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復縁ファイター
〝十秒後〟
心臓に亀裂が入って、そこからイナズマが現れた。イナズマは左右に小刻みに振れながら、一気に僕の頭のテッペンまで駆け上ると、そのまま空中へ抜けていった。
それは、そんな感じだったと言うのではなく、「本当にそうだった」のだ。
〝五十分後〟
元彼女の運転する軽自動車は、通称「大橋」を渡り始めた。この辺りで一番大きな橋で、高く緩やかなアーチを描いているので渡っている間は、僕の住んでいる町が一望できる。町の中心に二、三棟並んでいる高層ビルが、夕焼けでシルエットになって映えていた。
僕は、そのシルエットを定まらない視点で眺めていた。視点を合わせるという行為に面倒臭さを感じていたからだ。ピントがズレた視界のせいで、オレンジ色の夕日が、より目の中にいっぱい入り込んでくるような気がした。
僕は、知らぬ間に歌を口ずさんでいた。隣にいる元彼女に聞こえるような聞こえないような、その位の音量で口ずさんでいた。鼻歌にもならない曖昧なリズムに乗せて、歌詞をぶつぶつとまるで唇に乗せるように口ずさんでいた。
助手席にいる僕から元彼女の席までの距離は、わずかに一メートルも無いのだけれど、今の僕にとってそれは、果てしなく遠い所に元彼女がいる様に感じた。
いつもは上げてあるはずのアームレストが、今日はしっかりと下ろされ、フロントのベンチシートが個別の座席になっていた。
僕は、いつもと違う微妙なズレがこの狭い車内の端々にあって、折角、二人でいるはずの空間で、気持ちを混ざり合わせようとお互いが努力すらしていない事に愕然として、打ちひしがれた。
軽自動車のちっちゃなタイヤは、大げさに大橋の道路のつなぎ目を拾い上げ、ユサッと来る振動と、「ダダン」という騒音を露骨に作り出した。僕はその足元からやってくる音の事を何故だかしきりに気にしていた。それが今、頭の中で出来る唯一の事だったのかもしれない。
わずか一時間前までは幸せだった、と昔話の様に懐かしんでいる僕がいた。
〝四十五分前〟
今日は珍しく、彼女が僕をアパートまで迎えに来てくれた。普段、遠出をする時は僕の車で出かける、と二人の間では暗黙の取り決めがされているのだが、近場の買い物やご飯を食べに行く時は、気分によって彼女の運転で出る事もあった。彼女の軽自動車に乗ると、僕はカーステレオに繋がれている彼女のiPhoneが、フロントのスピーカーから流してくる彼女の選んだ曲を聞いて微笑んだ。彼女の好みを探るのが楽しかった。たまに、全く予想していない曲が入っていたりする。その時は、僕の知らない彼女の一面を見た気がして、更に嬉しかった。
僕達は近所のファミレスにやってきた。ごく普通のどこにでもあるファミレスだ。ピザも選べれば、シャケ定食も注文できる。そんなに頻度を上げて来ていたわけではないけれど、メニューの殆どを食べた気がする。
今日は彼女が一人でこのファミレスを選んだにもかかわらず、僕は二人で一緒に決めて、ここまで来たという錯覚に既に捕われていた。だから、ここに彼女が連れて来た本当の理由など知る由も無かった。
昼の忙しい時間も過ぎて、店内には客がまばらにしかいなかった。店員が僕達の人数を確認した後は、「お好きな席へどうぞ」という具合に、いたって自由に席を選ぶ事になった。
彼女は、テーブル席の間をスルスルと抜け、店の一番奥にある窓際の席に座った。窓からは今二人で走ってきた道路が見える。車がひっきりなしに通ってはいるが、ガラス一枚を隔てて、エンジンの音も無く、排気ガスの臭いも無く、外とは隔離されている。ファミレスの客は誰も外の車に関心を持たないし、逆に、外を行く車のドライバーもファミレスの客に全く興味を持たない。
メニューをお互い広げて、二人で腹の空き具合を確認しながら、注文を決める。だいたい、僕達のデートの場合、二.五人分を二人で分けて丁度良かった。お手ごろな出費に抑えられ、しかも、一人で食べるよりは、ずっと種類が味わえるので、僕はこの二.五人分という分量が好きだった。
注文を決め、呼び出しボタンを押す。ピンポンとお決まりの呼び出し音が店内に鳴り、程よくして店員がテーブルに来た。僕達は、二.五人分の注文をすると、店員は二.五人分の注文を復唱した。
店員が僕達のテーブルを離れてからは、僕達はたわいの無い話を続けた。仕事の事や彼女の飼っている犬の事、それに、明日何処に遊びに行くかなど。僕には全てが日常範囲の話で、心落ち着く時間だった。
暫らくして、注文した二.五人分の料理を店員が次々にテーブルに運んで来ては手際よく並べた。テーブルの上は香りの運動会が始まったかのようになった。二.五人分の料理達が、様々な香りを「早く食べてごらん」、とばかりに漂わせている。今日は二種類のパスタに、小さめのピザ一枚。僕はまずパスタに手を伸ばした。
しかし、向かいに座る彼女の動きは僕と反していた。料理に手をつけず、更には口を横一文字にしている。目線は僕とパスタの間のテーブルの縁の辺りを狙っている感じだ。何か考え事をしているような、どこか困っているようなそんなそぶりに見えた。僕はパスタを取ろうとしていたフォークを皿の横に置いた。
「ごめん、こっちが食べたかった?・・・どうしたの?何かあった?」
僕の口から出てきたのは、単語毎に区切られたブツブツの言葉だった。何か。そう何か。今までの経験からすると何か嫌な事が起こる前触れを、一瞬で感じとったせいでそんな話し方になった。
僕の言葉をきっかけに、彼女は、僕がいつも好きだった彼女の笑顔とは別の、少し落ちついて、それでも僕をいたわる様な、ささやかな笑顔を見せて話し始めた。
「私達、これから、もう少し距離を置いた関係でやってみない。実は、自分のやりたい事とか色々あるんだよね。それをする為の時間を持ちたいの」
僕の脳内では、この遠回りの言い方でも、つまり「別れましょう」という言葉で表現すべき内容だという事が冷静に理解できた。
「えっ、何。僕達二人ではそれは出来ないの?」
それなりの形式的な言葉に今の状況をあてがって、彼女の真意を引き出しても良かった。しかし、それをしてしまっては、あっという間に結論が出て終わってしまう。それを僕は激しく恐れた。しかし、彼女は窓の外の車を目で追いながら、まるで僕が形式的な言葉にして表現するのを待っているかのように見えた。
彼女がこのファミレスに来たのも、この店の一番奥の窓際の席を選んだのも、全て今の話を切り出す為の初期設定だった事に僕はようやく気がついた。つまり、彼女の別れ話は、今日アパートに僕を彼女の軽自動車で迎えに来た時には既に始まっていたのだ。僕は見事にその流れに乗って、身を任せてここにたどり着いた。ここでは、周りの目もある。店員もいる。彼女をもちろん罵倒などはできないし、手を上げる事もできない。無論そんな勇気も無いのではあるが。でも、もしも、そういった肉体的に爆発させる気質を僕が持っていたとしても、そんなことを実行する勇気が沸かない場所に誘われてしまったのだ。
逆に、僕が感情に押し流されて、ワンワンと泣く事は可能だろうか。そんな男らしくない事もまた、このファミレスの店内でできるはずも無い。
僕は彼女の言葉をあっさりと受け止め、その審判に抗議をする訳でも無く、ひたすら耐えなければならないのだ。僕は次の言葉に完全に行き詰ってしまった。
「もし、メールや電話をすると辛いって事であれば、一定期間連絡を取らないって事にしてもいいよ」
さすがの僕も、彼女のこのひと言には一気に泣きそうになった。僕は彼女との連絡をひと時も空けたいと思わない。土日を一緒に過ごすのが当然と思っているし、それが楽しいのだ。僕は何も無理はしていない。彼女さえいればいい。そんな考えの人が、連絡を一時取らなくても大丈夫と言われて、「はい」と言えるわけが無い。僕はメールをしない日が一日でもあるようなら、メールが無い時間は顔にビニール袋をかぶせられて息をしているのと同じだ。僕の全てが苦しくなる。
僕はこの時、初めて音にならない音を自分の内から聞いた。それは丁度胸の辺りからだった。ベリッとか、バリンと言うような破裂音ではあるものの、音の割には砕け散りはしていない。薄い膜があるおかげで、ちぎれた胸の皮はなんとか繋がっている。でも、そこからヒューヒューと肺に向かって空気が抜けていくのである。僕の胸は声を出すだけの空気も貯蔵できずにいる。僕は瞬きだけは忘れずにしっかりしていたが、後は無口だった。
〝一時間後〟
その後、僕達が何を話したのか、そして、いったい僕はあそこにあった料理を食べたのかどうかさえも記憶に無い。気がつけば元彼女の車に乗って、僕のアパートに向かっている途中だった。
夕日が僕の目を焼き付けて、僕は赤色のモノにしか反応しない網膜が装着された気分だった。
美しい夕焼けだった。空と陸との境目からきれいなグラデーションになっている。それを見ていたら、バケツにたまった水が表面張力だけで持っていて、次の滴が波紋を起こし、その波紋がバケツの縁に到達した所で、チョロッと水がこぼれるという仕掛けがあったかの様に、涙が目からこぼれた。僕はそれを元彼女にばれない様に手で拭った。少しだけだったから、それだけで十分拭えた。
元彼女の選んだ曲がフロントのツースピーカーから流れてきていたが、僕の耳には届きはしなかった。
僕がここで土下座でもすれば許してくれるだろうか。僕が思いつく限りの今までやってしまった悪い行いや失言を謝って、元彼女が気になると言う全ての癖を直すと誓うならば無かった事にしてくれないだろうか。ひょっとすると、僕の全財産をあげるというのが一番効果的だろうか。色々と考えてみた。しかし、僕は外の景色を眺める事しかできなかった。
アパートの前で元彼女の車を降りた。昔、小学生の頃、子猫を見つけると家に連れ帰ってくるという事を何度かしたことがある。結局、結果は毎回同じで、「うちでは飼えない」と、拾ってきた子猫を親にしかられた後、山に捨てに行くのである。
その時の子猫達の姿がなぜか、ふと頭に浮かんだ。子猫はうらむわけではなく、でも、一瞬つかみかけた幸せのぬくもりが、また離れて行き、再び自分の記憶する寂しげで痛々しい現実に放り出される。その恐怖で何もできないでいた。
僕はそっと子猫を地面に置いた。車のドアを閉める勇気は僕には到底無くて、親がドアを閉める。ドアを透視する様に、僕は子猫がこっちを見ている様子を頭の中で何度も想像した。僕は、今まさに、自分があの時の子猫そのものの表情をしているに違いないと確信した。
元彼女は、車をアパートの来客用のスペースに止めることはしなかった。あくまでも通りすがりに僕を置いていきたいのだ。僕は無駄な抵抗はせずに、素直に車から降りた。ひょっとすると、この助手席に座ることは二度と無いかもしれない。いや、その可能性の方が、飛行機に乗って事故に合う確立よりももっと低いに違いないと考えた。
