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嫉妬
青空に浮かぶ山々の頂はきょうも穏やかに山間の村を見守っている――
義徳が死んで三年以上が過ぎた。
あの日、救急車で運ばれた病院の医師に急性心筋梗塞と診断され、佐和もあさ枝も唇をかみしめてただその言葉に頷いた。だが、本当の原因は香子だとふたりともわかっている。
あの時、義徳のもとに駆け付けていたら助けられたのだろうか、それともあさ枝の言うとおり動かなかったのは正解だったのか、危険を承知で飛び出すべきではなかったのか――佐和はしばらくの間自問していた。
だが、今はあさ枝に従っておいてよかったと心から思う。
佐和は理髪店の窓から我が子が駆けてくるのを見て微笑んだ。
「ママ、ただいまぁ」
からからと引き戸を開けて和徳が入ってきた。
「おかえりなさい。いい子にしてた?」
「してたよぉ」
そう言いながら、ひざ元に駆け寄る和徳を佐和は抱き上げた。
「和君は足が速ぉて、婆は追いつかんわ」
和徳の後からあさ枝がふうふうと息をつきながら入ってくる。
「すみません、おばあちゃん。毎日毎日お迎えに行ってもらって」
「ええよ。ええよ。これもええ運動や」
あさ枝は待合のソファにどっかりと腰を下ろした。
三歳になり幼稚園に通い始めた和徳のお迎えはあさ枝の日課になっていた。
この村には幼稚園も保育園もなく、和徳は村からただ一人、隣町の幼稚園へ通っている。
店から少し離れた空き地に通園バスが来てくれるので、行きは佐和が帰りはあさ枝がそこまで送迎していた。
「じゃ、おばあちゃん、ちょっと和君の着替えに帰ってきますね。お客さんが来たら待っててもらってください」
「よっしゃ、わかっとるで」
「ちょっとだけ、ばいばい」
後ろを向いて手を振る和徳に引き戸の間に立ったあさ枝も振り返す。
店から自宅までのくねくね坂の道のりを佐和と和徳は手をつなぎ、きょう習ったという歌を教えてもらいながら上っていった。
佐和ならまだやり直せるとあさ枝に反対されたが、身内のない老女を一人にできないと、義徳亡き後すぐここに移住した。
義徳を奪ったのは香子だが、自分にも責任があるように佐和は感じていた。
妊娠していることに気付いたのはその後だ。
あの夜、香子が自分に触れようとしていたのはこの子に気付いていたからだろうか。まさかと思いたいが佐和は香子が義徳の血を引く和徳を奪いに来るのではないだろうかと恐れていた。あの時見た香子の笑みが忘れられない。
佐和は和徳の手をぎゅっと握りしめた。
「いたいよぉ、ママ」
「あ、ごめん、ごめん」
佐和が手を緩めると今度は和徳が握り返す。
小さくて柔らかな手の感触に自然と笑みが浮かぶ。
この子だけは奪われたくない。
佐和は前を向いてぎゅっと唇をかんだ。
「ただいま」
玄関を開けると和徳は真っ先に仏間に駆けて行った。お鈴を鳴らして両手を合わせる。
胸が締め付けられる。
義徳が生きていたらどんなに幸せだっただろうか。
佐和は滲んでくる涙が流れないように顔を上に向けた。
和徳が一人でスモックを脱いでTシャツに着替えている。袖口から頭を出そうとぐいぐい引っ張り、「ママぁ」と佐和に助けを求めてきた。
「あらあらパパと一緒ね」
佐和は義徳がよく寝ぼけ眼でシャツの袖に頭を通そうとしていたことを思い出し笑った。
エプロンのポケットに入れてある携帯電話が鳴る。
出るとあさ枝が来客を伝えた。
「すぐ行きます」電話を切り、和徳に声を掛けようとしたが、すでに和徳は絵本やおもちゃ入りのバッグを持って玄関で待っていた。
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