社会人編から二か月半後(和真視点)

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社会人編から二か月半後(和真視点)

その日和真は、最寄りの駅からアパートまでを逸る思いで歩いていた。部屋の鍵は、電車に乗っている間に、スラックスのポケットに入れたほどだ。それぐらい、家に帰るのが嬉しかった。当たり前だ。二日ぶりに尚人に会えるのだから。  アパートの階段を駆け上り、部屋の鍵を開け、「ただいま」と大きめの声を出す。  ボストンバッグを上がり框に置き、靴を脱いだところで、恋人が玄関までやってきた。 「おかえり」  全開の笑顔で尚人が抱き着いてくる。こちらまで顔が緩んでしまう。  抱き返しながら、もう一度「ただいま」と言った。  和真は取引先の支店――仙台に、二泊三日で出張していたのだ。 「お腹空いた?」  尚人の問いに、「空いてる」と返す。 「じゃあすぐに用意する」  尚人が体を離そうとするので、和真は慌てて彼の手を引っ張った。 「だめ、もう少し」  もう一度抱きしめると、「もう」と笑いながら尚人が頬にキスをしてきた。 「今日はシチューだよ。寒いからね」  尚人がキッチンでシチューを温めながら、のんびりした口調で言った。 「ああ、いいな、シチュー」  十一月中旬ともなると、朝と夜は冷え込む。今日はとくに気温が低い。寝るときは布団と毛布、二枚使いした方がいいだろう。 「なおはどうだった? 仕事」  お土産の「牛たんかりんとう」をダイニングテーブルに置きながら聞くと、「けっこう暇」とつまらなそうな声が返って来た。 「そっか」  和真は苦笑した。  尚人が所属していたプロジェクトチームの仕事は、二週間前に解散していた。新たに設定した納期にきちんと納品して、あとはカスタマーサポートの係が今後のフォローを受け持つことになる。 尚人の仕事は、忙しいときは猛烈に忙しいが、そうでもないときは、時間を持て余すほど暇になるケースがあるらしい。 「来週からまた、新しいプロジェクトができるから暇じゃなくなるけど」  尚人が付け加えた。 「じゃあ良かったな」  忙しすぎて体を壊されたら困るが。ほどよく忙しいほうが暇よりは良いだろう。 「野宮くんはどう?」  一応これも聞いておく。彼がなりすましをしてから二か月半が経っている。が、やっぱり気になる。 「会ってないけど、良い噂は流れてくる。移動した先のプロジェクトで、よくやってるって」  尚人が嬉しそうに笑って、シチューをお玉でかき回している。  ――会ってない、か。  無邪気な尚人の顔を眺めながら、和真は複雑な心境になる。  ――会ってないわけじゃないんだよ、なお。  プロジェクトチームが違っても、同じフロアで仕事をしているのだ。顔を合わせていないわけがないのに――。  和真にはなんとなくわかってしまう。野宮の気持ちや、行動が。  彼は尚人と顔を合わせたときに、ネームホルダーを隠している。そんな気がする。  あんなことをしたら合わせる顔がない、というのもあるだろうし「野宮」として尚人と対面する勇気もないはずだ。  ネームホルダーがなければ、尚人は彼を野宮だとは思わずに素通りするだろう。「ただの通り過ぎた人」になってしまうのだ。そこまで考えたとき、和真の胸はズキリと痛んだ。  野宮のことを今はそんなに恨んでいない。怒りも持続していない。彼がなりすましをしてまで、尚人の「特別」になりたかった気持ちが、理解できるからだ。  一度尚人の良さを知ったら、誰でも虜になる。こんな人は二度と現れないと思う。自分がもし野宮の立場だったら、奪ってでも尚人を手に入れたいと思っただろう。  尚人に頭を下げたあと、野宮の目には後悔の色が浮かんでいた。そして和真には、羨望の眼差しを向けてきた。 「和真、疲れてる? ぼんやりしてる」  尚人が温めたシチューを皿に盛って、和真の元にやってきた。 「シチューのほかにもあるからね。ポテトサラダと、ピラフ」  白い深皿を二つテーブルに並べて、尚人がキッチンに戻ろうとした。 「なお」  衝動的に、和真は恋人を引き留めていた。背中から彼を抱きしめ、首筋に鼻を埋めた。  仄かに石鹸の香りがした。もう風呂に入ったのだろう。 時刻はすでに二十一時を回っている。 「夕飯、待っててくれてありがとう」 「一緒に食べたいから」  尚人が微かに笑った。肩が揺れる。  幸せだと思った。こんな日々が、ずっと続いてくれ、と願わずにはいられない。  願ってしまうのは、不安が過るからだ。もう二度と、尚人があんなふうに倒れている所を見たくない。  でも、いつか自分たちにも死は訪れる。避けられない現実だ。  お互い、体に悪いことはしていない。栄養のある食事をとり、ほどよい運動も行っている。たぶんきっと、長生きできるはず。  ――事故死だけは嫌だな。  もし自分が、遠く離れた場所で事故に遭って万一のことがあっても――尚人には分からない。恋人の顔を判別できずに、事実を受け止めることもできないだろう。 「どうしたんだよ。ため息吐いて。かなり疲れてる?」  尚人がこちらを振り向き、心配そうに顔を窺ってくる。  その、少し小首を傾げた顔が可愛い。愛おしい。なのに、胸が詰まったように苦しくなった。 「――なんでもないよ」  今一度、ぎゅっと恋人の体を抱きしめた。  ――ただ思っただけだ。恋人より一日だけ、長く生きたいと。了
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