僕の胸の辺りは極度に締め付けられ、息をする力さえ今は無いのではないかと思った。今から僕が行うすべての動作が、元彼女との共有した時間の中で最後にする行動であり、二度と繰り返す事のできない動作になるのだ。それは、小学校の卒業式で、学年の代表で卒業証書をもらいに行った時よりも緊張を強いられ、しっかりと記憶に留めないといけない、とどこからとも無く脅迫された。
軽自動車のドアを閉める音は限りなく安っぽく聞こえ、まるで窓ガラスが割れたかの様な響きは、僕の気持ちを粉々に打ち砕く寸前だった。
元彼女は、車の中から軽くお辞儀をする仕草を見せ、手を振った。僕が少し対応に困っているのを感じたのか、元彼女は前を向くと軽自動車をゆっくり進めた。僕はそれを霊柩車でも見送るかの様に眺めていた。
その時に手を振り返さなかった、と反省したのは、ずっとずっと後になってからだ。
僕は元彼女を追っかけ、とうせんぼでもして軽自動車を止めるべきだったのかもしれない。きっとゲツクドラマの主人公はそうするに違いない。そこに決め台詞と、ハッピーエンドが待っていると決まっているのならば、この日が落ちて日常生活の香りで満ちている夕暮れ後の住宅街で、そんなドラマのひとシーンを演じることは僕にとって苦でもなかった。むしろ、そういったありがちな行動に出ない自分に驚いた。
僕は立ち尽くしたまま、元彼女の軽自動車のテールランプが、左折して見えなくなるまでじっとただ見送った。いつもは角を曲がる間際に、ハザードを挨拶代わりに三、四回点滅させる。その恒例の儀式は今日は無かった。
三年間の元彼女との付き合いは、ファミレスでの突然の別れの通達により、一気に崩壊して、そして、僕は今、この友達もまともにいない地元でもないこの町で、一人になった。
もともと就職が決まったから地元を出て、この町にやってきた。就職が理由とはいえ、何かの運命でここにたどり着いた事に違いは無いが、少なくとも友達を作りに来たのではないと良く分かっていた。だから遊ぶといえば、仕事の同僚と遊びに行くし、飲みに行くと言えば、職場のグループで行く事が当たり前だった。だからこそ、職場とは関係の無い所で元彼女と出会い、付き合うまでの流れが生まれたと言うのは、僕にとっては有り得ない程の良い運が一気に発揮されて、そこから生まれた奇跡だったのかもしれない。しかし、残念な事に、今の僕を見てみると、あの段階で運は全て使い果たしていたようだ。
〝七日後〟
振られた次の日から、僕は更に苦しむ事になった。
仕事に行っても、元彼女が忘れられない。仕事場の隣に座る女子社員のしている彼氏から貰ったと思われる指輪に気づけば、元彼女は僕がプレゼントしたピンクゴールドの指輪をもう外しているのだろうか、と想像してしまう。ひょっとして他の僕のプレゼントと一緒にまとめて捨てられているのかもしれないと考えると、心は一気にドン底にへばりついた。
週末旅行に行ったという同期の話を聞いても、素直には聞く事はできない。僕はこれから当分は一人で旅行に行かなければいけないのだ。それなら、いっそのこと旅行に行こうなんて思わない。
見る事、聴く事、考える事で、いちいち自分の状況が簡単に解決できないくらい、白紙の世界に戻ったのだと知らされる。
ため息はひっきりなしに出る。職場のあるビルの四階までは、会社の方針で「エレベータは使わない」、となっていて階段で上がるのだが、足が重過ぎて二階までが限界な気がしてくる。
窓の外の、紅葉が終わって風で吹き落とされる落ち葉を見ていると、目が潤んで熱くなってくる。目蓋は意味もなく痙攣を始める。でも、日本男児はこの位では仕事を休まず、プライベートの悲しみも同僚に悟られてはいけないのだ、という日本男児気質を勝手に美学にして考えて、ひたすら堪える。
しかし、それでも、駄目な時は、限界に近づく度、トイレの個室にこもった。
会社が終わると、元彼女にメールをした。
「もう一度やり直せないか」、「俺の話を聞いてくれないか」、「どうして俺の事を嫌いになったのか」、「友達としてやり直そう」。
結局、結果は散々で、一週間程送り続けたが、元彼女から一度も返事は無かった。
今まで当たり前のようにメールが来ていた。あの事が幻の様にしか思えない。僕がメールの返信に遅れると、怒られていた。元彼女からの一日数回のメールですらめんどくさいと思う日もあった。今の僕のからすると、なんて贅沢な考えを持っていたのだろうと、めんどくさいと思った自分を殴りつけたくなる。
僕がこの町で本当に一人なんだと言うのを思い知らされるのは、元彼女からのメールも電話も着信がぱったりと無くなってしまって、それでも携帯は常に持ち運ばなければならなくて、こんな携帯はただの邪魔者ではないか、と実感する時だった。
時間があれば、何度も何度も「メールあり」という文字が携帯の液晶画面に表示されていないか確認してしまう。自然とそうしてしまう。ほとんど反射的にそうしてしまう。
元々、元彼女とやっていたメールなんて、その時に何か用事があったわけではない。そうやってメールをすることで、常にお互いが相手の状況を知っておきたいと思っていただけの事である。元彼女も、そうしたいのだろうと。いや、少なくとも僕はそうだった。
僕は元彼女が何をしているのかいつも知りたかったし、ただそれで元彼女に何かを強制したいと思っていたわけではない。元彼女も逆に僕のことを知りたいだろうと思っていた。
きっと、元彼女は僕が気づくずっとずっと前から、束縛されている気持ちが積み上がり始めてたのだろう。昔読んだ雑誌で、男は最後の最後、彼女が別れを切り出すまで、その事に気がつかないと言っていた。その通りだった。僕はなんてバカで、単純で、人の気持ちに疎い生き物だろう。自分が男である事を心底嘆いた。
持つべき野生の勘を中途半端な都会の生活できっと無くしてしまったのだろう。思うと、付き合っていた時の全ての出来事がこの結果を生み出す引き金だったような気がしてくる。
会社で仕事をしていても、意識は常に別の所にあった。仕事はまともに手に付かず、そんな自分に、「はっ」と気がつけば、僕は更に自分を馬鹿にし、ののしり、反省を繰り返した。
アパートに着けば、そそくさと晩御飯を作って食べる。そして、ベッドに寝転んで、メールの新規作成のボタンを押す。元彼女は今何をしているのだろうか?気になって仕方ない。
僕は、それらしく軽い挨拶をしてみようと思った。「元気ですか」、「仕事はどう?忙しい」、しかし、付き合ってた頃は何気なく書いていた文章が、今では、元彼女の反応を考えると、急に自信が無くなる。簡単な内容のメールを送りたい、その為の文章は頭に浮かんでいるのに、キーを打つ指がうまく動いてくれない。
どういうわけか僕の思いつく言葉が、全て当てつけの言葉に思えてしまう。それが文と言う塊になると、より、当てつけがましく見えてくるのだ。付き合っていた頃の簡単な挨拶さえも、今では悩まなければメールにすら出来ない自分がいた。
僕は、怒りとも悲しみとも絶望とも断定しきれない気持ちを、自分では消化できなくなっている。
腹いせに携帯を窓際に置いた元彼女のお気に入りのソファーに投げつけた。ソファーの背もたれのクッションで一度大きくバウンドした携帯は、ゴツリという鈍い音と共に床に転げ落ちた。「壊れたかもしれない」、咄嗟にそう思ったが、受信すべき送信メールの無い今の僕の状況では、携帯が壊れていようが、実は関係ないのではないかと思った。そして、自分が更に情けなく見えてしまう。
こういった時、世間の人はどうしているのか、国民総勢アンケート調査でもしてみたい気分だった。他の人は失恋し、張り裂けてしまった胸の空洞をどうやって埋め、この辛い状況をやり過ごすのだろう。
僕はパソコンを手元に寄せると、ネットで「女心研究所」のサイトを検索した。僕は特に困る事無くそのサイトに辿りついてしまった。
「女心研究所」に来るのは本当に久しぶりだった。最後に来たのは元彼女と付き合う前だ。
三年以上も前の事になる。女心研究所は僕の恋愛の先生であり、心の支えだった。元彼女との初デートを計画する時もこのサイトを見て、悩みを解消し、間違いが起こらない様に勉強した。
女心研究所は、質問をして答えてもらう、と言うような一時しのぎの恋愛相談所ではない。シンプルにテキスト形式で綴られた文字ベースのウェブサイトであるが、そこには女心を研究している見えない先輩方のこれまでの豊富な経験を元に、貴重な見解や女性の行動パターンの研究結果が記されているのだ。
自分の行動を先輩方の理論と照らし合わせると、取るべき行動とは全く逆の事をしようとしている自分に気づかされる。そうやって幾度と無く、僕は助けられたのだ。
今回も、研究所の先輩の知識の中に、この状況を打破する秘策があるかもしれない。すがる僕の気持ちは、いつしか女心先生に絶大な期待を寄せていた。
ホームページのトップは、各項目毎の見出しが並べられていて、見出しを選べば、選んだジャンルにまつわる先輩方の知恵と経験が表示される。
僕は、見出しをチェックしてゆく。「気の無い相手をデートに誘う」、「相手とうまく別れる方法」など、ジャンルは様々だ。その中から、自分の状況に近いモノを探す。
ふと考えた。僕は元彼女とどうしたいのだろうか。
元彼女には言われっぱなしだったから、文句の一つでも言ってやりたいのか。すっぱりと忘れて次の恋に向かうのか。もう恋愛は止めて仕事に打ち込むか。はたまた、ストーカーにでもなって元彼女を脅すのか。
今の僕が望む事。それは一体何なのか。
僕が選んだのは復縁だった。
元彼女とヨリを戻し、僕の考えうる過去の愚行を反省し、付き合っていた頃の何の不安も無かったあの頃の、元彼女との幸せに溢れたあの生活を取り戻すのだ。
女心先生の項目を調べていくと、「復縁」とだけ書かれた見出しを見つけた。まさしく、今僕が最も欲している内容そのものだ。迷わずクリックする。
「今あなたは、失恋し、傷つき、そして、未来に絶望しています。絶望は何故起こるのか。なぜなら人間は地球上の生き物で唯一、未来を想像し、その未来への不安と失望によって、恐怖を感じる動物だからです。しかし、それと同時に、その未来を現実のものとする力を持った生き物なのです」
いきなりのドギツイストレートパンチと、変な宗教観の入り口ぎりぎりの淵をさ迷っているような、そんな文章がまず飛び込んできた。普段の思考を持って見た場合、こういった類のモノは、笑って過ごしてしまうだろう。でも、僕は瞬間でこの言葉に捕らわれた。そうなのだ、僕は未来を想像して、絶望している。元彼女と一緒に行くジャスコでの買い物。隣同士で手を握り合いながら乗るスノーボードのバスツアー。ほとんど水の掛け合いっこになってしまう車の洗車。その他にも数え切れないくらいの二人でしか出来ないこと。それら全てがこれからの未来には二度と起こりえない。そう考えるから、こんなにも胸がはち切れてしまうのだ。
