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野宮
翌週の月曜日も、尚人は八時に出勤するため、七時十分に家を出た。
コンビニに寄り、冷やし中華とおにぎりを一個買って職場に向かった。給湯室の冷蔵庫に買ったものを袋ごと入れて扉を閉めたときだった。
「風無さん、おはようございます」
背後から声をかけられた。
尚人は後ろを振り向きながら挨拶を返した。誰だろう? と相手のネームホルダーを見ようとしたが、あいにく首に掛けていなかった。
「金曜日はありがとうございました」
「え?」
急に礼を言われ、尚人は話についていけなかった。何か自分は感謝されることをしたのか、金曜日に。
「俺、なにかしました?」
「なにかって……覚えてないんですか? 具合が悪くなった俺を世話してくれたじゃないですか」
「あ、熱中症……」
金曜日に自分がしたことをやっと思い出した。ナチュラルに今まで忘れていた。
土日、和真と過ごした時間が濃厚すぎて、会社であった出来事が見事に吹き飛んでいた。
――なんか和真、意地悪だったなあ。
セックスの回数は普段と同じだったが、内容が意地悪だったのだ。執拗な愛撫に加え、イくまで何度も焦らされて、頭がおかしくなりそうだった。
その余韻は今も残っていて、下肢が重く怠い。
「お陰で元気になりました。ありがとうございました」
男が頭を下げてきたので、尚人は急に現実に戻った。
「それは良かった。これからは気を付けてね」
元気になってくれてなによりだ。
尚人は軽く笑って、彼の横を通り過ぎようとした。が、「あの」と呼び止められた。
「これ、受け取って欲しくて」
「え?」
コンビニの袋を強引に押し付けられる。勢いで受け取ってしまい、袋の隙間をちらりと見た。
アイスチョコレートバーと、ライチ水。
金曜日に彼に渡したものだ。
「――アイス、溶けちゃったんじゃない?」
アイスノンの変わりにしたのだから。
「家で飲みましたよ。シェイクみたいになって美味かった」
彼の口調が砕けたものになる。
「あ、それは美味しそうだ」
尚人は袋からアイスを取り出し、冷凍室に入れた。ライチ水は冷蔵室へ。まだ袋の中には何か入っている。
塩タブレット一枚と、コンビニで売っているチョコタルト。
「タルト、美味しそう。ありがとう」
金曜日の謝礼としてくれたのだろうから、素直に受け取ることにする。塩タブレットをジーンズのポケットに入れ、袋ごとタルトを冷蔵庫の中に納める。
「風無さんはいつも八時から出社ですか? 俺、この時間に初めて来たんですけど、電車空いててよかったです。これなら熱中症にもならないだろうなって」
「時差通勤良いよね。暑いうちは八時からにしようと思って」
「俺もそうしようかな。夏場は朝、起きやすいし」
「でも遅刻多かったんじゃないの」
「あ――きつい突っ込みですね。その通りだけど。でももう、遅刻はしませんから」
会話が続く。会話を続けようとする意志を、尚人は新人から感じ取った。
尚人は給湯室から出て、自席に向かった。後輩もついてきて、尚人の隣に並ぶ。
「本当に俺、もう遅刻しません」
ムキになったように今度は言われ、尚人は少々面食らう。
尚人は初めて、彼の姿をしっかりと見た。自分より少し高い身長、顔に悪目立ちするような特徴はない。髪は黒く、少し前髪が伸びている。服装はポロシャツにジーンズ。尚人の会社は、接客応対のない技術職はカジュアルな服が許されている。尚人も今日は、黒いTシャツにジーンズだった。
「早起き頑張って」
尚人は足早になって、空席が目立つ自分の島に向かった。
仕事に集中していたせいか、昼休憩がすぐに訪れた。尚人は朝買ってきておいた昼食をさっさと平らげ、スマホを手に取った。ハートマークのアプリを開き、チャット画面を選ぶ。
『今日は定時で帰れそう。夕飯作るよ。何か食べたいものある?』
最近、尚人と和真は、LINEとカップル向けアプリ――カップルメモ――を兼用していた。
恋人の携帯番号を登録すると、二人だけでチャットができ、お互いの居場所を把握することも可能になる。GPS機能が付いているのだ。
このアプリを使おうと提案してきたのは和真だった。テレビやネットで、熱中症の注意喚起が盛んに行われだした頃に、夏が終わるまでで良いから、と和真がアプリのダウンロードを頼んできた。
――和真ってほんと、心配性。
炎天下のなか、万一尚人が迷子になったら――そんな心配をしてのことだろう。
尚人はアプリ使用を快諾した。自分に疚しいことなんて一切ないし、新しい機能を取り入れたアプリにも興味があった。いつか自分も、SNS系のアプリを作ってみたいから。
バッテリーを食うので、あまりアプリは開かないが、昼休憩ぐらいは使うことにしていた。
メッセージを送ってから数分で返信が来る。
『焼き魚と冷奴が食べたい気分。でも、なおの食べたい物作って』
自分の希望を書きつつも、気遣いを忘れないところが和真らしい。
『俺も焼き魚と冷奴が食べたい気分だから大丈夫』
和真とメッセージのやり取りをしているときもドキドキしてしまう。未だに。
『夕飯楽しみだな。俺は今日、八時ぐらいに帰るから』
『わかった。仕事頑張って』
『なおも頑張って』
一度チャットを終わらせ、尚人は給湯室に向かった。冷蔵庫からチョコレートタルトとライチ水を取り出し、自席にすぐ戻る。と、自分の椅子の前に人が立っていた。
「あ、俺に何か用ですか?」
つい他人行儀な言い方をしてしまう。相手がネームホルダーを着けていなかったから。
「とくに用があるってわけじゃないんですけど――話がしたいなって」
男がそういって、尚人の椅子から一歩遠のいた。遠慮しているような態度だ。
話がしたい、と言われても。相手が誰だか分からない。
「野宮、とりあえずお前はネームホルダーを着けろ。風無は人の顔と名前を覚えるのが苦手なんだよ」
隣席の渋谷が助け舟を出してくれる。
――野宮って人なのか。
でも、その苗字に心当たりがない。
野宮と呼ばれた男が、慌てたようにジーンズのポケットからネームホルダーを取り出し、首にかけた。
「朝、それを渡した、野宮です」
彼が尚人の手を指さした。チョコレートタルトを持っている手を。
やっと尚人は合点が行った。
「あ、熱中症の」
「そうです」
ホッとしたように野宮が言う。
「じゃあ、ここ座りなよ」
尚人の左隣の席が空いていた。外に食べに行っているのだろう。
とりあえず野宮とは、熱中症の話をした。「まさか自分がなるなんて」とか、「発病の兆しは目の奥の痛みでした」とか、熱中症になった人にしか分からない体験談が聞けて為になった。
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