尚人の仕事

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尚人の仕事

 尚人が勤めている会社は港区にある。品川駅港南口から徒歩一分、コンコース直結のオフィスと商業施設が入った複合ビルの十二階だ。 ビルの地下一階に行き、コンビニで昼食とおやつ、塩分補給ができるライチ水のペットボトルを買ってから職場に向かう。  尚人は手作り弁当派なのだが、今は七月中旬だ。食あたりが怖いので、和真と話し合って九月中旬までは弁当作りをやめることにした。  コンビニも、十二階まで上ったエレベーターも空いている。朝の八時前だから当たり前だ。これが一時間後だと、エレベーターホールは列ができるほど混みあうのだ。  尚人の会社はフレックスタイム制だ。コアタイムさえきちんと守れば、出勤も退勤も好きに決められる。  ――今日は五時には帰りたいな。  そんなことを考えながら、尚人は無人の受付カウンターを通り過ぎ、自分が働くフロアに足を踏み入れた。  おはようございます、と人もまばらな空間に向かって声を出す。  フロア内はだだっ広い。入ってすぐに総務部、営業部の島が並び、その隣からはプロジェクトチームごとに島が分かれている。一度尚人は給湯室に行き、コンビニで買ったものを冷蔵庫の中に入れ、それから自席に向かった。  ちょうどフロアの中央、島の真ん中に尚人の席がある。  隣席の男のネームホルダーをちらりと見て、彼が渋谷だと確認してから、尚人は挨拶した。すぐに挨拶が返ってくる。 「この時間帯って良いな。電車が空いてる。涼しくて全然汗かかなかった」  朝食の焼きそばパンを食べながら渋谷が言う。 「そうですね。俺の乗った電車も空いてました」  クーラーが効きすぎていて、肌寒いほどだった。 「風無は何線?」 「山手線です。駒込から乗って」 「ふーん、ここまでどれぐらいで来れんの?」 「四十分ぐらいですかね」  少し雑談をしたあと、尚人は自分の仕事に取り掛かった。  黒いプロンプト画面に、コードを打ち込んだりコピペしたりを繰り返す。  尚人の携わっているプロジェクトは、企業から受注した基幹システムの構築だ。使うプログラム言語は昔ながらのC言語を拡張した、オブジェクト指向のC++。それほど覚えるのは難しくない言語だ。だが、エンジニアの技量によって出来不出来が決まる。  ――別に、嫌いってわけじゃないけど。  大学でもC言語やC++、JAVA、C♯あたりは勉強したし、それらを使ってソフトも作った。慣れてはいる。ただ、プロジェクトマネージャーに振られた仕事を、言われた通りにこなすことに飽きてきていた。尚人は最近、スクリプト言語(WEB開発やアプリ作成に使う言語)もやってみたくて、個人的に勉強していた。残念ながら今の会社では勉強の成果を披露することができないが。  席に座ってから一時間が経ち、周りが騒がしくなってきたせいか、尚人の集中は途切れた。隣で伸びをしている渋谷に声をかける。 「渋谷さんって、基本設計とか要件定義ってやったことあるんですか」 「ない」  渋谷がつまらなそうに答えた。  ――渋谷さんって、俺よりだいぶ前に入社したはずだけど。  彼は三十を越えているし、仕事もできる方だ。  ――長く働いていても上流の仕事はさせてもらえないってことか。  それは、かなり嫌だ。  この仕事の開発手法は、これまた古くからあるウォーターフォールモデルだ。「要件定義」、「基本設計」、「内部設計」の工程を踏んで、ようやく尚人のもとに「実装(プログラミング)」の仕事が下りてくる。この工程は、理不尽なことが多い。上流工程で失敗したら、尚人たちがとばっちりをくうのだ。一か月かけて仕上げた仕事が白紙になることも一回や二回じゃない。そのたびに終電まで残業させられる。いや、それよりもひどい。徹夜して仮眠室で寝たことだってある。  そういう事情があって、入社してもすぐにやめてしまう社員は多い。尚人だって、転職したいと考えたことが何度もある。それでも辞めなかったのは――和真の存在が大きい。  仕事で嫌な事があったり、不眠不休でしんどい時も、家には恋人がいて、尚人の心も体も癒してくれた。だから頑張ってこれたのだ。 「なにお前、上の仕事がしたいの?」  渋谷がずいぶん間をおいてから尚人に話しかけてくる。 「そうじゃないんですけど、今みたいな仕事ばっかりだと、スキルアップがなかなか」 「あーそれはそうだな。スキルアップしたいなら転職しかないよ。ここじゃ同じことしかできないから」 「渋谷さんは転職しないんですか」 「俺は新しいこと覚えるのが面倒なんだよね。ここ、一部上場してるし、株価も安定してるし、リストラもないだろうしな」  なるほど。