「まず質問です。別れを切り出された時のあなたの態度はどうでしたか?泣いたり、捨てないで、とすがったりしてませんか?更には好きなんだ、こんなに好きなんだとアピールしてはいませんか?これらの行為は復縁にとっては全て逆効果です」
幸い僕は、元彼女の巧みな罠によって、ファミレスという環境に置かれることで、何もできず、女心先生が指摘する諸悪は無かった。しかし、危なかったのは事実である。あと一歩の所で、シチュエーションの違いがあれば、完全にしてしまっていただろう。
「次に、メールや電話を立て続けに送ったり、掛けたりしてませんか?彼女が引きます。あなたはこれから最低一ヶ月間、ありとあらゆる連絡を彼女と取ってはいけません。今彼女はあなたを悪者にしているのです。捨てるモノを悪者にすればより捨てやすくなります。それが今のあなたなのです。でも、安心をしてください。女性は一ヶ月で、あなたを悪者にしたレッテルを洗い流し、次の恋に向かいます。そこであなたは再び友達として、彼女の前に現れるのです」
「しまった」、携帯ですがるようにメールを打っている自分の姿をいくつも想像できる。
これは完全に地雷を踏んでしまった。嫌な汗が手の平一杯に広がっていく。復縁を何かの競技に例えるなら、この時点で、とてつもないハンデ戦に立ち向かっていかなくてはいけなくなったのだ。こんな大事な事を女心先生は何で最初に教えてくれなかったのか。
これだったら、三年前に元彼女と付き合う為のアプローチを研究している時に、別れた時の事を考えて、復縁への手順も見ておくべきだった。僕は激しく動揺した。女心先生は僕がどんな状況であるか、個としては理解していない。僕がどういうステージにいるのかは、僕自身で判断をせねばならない。だとすれば、すでに手遅れになってしまったのではないか。メールを送り続けていた時は、いつか元彼女も根負けして送り返してくれる。そう考えていた。独りよがりの行動によって、僕は自滅の道を歩いていたのだ。
「もし、既にメールや電話をしてしまった方は今の時点からスタートです。今日から、この時から、彼女との一切の連絡を断ち切ってください。電話はもちろんメールもです。こっそり、家に様子を見に行ったり、会社帰りに待ち伏せは論外です。今のあなたにとっては、これは大変苦しいことでしょう。しかし、この苦しみを乗り越えた者だけが、復縁と言う尊いゴールに辿り着けるのです。思い出してください。彼女と作った数々の楽しかったすばらしい思い出を。一緒に観た映画を。一緒に過ごしたあなたの部屋での何気ない瞬間を。それをまた取り戻せるなら、とそう考えてみて下さい。一ヶ月の苦しみに耐え、生き残るのに十分な力をあなたに生み出してくれるはずです」
僕は、安っぽいおもちゃの人形のように「うんうん」と首を振った。
こういう状況を招いたのは自分ではあるが、女心先生は僕をまだ見捨ててはいない。復縁への道を示す、その為の、根性試しとして女心先生は一ヶ月のコンタクト断ちを指令している。僕にとっては苦しい戦いになる事は容易に想像できた。しかし、僕は女心先生の言うように、一ヵ月後の元彼女とのコンタクト再開に望みを掛けることしか今は無いのだと思った。今はそれ位しか、状況を変える為にすがれるものが無いのだ。
どうせ僕は元彼女の中では消えかけている、勇気を振り絞り敢えて立ち向かおう。可能性を少しでも広げてくれるのなら、僕は一ヶ月メールを絶とう、電話を絶とう。そして、元彼女の中の、悪の僕が浄化され消えて行くのを待とう。新しい僕がそこにすり替わって入れる様に、その為の準備をしよう。
この一週間、まともな生活をするにも、「ヒー」とか「はぁー」とか、気の抜けた掛け声を出さなければいけなかった僕の心の中に、少しだけ力が湧き出てきたような気がした。
僕は、床に落ちている携帯を拾い上げると、打ちかけていたメールの文を消去した。ひとまず元彼女へのメールは我慢する。
携帯は僕にとっては強い見方だ。この中に元彼女へつながる情報が押し込まれている。でも、携帯よ、今は一休みだ。そして、また楽しい出来事を僕に伝えてきておくれ。それまで携帯よ、ゆっくりと休め。僕はいざという時、君が無くては困ってしまうのだから。
〝十日後〟
僕は、初めて自分が彼女と別れたことを公言する事を考えた。会社ではまだ誰も僕が元彼女と別れたことを知らない。別に会社はそういった相談に乗ってもらう場所では無いし、仕事にミスが出た時に、それを失恋のせいとして見られたくなかったから今までは黙っておく事にしたのだ。深く考え過ぎて、悪い方に極端に思い込み過ぎていたのかもしれない。実際、人は他人の恋愛ごとにそんなに興味は無い。だから暴露した所で、なにか新しい事が起こるわけでもないし、同情で慰めてくれるわけでもない。しかし、今の僕には被害者意識が強すぎて、頭でっかちになっている。そのせいで、全てを元彼女と別れた事へとリンクさせてしまう。だから誰かに話せばすっきりして、気持ちもまた変わった風に成るのではないかと、安易に外に助けを求めてみたくなったのだ。
公言を考えた理由は他にもある。ある事を確かめたかったからだ。それは、女心先生が言っている事が、他の人においてはどのくらい当てはまっているのだろうかと言うことだ。幸い、振られた人は周りにそこそこいるのを知っていた。特に、休憩を一緒にとる同僚のヤスダは、振られる事に関してはベテランだ。ヤスダは幾度もの失恋を通して失恋慣れしてしまった。そのせいで会社内では失恋の辛さを隠さない主義になっている。振られてから当分は仕事がまともに手につかない。ミスも続く。突発の休みを取る。
ヤスダを見ていたせいで僕が失恋秘密主義になったといっても、それは過言ではない。
昼休みになるといつものように食堂に向かった。ヤスダと僕は自然と食堂への人の流れに乗って、二人並んで歩いていた。
「ちょっと、聞きたいことがあるんだ」
「寒いなぁ、そろそろ上の通路を通っていかないと、ちょっと厳しいかな」
ヤスダはそういって、腕組みをして身を縮めた。彼のいきなりのスルーで僕は戸惑いそうになる。しかし、今日、聞かない分けにはいかない。僕もそれなりにどう切り出すか、家でイメージトレーニングをしてきているのだ。めげずに、もう一度切り出してみる。
ヤスダは腕を組んだまま両脇に手を挟み、その手を出し入れしながら摩擦発熱を始めていた。
「彼女に振られた時、お前はいつもどうしてる?」
ちょっとストレートに聞き過ぎたかと思って、僕は横目でヤスダをチラチラと見ながら、視線の大部分は通路の先に向けたままにした。ヤスダを直視は出来なかった。
発熱しているヤスダの手が止まった。
「なんだ、もしかして別れたのか」
ヤスダのはっきりとした言葉は、確実に周りにいる人に聞こえるレベルだった。僕は慌てて、ヤスダに向かって、「声でかい」っという感じで口パクをした。ヤスダは一瞬「あっ」と言う表情をして眉を上げた。
「そうだなぁ、まずは『もう一度、やり直そう』ってすがってみるかな」
注意したにもかかわらず、ヤスダの声のトーンはそれほど落ちていなかった。ヤスダに音量調整をお願いするのは無理だとあきらめて僕は話を聞くことにした。
「でも、大体の場合そうやっても、まずは無理だな」
「うまく行ったことはないのか」
「ないね。男を振る時、女は冷静で冷酷だ。下半身で行動をしていないからな」
ヤスダは笑っていたが、僕はきわどい会話になってきた事で、周りが更に気になってドキドキしていた。
「で、次にどうするんだ?」
「次か。なんとかメールとか電話とかで繋ぎ止める方法を探る。メールも朝と晩には必ず送る。でも、電話はちょっと控えめにする。相手がフリーな時のタイミングを計るのが難しいからなぁ」
僕は既に、ヤスダが復縁を実現した事が一度も無いと推測できた。それでも敢えて聞いてみる事にした。
「元鞘になったことはそれであるのか」
「ないねぇ。大体最後はメールアドレスが変わってしまって、送ってもエラーで戻ってくるようになる。これが最悪に辛いんだ。本当に立ち直れないね。俺はそのせいで、メール恐怖症になった事もあるくらいだ」
さすがに失恋先輩の経験量は違う。復縁を目指す僕の参考にはならないが、しかし、勇気付けられる。ここまで打たれ強くがんばってる奴もいると言うことが分かって、ヤスダへの心の距離はぐっと縮まった。
食堂で急かされる様に、定食を食べていた。ヤスダも意味もなくご飯を口に大量に放り込む。殆ど噛まずにご飯を飲み込むと、ヤスダは箸を止めた。
「別れたらそれで最後だ。次の恋に向かうのが一番。俺はそうやって今までやってきて、それが一番効率的だと分かった。まぁ違う事をいう奴もいるだろうけどなぁ」
「復縁は考えないのか」
「考えるよ、でも、それは新しく相手を見つけるより根気が要るぞ。それと、時間も掛かる。パッと、考えてうまくいく気がせんだろ」
ヤスダはそういって味噌汁のお椀を口に運ぶと、ガブガブと味噌汁を飲んだ。決して見た目は良くない。
「そうかぁ、あの子と別れたかぁ。残念だったなぁ。今はちょっと休養を取る事だな。一人で過ごす休日ってのも三年間味わってないんだし」
僕はその休日が、今は辛くてならない。気が紛れるから会社にいて仕事をしていた方がいいくらいだ。
大好きなジャスコに行っても、目に入るのは仲良く歩くカップルだったり、男の服を選ぶのを手伝ってる女の子だったりする。見るからに皆幸せそうだ。それに僕は二週間前までは、向こう側の人だったのだ。元彼女がその頃に、僕を彼氏と見ていたかどうかは別としてだが。そういう想像にどうしてもなっていく。とにかく、人の幸せが痛いのだ。何もかもがオーバーラップしてしまうのだ。
今回のヤスダへの聞き込みからすると、女心先生は非常に正しい事を言っている。拝み倒しや、泣き落としで、相手の心は変わらない。ヤスダが全てを実践してくれていたようだ。彼には悪いがいいサンプルだったと、感謝しなければいけない。
〝十三日後〟
別れてからメールを出し続けると、逆に僕の気持ちは元彼女には届かなくなっている。そう考える事でメールや電話への僕の衝動は抑える事ができてきた。考えると面白いものだ。僕は振られてから、自分の心の中の理性的な部分を、なかなか理解してくれない野生の僕と戦っている。野生の僕が悪い方向に行かない様に、ムチや餌でコントロールしないといけない。二重人格にでもなったかのような感じだ。
僕は女心先生に素直に従うことにした。僕にとっては一度すでに実績を上げてくれている先生である。今回も女心先生のアドバイスに忠実に従っていく事が正しいような気がする。そして、そう考える事で、野生の僕をもう少し手懐けられる感じがする。
女心先生のアドバイスどおり、元彼女にはメールも電話もしないと決めてからは、確かに辛い毎日が続いた。一番辛いのは、朝起きた時だった。夜寝る時も辛くはあった。以前であれば、寝る前に元彼女とメールのやり取りや、インターネット電話で長々と取り留めない話をしていた。元彼女の職場での出来事や、パワハラを平気でして来る上司の話。面白くもない話題が大半だった。それでも、寝るぎりぎりまでの間を一緒に過ごせすのは幸せだった。話しながらウトウトと寝てしまう事もある。そういう時は、どちらかが大声で起こしたりするのだ。それも、楽しかった。
