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社会人編から七か月ぐらいあと(野宮視点)
ガコン、とジュースが落ちる音たした。
野宮は体を屈め、受取口から『ライチ水』を取り出した。ビル内に設置された販売機で、ライチ水を買う事ができるようになった。今年の三月に商品の入れ替えがあったのだ。
慌てて職場に戻ると、目当ての人はもう、帰り支度をして、周りに挨拶をしていた。
「今までお世話になりました」
一人ひとりに丁寧に会釈をして、彼は出口へと向かっていく。
――風無の奴、WEB系のベンチャーに転職するんだってよ。
そんな噂が流れてきたのは、一か月前だ。
ベンチャー企業を悪く言う先輩も、WEB系の仕事を羨ましがる先輩もいた。野宮は後者だった。いつか自分も、風無のように新しいことをやってみたい。
風無は、ここ一年で自主的に仕事効率化アプリを制作し、無料で配信した。そして見事ヒットしたのだ。IT業界に名前を売った彼は、何度かエンジニア向けのフォーラムにも呼ばれて人前で話す機会が増えた。そのうち沢山の企業からスカウトを受け、そのうちの一社を選んで転職することとなった。
彼がとうとう、野宮の一メートル前までやってきた。が、野宮は声をかけることができなかった。自分の首にはネームホルダーがない。ジーンズのポケットに突っ込んだままだ。
――声を掛けない方が良いんだ。
自分に言い聞かせた。彼だって、話しかけられたくないはず。
風無がこちらに軽く会釈をしてくれたので、野宮は慌ててお辞儀をした。彼よりも深く。
「あれ? 野宮くん?」
奇跡が起こったのか、と思った。
もう一度、野宮は自分の首を確認した。やっぱりネームホルダーはない。
野宮の脇を通りすぎようとした風無が、立ち止まったまま、もう一度「野宮くんだよね?」と不安そうに聞いてきた。
「そうですけど、なんで……」
「ライチ水、持ってるから」
風無が可笑しそうに笑った。
「ずっと好きだね、それ」
「風無さんからもらってから、ずっとです」
言い切ったとたん、目の奥が熱くなった。
――やばい、泣きそうだ。
単純に嬉しかった。もう二度と、彼は笑いかけてくれるとは思わなかったから。
自分はそれほど、取返しのつかないことを彼にしてしまった。
「――転職しても頑張ってください」
そんな月並みのことしか言えないのが、歯がゆい。でも彼には、本当に頑張って欲しいと思った。応援したいとも。それぐらいしか自分にできることは残っていないから。
衝動的に、手に持っていたライチ水を彼に渡していた。強引に。
風無は受け取ってくれた。
「ありがとう。野宮くんは、この一年、よく頑張ったね」
ふわっと笑って、風無が手を振った。そのまま、今度こそ野宮の脇を通り過ぎ、止まることなく歩いていく。
――やっぱりあなたには敵わない。
きみも頑張って、ではなく、頑張ったね、と言ってくれたのだ。
去年の八月――プロジェクトチームを移動してから、野宮は死に物狂いで仕事を頑張った。分からないところは、物怖じせずに先輩に聞き倒した。家に帰っても、やることといえば、仕事の調べものばかり。
辛くなって投げ出したくなる時もあったけど、頑張ったのだ。少しでも風無みたいに仕事ができるようになりたくて。彼のようになりたくて。
彼を好きなってよかった。想いはかなわなかったけれど。
他人(ひと)との出会いで、こんなに自分が変われたことを誇りに思う。
――ありがとうございました。
野宮は遠くなる彼の背中に向かって、もう一度、深く頭を下げた。了
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