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家路
「もうそろそろ限界かな」
終電を降りながらその男は感じた。
週末のホームでは酔っ払ったサラリーマンの二人がもめている。
肩が当たった、道を塞いだという些細なことで互いに汚い言葉で言い争っている。
理性を制御しきれずに野性化した二人と同じサラリーマンの衣装を身につけている自分にその男は嫌気が差した。
無益な争いに明け暮れる二人のサラリーマンの横を怪訝そうな表情を浮かべた群れに混じってその男はホームから去っていく。
改札の近くでは赤ら顔の学生たちが奇声を上げ、柱にはスーツ姿の女性が座り込んでいる。
混沌とした駅をその男は後にした。
買い物をしている客を見ることさえ珍しくなった商店街を通り抜ける。
『黄金商店街』と書かれた看板はすっかり古ぼけて『黄』の文字が消えかかっている。
「これじゃあ、金商店街じゃないか」
その男は欲にまみれ暴利を貪る人間の姿を思い浮かべた。
その一方で「金」のひと文字でも「こがね」と読めるのかと思い出した。
もし黄色の黄の文字がいつか消えてしまうことを想定して商店街の創設者が考えていたのだとしたら結構なことだと納得した。
「金」の文字は「こがね」や「きん」「かね」「こん」などの呼び方を持つ。
日本は一貫して経済の中心を意味するものにこの漢字を割り当て、時代とともに呼び名を変えた。
原子番号79の価値として小判を流通させた時代には「金」と呼び、貨幣を流通させた時代には「金」と呼んだ。
英語ではゴールドとマネーを使い分けるが、日本はその時代の鍵となるものには一貫して「金」というこの文字を用いてきた。
そんなことをその男は考えながら歩いている。
商店街を抜けると大きな派手な看板がライトアップされた大型ストアを見上げながら進む。
今は静かなこの通りも明日の休日には駐車場を求める車で混雑する。
それでも少し前のようなひどい渋滞は減ってきている。
大型ストアの交通整理への努力の賜物なのか、ネットショッピングで客を取られたせいなのか、それともそもそも個人収入が減少しているせいなのか、それはその男にはわからない。
周りに一軒家が増えてくるとその男の家路もやっと終わりに近づいてくる。
顔見知りの家主を庭先の手入れの行き届いた花壇を見て思い出す。
先週の休みの午後に通りかかったこの角の家からは練習途中のピアノのメロディーが聞こえてきた。
あの美術館にはまだお気に入りの風景画が飾られているだろうか。
改めて花や音楽や絵がこれほど懐かしく大切なものだとその男は駅からの道中に考え至った。
その男は落葉樹の街路樹越しに差す月の光に照らされながら妻が待つ家に辿り着いた。
玄関口に向かう家人の気配を感じながらインターフォンを押す。
もうすぐ「金」という字が別の呼び名に変わる予感を強く感じながら玄関の鍵を回した。
日付は金曜日から土曜日へと移ろうとしている。
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