元彼女に寝るぎりぎりまで時間を取られると言うのは、めんどくさいと感じる事もあった。勿論、嫌ではないのだが、なんとなく無駄な時間を過ごしているような気がするからだ。しかし、今の僕にとってはそれら全ての時間が贅沢で、他に変えようの無い最高の幸せだったと思える。好きな女の人と眠りにつくぎりぎりまで話が出来たのである。それも当たり前の様に。今もし、その状況になるのであれば、僕は一晩でも二晩でも徹夜で話を続けてもいい。元彼女が寝てしまったなら、その寝息を聞いているだけでも、僕はきっと幸せだ。失ってから初めて気がつくことがあまりにも多く有り過ぎる。何故それを付き合っている時に感じなかったのか。何故考えなかったのか。それだけ、僕は元彼女と時間を共有し過ぎて慣れていたのだ。それが当然と甘んじていた。どれだけ恵まれて、幸せな毎日であったのかを一度は考えるべきだった。
寝る前に、以前の習慣を思い出すのは、金属の棒でグルグルと頭の中を掻き回しているようで、続けていると気持ち悪くなってくる。そしてその事は、僕自身を攻めていくきっかけになる。だから、寝てしまえばそれら全てを忘れ、一日の中で唯一、僕の心が開放される時間だった。寝ている時は考える事を忘れられる。
しかし、起きた時はひどいものがある。目が覚め、目を開いた瞬間に一気に現実が襲ってくるのである。もう元彼女は自分のモノではないという現実。
そう考え始めると、朝ごはんはまず食べる気にならず、コップいっぱいの水か牛乳を飲み干すだけになる。次にYシャツに着替えるのに、体が思うように動かなくなる。袖にうまく腕が通せないといった具合だ。まるで、子供が夏休み明け学校へ行くのを嫌がるかの様だ。
アパートを出るまでの間は、ため息をついてその空気圧を利用して何とか体を前に進める努力をする。階段を下る時は重力をうまく利用する。筋肉を使うのは必要最小限の部分だけだ。
車に乗ると助手席に乗っていた元彼女の姿を想像する。それを忘れようと、必死に前を向いて運転をする。冬が近づいている。出勤の時間、太陽はまだ上がりきらず低かった。太陽が発する生命の根源の鋭く煌びやかな光は、低い角度から容赦なく僕の目を照りつける。
僕は、余りの眩しさに堪えきれず、目を細める。年を取ると、朝、目が覚めて太陽を拝む。そして、感謝する。今日もちゃんと目が覚めた事への感謝。お天道様が自分を見守ってくれている事への感謝。夫婦であれば、そばに連れ添いがいて、大きくはないけれど裏切られる事の無い幸せが、直ぐ手元にあることへの感謝。
きっと、幸せな人は朝が来ることを怖がらない。
僕は今、朝が大袈裟に怖い。B級映画の、目が覚めると夢だったと言うようなありきたりのオチがあって、次のシーンでは全てが元彼女と別れる前に戻っている、そんな事が起こって欲しいと僕は願っている。そうであるならば、どんなに安っぽいシナリオであっても、その中のちっぽけな脇役でも受けようではないか。元彼女が僕の彼女であり、幸せに連れ添って生活している世界。それが、約束されているならば、僕は十分その世界に住む事が出来る。そうやってしてでも彼女と一緒に生きていく事を望んでいる。
最近は夢を見る。辛い夢だ。折角考える事から開放されているにもかかわらず、次は夢によって僕は追い詰められる。
僕がどこか知らない南の島の美しい海辺にいる所からその夢は始まる。ほんのりと暖かく、体全体が楽で気持ち良い。
砂浜に真っ白なベンチを置いて、僕はそこから眩し過ぎる程に白い砂浜と、そこに絶え間なく打ち寄せてくる透き通った青い波をジッと眺めている。打ち寄せる波はとても優しく、僕の心を落ち着かせてくれる。
しかし、急に気がつくのだ。どうしてここに一人でいるのだろう。まだ、他に何かあったはずだ。頭の中にサイレンが鳴って、僕を急き立てる。どこからとも無く低い低い声で指令が響き渡って、それまで少しの不安もなかった僕の心は、木っ端微塵に吹き飛ばされ、不安で一杯になるのだ。
不安に突き動かされるように、僕は真っ白なベンチから立ち上がり、美しい海岸とは反対の深い緑の森に足を進める。僕には何か探し当てなければならないモノがある。勿論、それが今の僕の心境であれば、元彼女であることは言うまでもない。でも、夢の中の僕はそれにまだ気づいていない。
昔飼っていた子犬かもしれないし、引越しの時に捨てられたお気に入りの変形型のロボットのおもちゃかもしれない。僕はそれまで心を和ませてくれていた何かを失って、それが不安で仕方なくなって森の中を探し、さ迷う。森はどんどんと険しくなり、足元を木の根っこが悪戯に邪魔をする。
森を進んでいくと村があって、その入り口に老人がいる。老人はやつれているわけではないが、頼りない位ほっそりとしていて、よく焼けた肌に、それに反する様にやけに白い歯を見せながら、口を半開きにして笑顔でいる。目は開いているのか閉じているのか見当もつかない。瞼が垂れ下がってしまっていて、判別できないのだ。
僕はその老人に当然の様に聞く。
「僕が探しているモノはどっちに行きましたか?」
老人は笑ったまま答えない。ちょっと苛立った僕は、いけないとは思いながら、老人の肩を両手で押さえた。
「どうしても、見つけたいんです。でも、僕の探しているモノは一体何なのですか」
老人の笑みがふっと消えた。そして、垂れ下がった瞼を思いの他、上に持ち上げた。するとその奥にきれいな瞳があるのが良く分かった。
僕は、じっと僅かに見えるきれいな瞳を覗き込む。かすかにその瞳が左に向いたような気がした。僕はその視線が向いた思う方向をサッと見る。すると、森の中にすっと吸い込まれていく人影らしきモノを見た気がした。ほんの一瞬ではあるが、見た気がした。
気がしたにもかかわらず、僕は何の疑いも無しに、それが探しているモノだと分かった。そして、何の迷いもなく、その影を求めて森に向かって再び進んでいくのだ。
僕はその影を追いかけながら、いつしかそれが元彼女なんだと自分に言い聞かせていた。足を動かせば動かす程、それが確信に変わっていく。だから、僕の足はどうやって動かしているのか自分では分からない位の力を持って地面を蹴り始める。今の僕の足は僕の人生の中で一番軽やかに動き、そして頼もしかった。
人影を必ず捕まえなければいけない、と心でそう決めている。だから、暗く人間の住む所でなくなっていく森を、僕は少しの不安も無く進んでいける。僕に襲い掛かる不安は、その影に追いつけなかったらどうしよう、と言う不安だけである。
僕は、その影を追う事だけに集中して、周りを全く気にしない。怖くない。進む力は無限に溢れ出てくるかの様だった。木の枝は僕の進む先を隠すように生い茂っていて、容赦なく僕の顔や腕や足を打った。その度に、ピシャ、ピシャっと鞭で打つかのような、激しく鋭い音がする。木の枝が当たった時、強烈な痛みを感じるが、目を先に奪われている僕は、痛さと言う感覚を簡単に受け流して忘れてしまう。
僕の視界は限りなく狭まり、神経は力いっぱい引き伸ばした輪ゴムの様にピンと張り詰めている。それにもかかわらず、影との距離は全く縮まらない。ふと気持ちを冷静にしてみると、影がどこに向かったのかも良く判らない、と認めそうになってしまう。森の暗さが罠にかかったといわんばかりに僕を木々で包み、僕の不安をぶり返そうとした時、僕はそれを払い除ける様に、元彼女の名前を叫んでいた。大声で叫んでいた。いつの間にか涙を流しながら叫んでいた。それでも影は、先に進んでいく。微かな気配が僕にそう伝える。迷子になった子供が必死に母親を探す様に、僕は追いかけながら泣いている。足を止める事無く、前に前に進んでいく。
もう影の痕跡すら無くなってしまった。気配も感じられない。僕自身が、この深い木々の生い茂る中を、どっちに進んでいけばいいかも分からない。そして振り返ってみても、どうやって来たのかも見当がつかない。白い砂浜に戻ることは出来ない。
僕はスピードを緩める。ゆっくりゆっくり緩める。そして、パタリと足を止めた時に、村の老人が目の前に突然現れた。老人はさっきと同じ笑顔を見せながら、僕の頭を撫でてくれた。僕の心の緊張は一気に解き放たれた。
「追いつくことが出来ないのです」
老人は頭を撫でるだけで、声は掛けてくれない。僕は少しも老人を警戒せず、両ひざを地面に着き、老人に頭を撫でてもらいながら、老人のぬくもりを心で感じていた。
「どうしても追いつくことが出来ません・・・」
すると老人は首を大きく二、三回縦に振った。頷いてくれているようだった。それを見て僕はただただ泣いた。
そして、僕は目が覚める。そうやって辛い朝がまた始まる。こんな夢を見た朝は、水の一杯すら飲みたいと思わない。一刻も早く、自分を取り巻く環境を変えたくなってしまう。そのまま、直ぐに会社に向かう。女心先生はこういった夢に関してはどう対処するかは教えてくれない。僕の内面の話であるので、女心先生にしてみれば、それは「君の問題だ」と言うに違いない。僕は寝る時に、夢を見ない様に願いながら寝る。
〝十五日後〟
僕の失恋はこれまでの僕の人生において最大の出来事だった。これ程に打ちひしがれた事はない。しかも、知り合いも全くいない愛すべきこの町には、まともに相談が出来る相手がいない。逆に相談が出来たとしても、元彼女と復縁が出来るような一発逆転の特効薬や裏技を持っている人もいないのである。しかし、僕にとっては果てしなく重要で、誰にも取り合ってもらえていない状況に、不満を感じてしまうのだ。
テレビのニュースでは、国会で失言をした議員を攻め立てたり、政治資金の話で議会に本人を呼べ、などと盛んに議論がされている様子が報道されていた。よくもここまで、人を陥れるような資料を見つけてくるものだと感心してしまう。
果たして僕の失恋と、今盛んに行われている国会での話し合いを天秤に掛けた時、どちらが重くなるだろう。僕は、僕の失恋の方がずっとずっと重いに違いないと断言できる。
僕が別れたのは、問題をどこからかほじくり出してきたのではない。自然の流れの中で、元彼女に振られてしまったのである。もし振られていなければ、ひょっとすると結婚をして子供を沢山作って、日本の人口減少に歯止めを掛ける一役を担ったかもしれない。なのに、国会では、結果を出す事に意味が無い様に思われる話を、いつまでも、いつまでも、とても重要な話だと言わんばかりに議論をしている。
僕はこの際恥を忍んで、国会で今回の僕の失恋とこれからの復縁に関する日本のトップ達の意見を聞いてみたい。これだけのトップが集まれば、一人の女性の気持ちを変えるくらい出来そうなものである。
例えば新しく法律を制定してみよう。
こういったのはどうだろう。相手を振る前には、最低一ヶ月前に通達が必要で、、その通達内容は、相手への改善点や要望を示すこと。一ヶ月の猶予後、本人にその改善が見られ無い様なら、別れてもよい。
