった。それに、野宮に正直に話してほしいのだ。だったら自分も嘘を吐くべきではない。
尚人は野宮の足を見た。微動だにしない。次に手を見る――財布を握る手に力が入っている。手の甲の筋が浮いていた。
「時間がないから単刀直入に聞く。昨日の夜、俺たちの部屋に入ってこようとしたのは、君じゃないのか」
責める口調ではなく、静かに淡々と和真は話している。
数秒の間を置いて、野宮が口を開いた。
「なんで俺が疑われてるのか、よくわかりません」
でも、彼の声は掠れていた。目を見ると、瞬きを繰り返している。やってないなら、もっと堂々としていればいいのに――そんな疑念が浮かんだ。
しかし、彼が犯人だとも言い切れない。
いきなり初対面の男に「犯人じゃないか」と問い質され、動揺しているだけかもしれない。
「違うなら良いんだ。ごめん、疑って」
尚人は謝った。これ以上、問い詰めても、どうにもならないと感じた。
和真も軽く頭を下げた。
「本当に違うんなら、疑って申し訳なかった」
だけど、と彼は話をつづけた。
「万一君がなりすましを働いたのなら――今謝るべきだ。ここで謝らなかったら、二度と謝れない。一度『してない』って否定したんだから。それに――犯人が分からないままだったら、尚人はずっと怖い思いをし続ける」
和真の発言のあと、沈黙が長く続いた。三人は同じ場所に立ったままだった。周りの音が消えるほど緊張に包まれた。すみません、ちょっと……と、尚人の脇を通ろうとする男に声をかけられ、また音が戻って来た。店が混みだし、レジ前に列ができている。
「なお、そろそろ行こう」
切り替えるように、和真が尚人の背中をポンポンと叩いてくる。尚人は頷いて、野宮に背を向けた。
コンビニのドアを抜けて、尚人たちは飲食店の集まるスペースに向かった。
歩きながら、何を食べようか相談していたとき、背後から足音が聞こえてきた。尚人を呼ぶ声も聞こえてきて、ふたりは立ち止まった。
野宮が尚人の前に回り込んで、「ごめんなさい」と呟いた。
「取り返しのつかないことをしました」
今度ははっきりと言って、彼が尚人の顔を見た。
「昨日のなりすましは俺です。怖い思いをさせて、申しわけありませんでした」
野宮が深く頭を下げてくる。
まさか、こんなにすんなりと自分の行いを認め、謝ってくれるとは――。尚人は意外な気持ちで野宮を頭頂部を眺めた。
「なんであんなことしたんだよ」
理由を聞かずにはいられなかった。なぜあんなことをしたのか。恨みとか悔しさより、残念な気持ちが込み上げてくる。
同じプロジェクトチームになって、同僚としてうまくやっていっていたのに。熱心に質問してくれて、頼ってくれて嬉しかったのに。
「具合が悪いとき、声をかけてくれたのは風無さんだけだった。周りに『こいつは仕事ができない』って匙を投げられてたし、誰も俺なんて心配してくれないのに――風無さんだけは親切にしてくれて、嬉しかったんです。――でも、風無さんは誰にでも優しいんだ。電車に乗ってるときも。目の前にお年寄りがいたら、さっと席を譲ってた」
――え? なんで知ってるんだ?
尚人は首を傾げたくなった。野宮と同じ電車に乗り合わせたことはない。いや、自分が彼に気がつかなかっただけなのかもしれない。
「後をつけて、俺たちの家を特定したんだな」
和真が冷静な声で言った。
「ごめんなさい。昨日、いつもは寄り道しないでまっすぐ帰る風無さんが、そうしなかったから。家に帰っても誰もいないのかと思って――先にアパートに行って待ち伏せしました」
野宮が俯いたまま、正直に話しだした。
「俺が誰かと一緒に暮らしてるって、なんで分かってた?」
それが疑問だった。尚人は社内のだれにも、自分が同棲していることを話していなかった。
「前に、風無さんが仮眠室で寝ていたことがあったんです。スマホを握ったまま。スリープ状態になってなくて、つい覗いてしまったんです。チャットの画面で、『今日は会社に泊る』って書いてあって――一緒に住んでるのかなって」
「そう――あのとき仮眠室にいたのは野宮くんだったんだね」
怒りの感情は沸き起こってこなかった。それよりも、犯人が特定できたことにほっとした。これで、またなりすましに遭うんじゃないか、と怖がらなくて済む。もう仮眠室で寝ようとは思えないが。
「ごめんなさい。『和真』って呼びながら笑った顔が、すごくきれいだったんです。またあんな顔、俺に見せて欲しいって思っちゃって――昨日、アパートの前で風無さんを待ってたんです。でもまさか本当に、俺と和真さんを間違えるなんて思ってなかった」
――そうだよな。普通は間違えない。
恋人とそれ以外の人を間違えるなんて。
落ち込みたくないのに、心が沈んでいくのを止められない。
「なお」
恋人の手が、そっと尚人のそれに触れてきた。それだけで安心する。彼がいればきっと大丈夫だと。
「また『和真』って呼びながら笑いかけられて、違うって言えませんでした」
苦しそうに、野宮が言葉を紡いだ。
「本当に申し訳ありませんでした。もう、二度とあんなことはしません。プロジェクトチームも変えてもらおうと思います」
もう一度腰を折ってから、野宮は二人に背を向けて、来た道を戻っていった。
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