渋谷は仕事の内容より、会社の安定性を重視しているのだろう。  ――俺は違うなあ。  自分の興味があること、新しいことにチャレンジしてみたい。会社の知名度とか、安定性とかは二の次だ。  いつの間にか、空いていた隣の席に人がいた。彼のネームホルダーを見て、名前を確認してから挨拶をする。 「ああ、おはよう。あいつさあ、会社来てすぐに寝てやがるよ」  腹立たし気に男が言う。彼の視線を辿ってみると、確かに。前列の島の、こちらに向かって座っている人物が、頬杖をついて俯いている。 「新卒だし大目に見てたのになあ、調子に乗りすぎだよな」  愚痴っぽく言ったあと、彼は自分の仕事に戻った。  ――ええと……今年新卒で入った人って、あそこの島では一人だけで。  それでも彼の名前を覚えていない。ただ、あまりよくない噂は聞いていた。入社してからすぐに遅刻の常習犯になり、仕事の覚えもイマイチで、報連相も守らない、と。  ――まあ、俺には関係ないしなあ。  違うプロジェクトチームだから、話す機会もない。  ――でも、さすがに、会社に来てすぐに居眠りっておかしいだろ。  尚人はふと、友人の星野のことを思い出した。彼はナルコレプシーで、所かまわず寝てしまう、という病気を患っていた。大学を卒業する頃には、薬で症状をコントロールすることができるようになり、今は普通の生活を送っている。  尚人は席から立ち上がり、居眠りの疑惑がかかっている男の近くまで歩み寄った。  彼は相変わらず頬杖をついている。彼の両隣には人が座っているので、顔を覗くこともできない。背中はだいぶ汗ジミができている。  彼のデスクに視線を向ける。と、そこには、汗の雫が大量に落ちていた。半径三センチはありそうな水たまりになっている。おかしい。  次の瞬間、尚人はハッとした。 「あの、大丈夫ですか」  思わず尚人は、彼に声をかけていた。肩に触ると、ポロシャツがじっとりと汗で湿っていた。 「大丈夫、です」  全然大丈夫じゃなさそうな、途切れ途切れの、かすれた声。  尚人は彼の隣の席の男に声をかけた。ネームホルダーには『鈴木』の文字。 「鈴木さん、この人、熱中症かもしれません。汗が尋常じゃないし、具合悪そうです」  そう告げると、鈴木は初めて彼の方を見た。 「ああ、確かに……おい、大丈夫か」 「大丈夫、です、って」  かき消えそうな細い声で返事をされても、信じられるわけがなく。 「具合が悪いのか」  鈴木が問うと、彼はまた億劫そうに声を出す。 「頭が痛くて、眩暈がするんで、ちょっと、こうして……」  その症状は、どう考えても熱中症だ。  尚人は熱中症のことを以前調べたことがあった。  ――満員電車で熱中症になることがあるんだから、なおも気を付けろよ。  お互い気をつけよう、ということで、一緒にネットで熱中症の症状と、その対処法を調べたのだ。  七月に入ってから、ふたりは塩タブレットと、ステンレスボトルに麦茶を入れて会社に持って行っている。 「熱中症だったらマズいな。救急車呼ぶか?」  鈴木が彼に声をかけると、「そこまでのものじゃ」と苦しいそうな声で応答している。 「意識がちゃんとあるから救急車は呼ばなくても――涼しいところで安静にして、電解質をちゃんと取れば」  尚人が口出しすると、鈴木が「じゃあお前が面倒みてやれ」と言い出した。 「え? 俺?」 「俺も他の奴も、こいつを面倒見てる余裕はないんだよ。この修羅場が目に入らないのか?」  鈴木が苛立ったように小さく叫んだ。  たしかにこの島は、他の島とは雰囲気が違う。皆が皆、殺伐としている。狂ったようにキーボードを打っているか、口調荒く仕事の相談をしているか、だった。 「風無は熱中症に詳しいみたいだしな。仮眠室までこいつを連れて行って、様子を見てやれよ」 「――分かりました」  彼一人で、応急処置をするのは難しいだろう。眩暈に襲われて、こうして俯いているのが精いっぱいなようだから。 「立てますか? 仮眠室まで行きましょう」  名前も知らない男に声をかける。彼は頷いて、少し間をおいてから、ゆっくりと立ち上がる。  おぼつかない足取りだったので、彼の背中に軽く手を回して、仮眠室まで連れて行った。通路を挟んだオフィスフロアの向かい側に、給湯室、書庫室、仮眠室がある。  彼を室内に誘導し、折り畳みベッドを広げて彼を寝させる。 「これ、舐めて」 尚人は自分のポロシャツのポケットから塩タブレットを一つ取り出して、彼に手渡した。彼が緩慢な動きながらも、それを口に入れるのを確認したあと、尚人は給湯室に向かった。そこに設置された大型冷蔵庫の冷凍室を開ける。が、アイスノンや保冷剤はなかった。