こんな簡単な法律でいい。国会は地べたの国民生活に密着した法律を一つでも多く作るべきである。この法律があれば僕はどれだけ助かった事だろう。今回の出来事はきっと起こらなかっただろう。
元彼女は要望や改善点を僕に全く知らせる事無く、まるで忘れていた考え事を、「あっ」と思い出して、その考えをまとめる前には僕の元を去っていった。次の日に会う約束でもしている様な、そんな普通の態度で去っていった。元彼女には、次の日から独りになると言う事への不安などは無かったのであろうか。
女心先生によると、女性は常日頃からそういったサインを男性に送っているらしい。しかし、男性はそれに気がつかないか、気がついても重要視しない。男性がそれらのサインを受け取ら無くても女性の心の中ではサインを送ったという事実はどんどん積み重なってゆく。そして、ある一定量まで溜まった時に、その積み上がったサインは一気に崩れ落ちる。それが別れという形で突如表面化するのである。
女性が別れを切り出した時には、既に女性の心の準備は出来ていて、慌てた男性が何を言ってもひとまず無駄なのだ。
付き合ってた頃に、元彼女が僕に対してどういうサインを送っていたのか思い出そうとしても判らない。つまり僕が上手く受け取っていなかったのは事実である。勿論、それを受け取っていたのなら、こうやって僕に別れが訪れる事は無くて、そういった点でも結局は僕の落ち度なのである。
一つ考えるのは、僕と元彼女が駄目になった最大の理由は「結婚」だったのではないだろうか。結婚の話は元彼女が一年くらい前にしていた。一年前の僕は、まだ何か、今やっている事よりもっと人生を楽しめる方法が他にあると信じていた。理屈の無い寂しいデイドリーマーだ。
「結婚」は人生の最大の儀式だ。全くの他人が社会的概念によって一つの塊として融合させられる。僕はその融合の儀式を受ける事にことごとく逃げ腰であったのだ。その事は否定できないし、逆に元彼女が、さてどれくらい結婚を本気で意識していたのか、というのにも疑問は残る。しかし、一つの判断基準として、元彼女は去年、僕に初めて「結婚」の話をしたのだった。僕は結婚の話をされたあの日のあの時から、ひそかに秤に掛けられ、物差しをあてがわれていたのかもしれない。
その計測をした結果が、今回の元彼女が出した「別れ」と言う総合評価になったのだろう。総合的に、元彼女にとっては僕は結婚相手失格だったのである。僕の元彼女への愛情や優しさは他の誰もの追従を許さない。点数の伸びを邪魔したのは、「結婚を考えているかどうか」だけだったのでは無いだろうか。
僕は結婚を毛嫌いし、その答えを後回しにした。その結果が今の結婚相手すらいない、結婚するかどうかの選択を悩む事すら必要の無い状態に身を投じる事になったのである。結婚をするべきだった。僕は元彼女と結婚を何故しなかったのか、と自分を攻め立てたくなる。後少しの決断で、状況は全く違っていたはずだ。僕の望む状況はどっちだったのだろう。今ではそんな答えの無くなってしまった問題をなんとか解いてみたくなる。
ひょっとすると、元彼女はこうなる状況を既に一年前から予想していたのかもしれない。僕を計測する中で、徐々に見えてきた将来の設計図。それを作る事が出来たのは元彼女で、僕はその設計図を分けて見せてもらう事はできなかったのである。僕が怠けていたのは間違いない。僕はのんびりと、全く違うスピードで元彼女との時間を楽しんでいたのだ。
原因は全て僕にあるのだ。元彼女が僕に魅力を感じなくなったのも、きっと、僕が元彼女への愛情表現を見える形でしなくなったからだろうし、その先に見える結婚という目的地は僕のせいで深い霧に包まれてしまって元彼女には到底見えない場所になっていたのだ。
僕は、取り返しの様のない果てしない場所に自分が来てしまったのだと思う。僕と元彼女は決定的に違う道を歩いて来てしまったのだ。元彼女は線路の所々にポイントを配置し、僕を密かに誘い込んではポイントに乗せて切り替えようとしてくれていたのだ。なのに僕は、そのまま自分の線路をひたすら真直ぐ走ったのだ。今になってそのツケをまとめて払わされている。
全ては男という性が悪い。女の感情を汲み取らない鈍い男の性がだらしない。その悪い代表が僕である。
だから国会ではつまらない話を続けずに、僕を幸せにする為の討論をしてもらいたいのである。鈍感で相手のサインを見落としてしまいがちな、そういった男に与える執行猶予。未来への安全策と予防線。こういうのがあればきっと役に立つ。国会での時間もそんなに取らないはずだ。捻り出してある事ない事を並べているわけでもない。紛れもない現実で、それで苦しんでいる人がここにいるのだ。
〝十七日後〟
車を運転している時、僕は大抵FMのラジオ放送を聴いている。最近の音楽をメインに流す局で、ちょっとテンポ良く話してくれるDJもいたりして、聴いていて面白い。しかし、何の問題も無く調子良く聞ける曲もあれば、聞くのが辛くなってくる曲もある。今までそんな風に音楽に自分の心境を投影して聴いた事は無かった。曲のせいで気分の浮き沈みが起こったり、イライラするという経験をした事も無かった。しかし、僕の心は常に失恋モードに入っているせいで、直ぐに波長が合って影響が出てしまうようだ。
よくよく聞いてみると、歌は失恋に関するモノが多い。実際、そんな事は無いのだろうけれど、失恋モードが開きっぱなしの僕の心にはそんな曲が良く届く。失恋をキーワードにして、わざと拾い上げてしまうのだ。
歌詞から学ぶ事もある。女性の方が、失恋から復活するのが早い。きっぱりと、過去を忘れ、次の恋に生きていく。そんな気持ちが歌詞ではよく歌われている。男はこういった所からも、女性に既に切り捨てられるべく定められていて、その上で男女の関係が成り立っているのではないだろうか。元彼女が僕にあっさりと別れを告げた。それは、つまり歌にも表されている女性の心理そのものだったのではないだろうか。
僕は、いまだに元彼女を忘れる事なんて出来ない。ましてや、ある曲で歌われてた、次の恋でもあなたの教えてくれた事を思い出す、などと言う悠長な気持ちにはなれそうに無い。
DJは毎日陽気に曲を紹介して、当たり前の様に次の失恋の曲にいく。僕は次の曲に入っても、前の曲の歌詞に刺激されたままで涙がこぼれそうになる。どうして、僕はこんなに辛い目に遭ってしまっているのだろう。
くよくよが止まらないのである。車の運転をしているにもかかわらず、ずっとくよくよしながら別れた日の元彼女との軽自動車の中の様子を思い浮かべている。たまに、想像にふけり過ぎて、前の車が止まっているのに気がつかず、急ブレーキになったりする。そうすると、一瞬「はっ」と我に返るのだが、それでも、くよくよ癖は直らない。失恋した時に、失恋の曲を聴いてはいけないのである。だから、ラジオを切る時もある。異常に静かな車内。いつもは元彼女を乗せていたシートも、当分誰も座る事は無く、元彼女と僕とで、どちらの好きな曲を掛けるか争っていたオーディオも今は僕専用になって、しかも、音楽が流れればくよくよしてしまうので、オフにしたままなのだ。空しい妄想のループが僕の中では続いている。
女心先生は、失恋した時の車の運転の仕方も教えてはくれない。そんな情緒不安定な状態で、車なんぞ運転するべきで無い。僕の落ち込み癖も自分では嫌になる位もう身に染み付いてしまった感じがする。この僕の状態を元彼女が見たらどう思うであろうか。別れて良かったと安心するのではないだろうか。そうなれば、僕にとっては決定的なダメージであり、いかなるコンタクトも断ち切って一ヶ月と言う期間を我慢している僕にとっては、それは単に一ヶ月を無駄に過ごして、尚且つ元彼女にとっては、二度と会いたくない、くよくよな奴になってしまったという事である。僕はなんとしても、このくよくよ状態から脱出して、自分の誇りと自信を取り戻し、FM放送を聴いても、車の運転が散漫にならないように復活しなくてはいけない。
今の自分に振り向いてくれる人など元彼女は勿論、このままでは他にも決していないのである。前に進む様に心に勢いを付ける。それは、失恋を過去のモノにしてしまっている歌の心境なのだろう。僕は、少しずつでも心境を変えていかなければいけないのである。
女心先生は、そういうたくましい考えになる為のポイントは言ってはいないが、きっと僕に望んでいるに違いない。そういうたくましさを持って元彼女との再会の日を迎えれば、未練のある姿を見せること無く、新しい友達という感覚で会えるのではないだろうか。
女心先生の教えによると、復縁の最初のステップでは、決して相手に復縁をしたいという雰囲気を悟られてはいけないらしい。振られた直後は、不思議な事に好きだ好きだと寄っていけば行く程、相手は逃げていくそうだ。恋愛中とは逆の法則になっているのだ。だから元彼女に再び会う時は復縁の兆しを見せず、しかも、自立した一人の人として、そこに成り立っている事が理想の像だとしている。一ヶ月連絡を取らない事で、相手を不安な気持ちにさせる、という効果がある。その不安な効果と、自立しているという見せかけの態度が、復縁への大きな一歩になるのだ。
ラジオを聴いて「ボォー」っとしてる場合ではない。失恋の曲を聴いて、ブレーキを掛けるのが遅くなってもいけない。そういった空っぽの状態にならない様に自分を厳しく律していく。きっと出来ない事はない。しかし、試練であるのは間違いない。あの楽しかった日々を取り戻すのだ。その意気込みが原動力になる、と女心先生は最初に言っていたではないか。やはり、女心先生は見ている所が、僕の浅知恵とは違う。数々の経験が、女心先生の知識の源であり、その知識を十分享受して、僕は失恋から脱出した理想的な一人前の人物にならなければいけないのである。
今の僕には勇気が必要だ。今の僕には間違った事をしているのでは無い、と言う自信が必要だ。その先に、復縁と言うゴールがあることを信じきる。その勇気が必要なのである。心構えは、ずっと前に出来ている。ここで、投げ出すわけにはいかない。ここで諦める訳にはいかないのである。
ラジオからは相変わらず、失恋や昔の恋愛を思い出したような曲が流れている。しかし、僕はもうこれ以上それに引きずられない。僕は、曲の主人公の様に、多くの女性歌手がそうしている様に、この失恋を過去の出来事として、気持ちをグレードアップするのだ。
力が沸いてくる気がした。今まで、殆どそう言ったプラス面の要素は出てこなかったが、ここに来てなんだか多くの事に整理がついて、ひと段落してきたのかもしれない。
僕はこのまま上手く自分を軌道に乗せることが出来るのではないだろうか。そして、女心先生の求める理想の形に成りえるのではないだろうか。そう思った時、更に僕の心は落ち着いていった。
〝二三日後〟
僕の心は日に日に変化を続けている。変化の形は、簡単な上向きではない。例えるなら、三次元のグラフに表現して、スパイラル状に線が延びていって、そのままグルグルと巻きながらグラフの右肩に上がっていっている。そんな感じだ。最低値を十分超えたせいか、朝起きてから、ひどく落ち込んでしまって、車の運転がままならないと言うことは無くなった。
人間の感覚と言うのはよく出来ている。ある程度の所で規制が入って、そこから先に行き過ぎない様に自然とブレーキが掛かるのである。
僕は一度、風呂で死ねるものか試した事があった。顔面をお湯に付け、我慢をし続ければそのまま死ねるのではないかという発想だった。元彼女とのメールが途絶え、全く返事が来なかった頃だ。メールの返事くらい出来ないものか。なぜそんな簡単な事も元彼女は出来なくなってしまったのか。どうしてそれ程に僕は嫌われてしまったのか。そう考えると、心臓に汗をかく様な感覚に襲われ、そこを熱源にして体内がジッと熱くなる。怒りという事ではないが、自分の想像通りに事が進まない、それに対する悲しさがエネルギーになって、「なんで?」という問い掛けが、何千回と頭の中で繰り返されるのである。そういった不安が心の中を滅茶苦茶に掻き乱す。僕はそれを落ち着けねばならないと咄嗟に思った。そこで、風呂に入ったのだ。風呂をぬるめに沸かして、そこに三十分もつかれば、きっと気持ちは落ち着くだろう。そう思ったのだ。
だけれど、お湯につかり鼻歌でも歌おうとしても、いい曲が出てこない。最近よく聞いて耳に染み付いている曲は、どれも失恋の曲だからだ。
僕は、人間の限界を超えてみる事で、この苦しみから逃げれるのではないかと考えてみた。
風呂はぬるく、いつまで入っても大丈夫だった。そのぬるま湯に、僕はおもむろに顔を水につけた。鼻と口をしっかりと塞ぎ、欲を言うならば、耳辺りまでは完全に水中になる様に顔を頑張って押し下げる。
一体、この体勢を何分とっていれば、僕の命と言うのは途切れてしまうのだろう。三分か、五分か、十分か。どういう気持ちでその時間を待てばよいのだろう。死後の世界を想像するのか、それとも、生まれ変わった自分の次の人生か。ここまで追い込んだ元彼女への恨みか。
しかし、僕はふと気がついた。まてよ、こうやって死ぬと言うのは、息をただ止めているだけで出来る事なのだろうか。それだけでは、まだ死ぬには足りない。
息をただ単純に我慢をするのではなく、水で死ぬと言う事は、つまり、ここにあるお湯をすっと肺に入れて、そして、肺をお湯で満たす事で、酸素の交換が滞り、僕は死という所にたどり着くのではないか。
当たり前ではあるが僕はその事に気がついた時、とても大きな恐怖に襲われた。
ぬるま湯でリラックス効果も期待できると言う状態から、ちょっと気持ちを切り替えて、鼻や口を開いてお湯を取り込む。そんな無茶な事を一体どのような引き金があれば、実行に移せるのであろうか。
僕は軽く鼻の力を抜いて、お湯を少しばかり取り入れてみた。すると、これまで二分ほど息を我慢していた僕の体は、想像以上にお湯を吸い上げた。一気に鼻の中にお湯が入り込んで来る。入り込んだお湯はそのまま口の方へ回り、少し塩気のあるお湯が舌の上に広がった。
僕は驚いたわけではないけれど、湯船から飛び上がった。「ゲホゲホ」と咳が止まらない。半開きの口からは鼻を通ってきたお湯が滴っている。
鼻の中にこれ程の量の液体を通したのは、小学生の時、鼻詰まりで行った耳鼻科での治療以来だろう。あの時は、何も知らずに先生に言われるがまま、その病院で鼻洗浄の治療を受けた。方法は、プールの後に目を洗う要領と同じで、鼻を差し込むように作られた蛇口みたいなのがあって、蛇口に両方の鼻の穴を差し込む。すると、蛇口から塩水が出て来るのである。僕は早速、鼻洗浄の体勢を取って、塩水を流し込んだ。しかし、余りにも暴力的過ぎるその攻撃に、一瞬でひるんでしまって、蛇口から鼻をすかさず外した。するとそれを見ていた看護婦さんが、「だめですよ、ちゃんと口を開けて、鼻からの水を口に通さないと」と注意をしてきた。「この水を口から出すなんて・・・」僕は絶対にそれだけは出来ないと、確信した。そんな絶望的になっている僕の横では知らないおばちゃんが蛇口に鼻をつけていた。おばちゃんは慣れた具合で、「あ~」っと声を出しながら口から水を出しているのだ。
人間の構造としては間違いなく出来るのだろう。後ろから看護婦さんも見ている事もあり、僕はもう一度チャレンジした。しかし、鼻に来るキツサは更に倍増したかのようだった。
心か頭の何処かにあるスイッチを切り替えて自分自身に、鼻から口に水を通す、その行為が正しい事なのだ、と言い聞かせない限り、この治療は決して出来ない。僕はそう悟った。
僕にはそんな気持ちの切り替えは決して起こらない。誰に強請されようが、はっきり言えば僕にはそんなスイッチが備わっていない。子供心ではあるが、潔く結論付けた。
その後、僕がその耳鼻科に行く事は二度と無かった。
なんらかの切り替えスイッチを見つけ出し、自分に言い聞かせて、それをオンにする事が正しいのだと信じ込ませて、スイッチを切り替える。そうでなければ、浴室で顔をお湯に浸けて死ぬなどと言う、根性の要る事は出来ない。切り替えの為のスイッチは果たして僕のどこにあるのか。心の中か、頭の中か。はたまた、体を洗うスポンジの横か。洗面器の下か。どこを探しても、見つかりはしない。初めから浴槽で溺死する為の切り替えスイッチなど、僕には用意されてないのだ。
元彼女を失って、ひどく落ち込んでいるのは間違いない。そして、その事がきっかけで自暴自棄、または、何とか楽になりたいと必死にもがいている。それも、間違いない。しかし、それによって、自分の命を無くそうと言う所には直結してないのだ。
僕はひどく落ち込んでいるから、今なら十分死ねると思った。いや、思ったのは幾度も頭をよぎった一瞬の時だけである。死ぬという気持ちが持続しない。それは、元彼女との復縁を求める気持ちが、逆に燃え上がるような生への執着心をもたらしているからではないだろうか。僕は、不幸のドン底で、生きる原動力を手に入れていたのである。
これがたまたまそうなったのか、それとも、まだ僕が死ぬタイミングではないと神様が言っているのか、分からない。でも、今、僕は全く死にたいと思わない。僕は強く生きてみせる。復縁する時に、青く冷たくなって死んでる僕では元彼女も抱きつきにくいだろうし、キスなんて絶対にしてくれない。僕は生身の生きた体で、元彼女に再び出会わなくてはいけない。
命とはこうも力強いものなんだと、感心させられた。社会生活に十分染まり、もうこれ以上、感情の理解を深める事なんて無いだろうと、全てを知った気でいた。しかし、そうではないのだ。僕は今、愛に飢えている。愛情をひどく求めている。きっと、元彼女と付き合った時は、もっともっと愛を持ち合わせて元彼女に発信していたのだ。それと、同じ様に僕は愛の存在に、今限り無く近づいている。愛は素晴らしいものなのだ。愛があるから生きていられる。それは、言われ尽くされた言葉であるが、深く理解するのに今は難しさを感じない。
愛情が僕を復縁したいと突き進める。背中をどんどん押す。僕はそれに応じる様に前に進みたがる。前に進もうとする気持ちは、たまに暴走を始めようとする。暴走をしようとする僕は野生の僕だ。その野生の僕を抑える僕がまた居る。
僕にはゴールがあるのだろうか。何時そのゴールはやってくるのか。女心先生は、ニコニコと僕を見ているに違いない。多くの先輩方が通ったであろう過去の失恋の歴史の上を僕は歩いている。その歴史の橋から落ちないかどうか、小悪魔のような面持ちで女心先生は、僕をしっかりと監視している。橋から外れたからといって、女心先生は僕の腕を取って助けてくれはしない。きっと、落ちていく姿を、またニヤニヤしながら見ているだろう。
僕は女心先生に強さをアピールしないといけないのだ。僕の強さが、女心先生が求めている復縁への力となるのだ。
〝一ヵ月後〟
ついに運命の一ヶ月が経った。苦しい毎日だった。振られてからの一ヶ月は今までの人生で一番長く感じた一ヶ月だった。
一ヶ月も元彼女と会わなかったら、顔はどうだったのか、情けない事にはっきり思い出せない。まるでコーヒーに入れたミルクを掻き回して混ぜている時の、ミルクが作り出すグルグルと周る模様の様に、初めははっきりしていたのが、すぐに輪郭はぼやけて曖昧になって、コーヒーに溶けていく、そんな感じだった。
それに反して、元彼女の優しさや、旅行に行った楽しい思い出が、映画館で観る映画の様に頭の中のスクリーンに大写しされていて、僕はその映画館のチケットを毎日毎日握り締めては、映画に浸っているのだった。
記憶だけを頼りにしてしまうと、元彼女が一ヶ月前に本当に存在していたのか。それすら良く分からなくなる。もし、「それは全て夢の話だったんだよ」、と悪戯に言われたとしても、「そうだったかも」と納得してしまうかもしれない。
一年の十二分の一。まずはその期間を、僕は一人で生き抜いた。女心先生は、一ヶ月が女性の記憶の目安と言っている。元彼女は一体どういう一ヶ月を過ごしていたのだろう。誰と遊びに行ったのだろうか。まさかとは思うが新しい彼氏など出来てないだろうか。元彼女の立場で物事を考えていくと、何故かしら悪い事の方が先に浮かぶ。
僕の事はどう整理をつけたのだろう。僕を悪者にして、ゴミ箱へ捨ててしまったのだろうか。
女心先生は、別れ方次第でその後の二人の関係は変わってくるという。彼氏が彼女に復縁を迫り過ぎて、それがほぼストーカーになってしまったケースでは、復縁の可能性は限りなくゼロである。彼女には彼氏に対する恐怖しかない。
僕はあっさりと、元彼女との距離を取ったケースだ。車でアパートの前に捨てられ、それっきりだ。悲しいくらいシンプルだったが、女心先生的に言わせれば、理想的な別れ方だったのである。
一ヶ月たった今、僕は止め処も無く出てくる期待と喜びを、何とか抑えなければいけなかった。ここからが肝心だからである。復縁へのアプローチ。つまり元彼女へのアプローチだ。ここで焦っては駄目だと、女心先生は声を大にして僕達を常に戒めている。「昔の様な二人にもう一度戻ろう」や、「僕が何を直せば元に戻れるかな」等、過去を連想させてはいけないそうだ。過去の僕は元彼女に捨てられたという現実をはっきりと理解していなくてはいけない。その事を肝に銘じなければ、気を抜けば復縁に関する話に自然と持っていってしまうのだ。大事なのは復縁を考えていないと言う見せかけの態度だ。まずは、友達として戻ってくる。それが大切なのだ。
僕は早速、携帯でメール作成に掛かった。久しぶりの元彼女へのメールで、携帯が喜んでいるように見える。キータッチが軽やかな気がする。新規作成でメールを作り始める。宛名の欄に元彼女のアドレスを設定する。元彼女の名前が、アドレスに変わって表示される。懐かしい名前に見えた。眺めているだけで、すごく心が温まる文字の並びだ。僕の直ぐ傍にいつもあった文字達だ。僕のモノであった文字達だ。うまくいけば、苗字の二文字は僕の苗字になっていたかもしれない。元彼女の名前をジッと見つめてしまう。