あるのは、尚人が出社してすぐに入れておいたチョコレートアイスバーと、他の誰かが買い置いているボックス入りのアイスひと箱のみ。  尚人はチョコレートアイスと、冷蔵室から自分の買ったライチ水を手に取り、仮眠室に戻った。  仮眠室も冷房は効いている。が、少し温度設定が高い。設定温度を一度下げて、目を閉じて横たわっている彼に声をかける。 「これで首とか、火照った場所を冷やして」  チョコアイスにハンカチを巻いて、彼に渡す。ライチ水も枕元に置いて「少しずつでいいから小まめに飲んで」と声をかける。  彼は目を瞑ったまま頷き、チョコレートアイスを首の後ろに当てた。  とりあえず自分のできることはこれで終わりだ。尚人はオフィスフロアに戻り、鈴木に応急処置は一通り終わったこと、彼の症状が悪くなっていないことを報告し、自席に戻った。だが、仕事に集中できない。やっぱり彼のことが気になって、十五分置きにクリアファイルを二枚持って、仮眠室に向かい、仰向けに寝ている男の顔を、クリアファイル二枚で扇いでやった。 「大丈夫? 少しはよくなった?」  四回目の問いかけで、やっと芳しい反応があった。 「はい。さっきよりはだいぶマシになりました」  先ほどよりも声がしっかりしている。尚人はホッとした。 「じゃあ、電車に乗れるぐらい調子が戻ったら帰って。その前に鈴木さんに報告しなよ」  そういってから尚人が彼に背を向けると、「あの」と彼が大きめの声を出した。 「ありがとうございます。助かりました」  はっきりとした口調で礼を言われ、尚人は後ろを振り返った。恋人の声に似ていると思った。  彼が目を開けて、こちらを見ていた。  黒目の大きい双眸。それは分ったが。 「もし具合が悪くなったら、内線して。2552だから」  電話はベッドの近くに置いてある。  尚人は彼から目を離した。その瞬間、彼の朧気な顔のイメージが散り散りになって、消えていった。 「っていうことが今日あって、一時間ぐらい時間のロスがあったんだ。ミーティングも五時に入れられるし」  けっきょく、今日家に帰ってこられたのは午後八時過ぎだった。  帰りが遅くなった理由を話し終え、和真が作ってくれた肉じゃがを食べる。かつおだしが利いていておいしい。  同棲して二年目になり、恋人の料理の腕はめきめきと上達している。 「大変だったな」  和真が労わるような声で言ってくれる。 「今日は俺が夕飯作りたかったんだけど、ごめん」  最近、いつも平日は和真に夕飯を作ってもらっている。帰りが尚人より早いからだ。  和真は大手会計事務所で働いているが、今の時期は仕事が忙しくないようだ。四月、五月は繁忙期で終電で帰って来たり、毎週休日出勤だったりで、同棲しているのにまともに会話ができない日々が続いていたが六月はほぼ毎日定時で帰ってきていた。今月(七月)に入ってからは、四半期レビューがあるらしく、毎日一、二時間残業して帰ってくる。 「いいって。俺、けっこう料理作るの好きだし」 「和真の肉じゃが、俺、好きだ」  お袋の味とは違うけれど。醤油とみりんが控えめで出汁をきかせた風味、ホクホクのじゃがいもの食感は、毎日食べても飽きないんじゃないかと思うぐらいだ。 「なおの作った卵料理には負けるよ」 「そ、かな」  途中で声が震えた。だって、和真の足が、不意打ちで自分の膝小僧に触れてきたから。 「和真、行儀悪い」  不意打ちは本当に駄目だ。顔が急激に熱くなる。 「早く食べろよ、なお」  欲望で少しかすれた声。彼はもう、食事を終わらせていた。 「うん」  尚人が素直に返事をすると、恋人は気を良くしたように口角を上げた。 「食べたら一緒に風呂に入ろう」  風呂に一緒に入ってどうなるのか。たぶん、自分たちは、そこで――。  期待で全身が熱くなる。箸を持つ手は血の巡りがよくなったみたいにジンジンしてくる。意図しているわけではないのに、食べるペースが遅くなる。残りは味噌汁とご飯を数口、というところで、恋人が痺れを切らした。 「待てない」  言うと同時に、和真が席を立ち、尚人の椅子に回り込んでくる。  強い力で手を引っ張られ、尚人をはよろめくようにして、和真の腕の中に収まった。この強引さも彼らしい。和真になら、何をされても良いという被虐的な気分になる。 「――俺も待てない」  言ったとたん恥ずかしくなって、彼から目を逸らそうとしたけど、それを阻まれる。  彼の指が、尚人の頬に触れる。いつも触れてくる場所だ。そこには涙ぼくろがあるらしい。  和真の喉が上下するのを、尚人は見る。自分が理性を失うぐらい滅茶苦茶にされる予感がした。
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