なにかの縁でこの文字の人と出会い、この文字の人と三年と言う時間を過ごしてきた。この文字は僕にとっては脳の中の一部に成っている。この文字を見るだけで、自動的に僕の脳は刺激される。僕に安らぎを与えてくれる。僕にいい香りをもたらしてくれる。僕の目に、世の中が煌びやかに光り輝く、掛け替えの無いモノとして見させてくれる。
僕の三年間の全ては、この文字と一緒にあったのだ。
僕は元彼女の事をまだ愛している。まだ、激しく元彼女を求めている。それは、一ヶ月と言う時間では、とうてい拭いきれない感情だ。女心先生は、その感情を見せてはいけないと、はっきり忠告している。僕も勿論それは分かっている。だから、僕はメールに真剣に向き合わなければいけない。何があっても、ここで間違いはできない。でも、女心先生の様に強靭な精神力を見習って、僕の本当の心を隠して、メールを打つと言う事がこれ程難しいとは考えもしなかった。
僕はメール画面に向き合った。
「久しぶり。元気?ピョコに会いたくなったよ。散歩に行きたいなぁ」
元彼女は犬を飼っている。名前は、ピョコピョコとジャンプするからピョコ。名付け親は僕である。別れてしまった今、ピョコの名前は果たしてどうなったんだろう。ふと不安になった。ピョコと言うと、僕を連想させてしまうのではないか。それで、元彼女が引いてしまうのではないか。僕の思考はまるで初恋の人に出すラブレターの文面を考えてるみたいだ。小さい所が妙に気になってしまう。
「久しぶり。元気?ワンコに会いたくなったよ。散歩に行きたいなぁ」
僕はピョコの名前を外す事にした。素直に元彼女はピョコに会わせてくれるのだろうか。というよりも、僕はピョコには悪いが、元彼女に会いたいのだ。ピョコの散歩に行きたいといっても、ピョコが居ようが居まいが僕には関係ない。ピョコは大好きだ。いつも口の周りを舐めてくる。初めは嫌だったけれど、そのうちに、一週間に一度はそれがないとなんだか物足りなく感じてしまう。その位、見事に習慣付けられた。でも、それよりも、今は元彼女を早く見たいのだ。僕の思い出の人物が、本当に存在している事を早く確認したいのだ。
メールを送信する。手紙のマークが画面の外に飛んでいく。手紙はいつになく軽やかに飛んで行った。「送信できました」というメッセージが表示された。もう、後戻りは出来ない。この一ヶ月の修行の成果が問われる瞬間だ。僕は返事を待った。メールを待っている時間は、一ヶ月待ったのと同じくらい長く感じてしまう。
僕は、携帯を机の上に大切に置く。メールが来れば直ぐ分かるように、音も鳴るように設定しておく。恋愛テクニックでは、返信されてきた時間と同じ位の時間を待って返信をした方が良い、と言われているそうだが、そんな時間を僕はきっと待ってはいられないだろう。一ヶ月ずっとこの時を待っていたのだ。良い返事だけではない事も心に言い聞かせておく。ひょっとすれば、振られたあの時の、頭からイナズマが抜けていくような感じ、それがまた起こりえる。そんな可能性を十分はらんでいる。
僕は待った。待っているだけでは、どうしても携帯が気になってしまうから、テレビを見て気を紛らす。それでも、気になると、風呂に入ったり、洗い物をしたりした。しかし、携帯はいくら待っても期待した様には反応しなかった。
結局、夜の内に返信は無く、携帯は黙ったままだった。
次の日は、会社に居る時も着信が気になって仕方が無かった。とにかく常にメールの着信が気になる。僕はちょくちょく携帯を覗き込んでは、着信が無いことで、いちいち気を落とさなければならない。これ程までに、僕はメールを待っていた事が今まであっただろうか。しかし、メールは着信しなかった。携帯会社がメールを何処かで止めているのではないかと思った。
返信メールが来たのは、僕が送ってから丁度一日が過ぎようかという時だった。着信した時は、ただそれだけで、飛び上がりそうなくらい嬉しかった。まるで、僕が携帯のメールシステムを作って、その実験メールが届いたかの様な錯覚に襲われた。
僕は嬉しくて仕方が無かった。しかし、返信は同じ時間を待ってから、と言われているのを忠実に守れば、今読んでも返信できるのはまた明日になる。いや、そこまでは待てない。メールの内容も僕の期待とかけ離れている可能性もある。少なくとも、着信拒否ではないだけでも、まずは第一関門クリアだと、心に余裕を持たせる。
僕はメールを開く覚悟を決めた。
「久しぶり。元気だよ。今週末は少し用事があるから、ピョコの散歩行くなら来週にしない」
僕は予想以上に好感触の返信に心が高鳴った。直ぐに返信をしようと思った。一ヶ月ぶりのメールでは、僕の気持ちを抑えるのは大変だ。一度冷静になろう。僕が出来る、ぎりぎりの我慢というのを実践した方が、女心先生の教えに背かないと考え直した。直ぐに返信するのは、携帯を握り締めて待っているという図式に成るらしい。ひとまずシャワーを浴びて時間を作ることにした。
シャワーを浴びながら、僕の心は女心先生に感謝をしていた。女心先生は嘘を言っていなかった。こうやって、また会える約束を取り付けたではないか。この一ヶ月の中で一番実りある一日に成りそうだ。僕は頭を洗いながら、鼻歌が自然に出てきて、風呂場カラオケを楽しんだ。
メールの内容を何度も頭の中で、考え直してメールの理解を深めてみる。すると、時間が経つにつてどこと無く悪い方へと考えが動き始めた。頭の上にソフトクリームの様に積み上がったシャンプーを流していると、シャンプーに流し出された汚れが、そのまま頭の中に浸透してきているのではないかと思った。犬の散歩に行くのはそんなに時間を取らない。掛かるとしても、近所の公園や広場に車で連れて行ってせいぜい二時間位だ。週末は土曜と日曜あわせて四八時間もあるのだ。それなのに予定があって駄目とはどういう事だろう。泊りがけの旅行でも行く気なのだろうか。行くとすると果たして誰と。そんなに旅行好きではないはずだ。しかし、別れた後ということもあるから、友達が傷心を癒すために企画でもしてくれたのだろうか。それを、男が企画したとしたら。下心ミエミエの男ではないか。そんな話に元彼女が乗るだろうか。そういう事が起こり得るのだろうか。
トップ3に入る女の子がデートの誘いを断る方法は、用事は無いけれどあなたの誘いの時はいつも用事があります、から来る「忙しいから、また次の時」と言う文句だ。
僕は、元彼女にとっては、その決まり文句を使う相手になっているのではないか。来週は大丈夫というのも、直前になれば、「やっぱり用事があるので、また今度」となるのではないか。僕はそういうカテゴリーの人にジャンル分けされてしまったのだろうか。
シャワーを浴び、風呂を出ると、元彼女からのメールを見直す。
「久しぶり。元気だよ。今週末は少し用事があるから、ピョコの散歩行くなら来週にしない」
浮かれてしまって、来週には元彼女に会えると考えていた。しかし、まだこのメールの段階では、あくまでも実現の可能性は、五十パーセント。ひょっとするともっと分が悪い方に傾いているかもしれない。一発で予定を決められなかったのは、そういった後回しの法則で、ただ結論が先に追いやられただけの事ではないか。
僕の不安は募っていく。だが、ここで僕はこのメールに返事を出さねばならないのである。果たしてどうすればいいのか。無理に今週で二時間くらいは作れないのか、押しの一手でいってみるか。それとも、「そう、それならぜひ来週に」と受け流すのか。
女心先生は、あくまでも焦るなと忠告してくれている。初めのメールのうちは、直ぐに会いたいという気持ちが先走ってしまい、「いつ会える」、「何故会えない」、と押してしまうが、これはやればやるほど会えなくなる可能性を増大させる行為だと、忠告している。
冷静な判断を失いそうな僕にとっては、直ぐにでも会う約束を取り付けたい。その気持ちを抑えなければいけない。来週に延ばしてそれがドタキャンになるのは絶対嫌だ。考えすぎると、どうしても冷静な判断は出来そうにない。だからあえて、僕は女心先生を信じきるのだ。
来週でひとまず手を打つことにする。その後は、元彼女を信じて来週のピョコの散歩が実現するのを心から願う。これで、大きな間違いは無いはずだ。
弱虫と言う人もいるだろう、もっと自分の気持ちを出せ、と言われるかもしれない。しかし、僕は女心先生の意見が正しいと思う。それは僕の直感であるし、ここまで女心先生に付いてきた、僕の誠意の表れなのだ。
「了解。では来週ピョコの散歩いこう。楽しみにしてるよ」
僕はシンプルなメールを元彼女に返信した。
〝一ヶ月と四日後〟
特に何もすることの無い土曜日だった。この前のメールで元彼女との約束がうまくいけば、犬の散歩という重要な出来事があったはずの日だ、と朝から何度も考えていた。
一つの予定があるかどうか、僅か二時間ばかりの犬の散歩があるかどうかだけで、これだけ気持ちとして、疎外感を感じてしまうものなのか。約束をうまく取り付けていれば、一ヶ月ぶりの楽しい週末になっていたかもしれない。しかし、今は、一人でいる事の空しさがいくらでもこみ上げてくる。
もしこれで来週のピョコの散歩が実現しなかったら、僕は一体どうなってしまうのだろう。このまま一生、一人で週末を過ごす事になりはしないか。
今日の天気も悪いのだ。十二月だというのに雲ひとつ無く抜ける様な青空で、外にいても寒く無い。絶好の犬の散歩日和なのである。これで、来週雨になってしまったら僕はどうすればいいのか。天気の具合によっても僕の運命は大きく悪戯されてしまうのだ。
アパートの一室でじっとしているから、こうやって色々考えてしまうのだ、と自分を戒め、お気に入りのジャスコに行く事にした。十二月に入るといよいよジャスコは独り身、特に失恋後の自分にとっては、首を絞められ体を握りつぶされる様な場所に成っている事を十分承知している。クリスマスの飾りつけは、それだけで僕を潰すのに十分なパワーを秘めている。その中をブラブラするという覚悟を決めなければいけない。しかし、アパートで一人、空を見上げているよりは数倍ましだと思った。
ジャスコの中は、思った通りクリスマスツリーの飾り付けや、クリスマスソングで必要の無い位に賑やかになっていて、人で溢れかえっていた。僕はこういった雰囲気は大好きだ。子供の頃はサンタクロースを信じていたし、今でも一年で一度だけクリスマスには魔法が掛かったり、奇跡が起こったりする気がしてならない。
何か目的があって来たわけではないから、勿論ただひたすら眺めるだけである。カップルが楽しそうにしている。家族連れも楽しそうにしている。何故僕はここで一人でいるのだろう。元彼女さえ僕を振ることが無ければ、こうではなかったはずだ。僕は向こうサイドの人のはずなのだ。
野生の僕が、この幸せムードたっぷりの中で、僕の中の檻から解き放たれ様としている。今ここで、野生の僕が完全に自由の身になったら、一体何を起こすだろう。ツリーを一本でも倒してみるのか。店のクリスマスデコレーションを無茶苦茶にするのか。それとも、クリスマスプレゼントの一つでも万引きするのか。
出来そうもない破壊衝動を色々と想像してみる。野生の僕は、そういうのを楽しみにしている。いつしか、僕の目は目標物を探していた。何かターゲットになるものさえあればそれで幸せなのである。しかし、ふと冷静になる。これではいけない、と強く思った。
僕は野生の僕が何かを現実にする前に車に戻る事にした。僕が野生の僕を制御できないのはおかしい事ではない。僕が野生の僕の意見に賛成さえすれば、野生の僕は大手を振って、外を歩くことが出来る。まだ、僕は野生の僕を抑えているつもりだが、ジャスコの雰囲気を見て僕も楽しめたわけではない。アパートにいるよりは良かっただろうが、寂しさは残ったままだ。ジャスコを離れて、野生の僕の悪さが現実にならぬよう、なんとか逃げたのだ。しかし、野生の僕は別の方法で僕の中から外に出ようと努力を始めた。
僕の運転する車は、元彼女の家に向かって行く。元彼女は今日は本当にちょっとした用事があったのか、それを知りたくなった。なんだかんだで家にいるのではないか。元彼女が家にいるのかいないのか、僕はそれを確かめたくなったのだ。その野生の僕の提案に僕は抵抗できなかった。それは実行できる、と僕が賛成するだろうという見当をつけて、そういう隙間を狙って誘惑してきたのだ。僕は拒否できなかった。逆に一番容易に出来る野生の僕と僕の取引のしどころだと、意気投合した。
日はすっかり落ち、夕方の渋滞も既に無くなっていた。その中を僕は悠々と元彼女の家に向けて車を走らせた。幾度と無く通った道だ。懐かしさが込み上げてくる。この道を通る時は、いつも元彼女が隣にいた。それが当たり前だった。今は、野生の僕が隣にいる。僕を突き動かして、元彼女の家へと向かわせる。
信号を曲がり、次の十字路を過ぎれば、元彼女のいる町内だ。ここからは慎重に行かなくてはいけない。元彼女に決して見られてはいけない。勿論、僕の事を知る元彼女の両親にも少しでも僕の車を見られてはいけないのだ。
町内に入ると、いよいよ懐かしい匂いが漂ってくる感じがした。一緒にピョコを連れて歩いた道だ。あの頃、いつも当たり前のようにここら辺りを散歩をしていた。近くのコンビニに手を繋いで一緒に買い物に行った。駅前の居酒屋で二人で忘年会をして、二人とも酔っ払って、この道をフラフラしながら歩いて帰った。
僕は、そんな暖かく、輝かしい思い出を全て封じ込めて、暗く静まり返っている町内の重苦しい空気そのものの中で、正体を隠して密かに呼吸をしなければいけない。
車のエンジン回転を上げてうるさくしないように、最大の注意を払わなければいけない。アクセルを踏む右足に細心の注意を払う。
僕の車のエンジン音にピョコが反応する、と元彼女から聞いた事がある。元彼女の迎えで家の前に僕がついたかどうかは、ピョコを見れば分かるそうだ。だから、ピョコにも気付かれてはいけない。
女心先生は、こういった元彼女の家の周りに出没することは完全にタブーとしている。会社帰りの社員駐車場で待ち伏せするのも、広く言えば、元彼女が使ってる駅に行くことも駄目である。全ては、復縁計画を難しく、そして、より長期に持ち込ませる不の要素しかないからだ。場合によっては、復縁など二度と実現しないものになる。女心先生の忠告に今僕は完全に反して行動をしている。
「これくらい大丈夫」、「まず、ばれない」。僕の中の野生の僕はそう囁き、女心先生の忠告にヴェールを掛けようとする。「外から見るだけならセーフ」。野生の僕の誘いは巧みだった。
僕は完全にスイッチが切り替わった状態だった。僕は止まらない。
ゆっくりと元彼女の家に進んでいく。家の近くに少し車を止められるスペースがある。元彼女の家に遊びに行く時止めていた定位置だ。僕はそこに車を止めた。
車で家の前を通ればピョコが気がつくかもしれない。それに、車で家の前を通るだけでは余りにもあっという間にチェックは終わってしまう。それでは寂しすぎると、僕は考えてしまっていた。
僕の要求はどんどん大きくなる。
車のドアを静かに閉める。閉まるかどうかギリギリの音が出ない所を勘で探りながら、ドアを閉めた。思った以上にドアの音はしなかった。
ゆっくりと元彼女の家に近づいていく。まずは元彼女のあの軽自動車があるかどうかだ。車があれば、元彼女が家にいる確率は高い。軽自動車は、家の近くの共同の駐車場に止めているはずだ。
直ぐに元彼女の軽自動車を見つけた。共同の駐車場のいつもの場所に当たり前のようにあった。付き合っていればここで「ついたよ」とメールをして、タイミングよく玄関を開けてもらう手順になるのだが、今は僕の存在を決して知られてはいけない。
僕は、路地を照らす街灯を避けるように歩いていく。僕の中の野生の僕も息を殺して、僕の心を後押しする。元彼女の部屋は、道に面していない。だから、少し回りこんだ位置から確認する必要がある。彼氏か元彼氏か、その差がこれ程までにあるとは、僕にとっては衝撃だった。しかし、今はそんな事を気にしていられない。
元彼女の家の前に着く。門灯が点いていて、夜いつも元彼女を送ってきた時の様子と変わっていない。家はひっそりとしている。リビングは道とは反対側にあるので、そこに元彼女がいるとなるとお手上げである。
僕は家の前をスルーして、二階の元彼女の部屋が見える位置へ移動する。道の方から見ているとはいえ、この状態でも近所の人から見れば、僕は十分に問題行動を取っているし、警察に不審者として通報されてもおかしくないシチュエーションだな、と不安がよぎった。しかし、僕が足を止める事は無かった。
元彼女の部屋が見える位置に来た。パッと目を見張る。
僕はそこに綺麗な明かりを見た。
幾度もお邪魔をしては、沢山の時間を過ごしてきたあの元彼女の部屋の明かりがそこにはあった。僕は吸い込まれるようにジッと眺めた。なんという暖かい光なんだろう。その明かりの下に、今、あの元彼女はいる。元彼女の部屋の明かりは蛍光灯が作り出す味気の無い光のはずだが、僕の心をガッシリと掴み、目を離させない。瞬きをする事がもったいないと思わせるこれ程の光景が今までにあっただろうか。僕は、この距離で元彼女と空間と時間を共有できている事が、嬉しくてたまらなかった。
今週末は泊りがけでどこかに行っているわけではない。元彼女は家にいる。結局どんな用事で僕は断られたのだろう。いや、その事が大切なのだろうか。一番大切なのは、来週、ピョコの散歩で元彼女と会うという事だ。その事を信じれなくてどうする。
あぁ、今僕がやっているこの行為は、ストーカー行為だ。この行為が一体僕の何を満たすのであろうか。復縁にどれだけの可能性をもたらすのであろうか。野生の僕は、どうしてこういう事を僕にさせるのだろう。女心先生の忠告を完全に振り切って、そこまでして僕は何の確証を欲しがっているのか。
僕は自分の姿が火のついたロウソクの様に溶けてドロドロになっていく気がした。自分の意思を制御できない事への罰が下って、人として形作っている事を僕を操っている大きな力によって剥奪されるのではないかと思った。
自分がいい様に、やりたい様に行動して、自分を満足させて喜んでいる。野生の僕などそこにはいない。全て僕自身だ。僕の独りよがりの気持ちで、それが正しいものだと勘違いして、周りにばら撒いているだけなのだ。それに合わせてくれる人もいれば、あきれて離れていく人もいる。
僕は、元彼女といた頃は、こうやって独り身の気持ちなど考えたことは無かった。きっと、僕が浮かれている様子を、当てつけの様に見せられた独り身がいたに違いない。僕はその事に心から悔いては、なんとかお詫びがしたいという気持ちになった。僕は、本当に身勝手で自分の幸せだけを考えていた。それだけが満足すればいいと思っていた。そこに元彼女の気持ちもついてきていると、僕の目線でしか考えていなかった。元彼女は彼女なりにもっと違う視線を僕に投げかけていたかもしれない、なのに僕はひとり突っ走っていたのではないか。
その結果の行動が、このストーカー行為だ。
僕の目には、涙が自然と溢れていた。涙は何のためらいもなく流れ出した。元彼女の部屋の明かりをこっそり見ながら、僕は泣いている。僕はもっともっと自分自身を知らないといけない。そして、もっと自分について考えないといけない。復縁などその先の、またその先にある、本当に小さい点でしか今は無いのだ。我慢をすれば復縁の可能性が出てくるわけではない。僕は勘違いをしていたのだ。僕が変わっていかなければ、いくら時間を掛けたとしても、何も変わっていかないのだ。それはもしかすると、復縁という可能性を信じる事を止めて、自分の未来を真直ぐに考えた時に、初めて一つの可能性として、選択肢に加わってくる事なのかもしれない。自分の心をリセットする。それが、女心先生が求めていた事ではないだろうか。
一ヶ月で何が変わるのか。女心先生もその事は十分分かっているはずである。それを敢えて言わずに僕を努力させた。一ヶ月という期間が僕を真剣に自分を見るための時間になったのは間違いない。女心先生はそんな時間が僕には必要で、その時間の中で、元彼女に固執する事無く、自分の道を真剣に考えていく事を僕に伝えたかったのかもしれない。
「キャン」と、犬の甲高い鳴き声が突如響いた。僕は一気に現実に引き戻される。ピョコかも知れない。ピョコが僕の気配を察知して、吼えたのかもしれない。体を翻すと僕は急ぎ足で車に向かった。決して元彼女の家を振り返って見たりしない。足早に車を止めた場所に向かった。
車のエンジンを急かされるように掛ける。エンジンが掛かるとラジオのDJの曲紹介が始まった。
「さぁ、疲れてる人も、悩んでる人も、少しだけ考えずに、気持ちだけで素直にいってみてはどうかな。では、そんなあなたにこんな応援曲」
僕は、ゆっくりとアクセルを踏んだ。あくまでもエンジン音は静かに、決してピョコに聞かれてはいけない。
僕は、車のライトに照らし出される元彼女の住む町内の狭い路地を眺めていた。はっきりと照らし出されている町の景色は僅かで、町の殆どはライトが照らし出さない外野にある。
僕が今まで生きてきた道がある。その全てを、僕は完璧に知りえて歩いてきたのだろうか。いやきっとそんな事は無い。そんな事は有り得ない。ライトで照らし損ねている所に、僕の知るべき道や、交差点は沢山あっただろう。
ちょっとライトを左右や上下に振るだけで、もっと、もっと沢山の僕の道が見えたかもしれない。僕は、一方通行の標識をただ鵜呑みにして、真直ぐに進んで、それで満足をしていたのだ。
全て知っている、と言うには余りにも自覚が足りないと、車のライトが照らし出す景色の外の僅かにこぼれ出た光を受けてうっすら見える家々の軒先が、僕を覗き込みながら叱っているかのようだった。
涙は止まっていた。犬の鳴き声に気を取られたせいで止まったのか、僕の感情が正常に戻ったから止まったのか分からない。しかし、あれだけ流れ出ていた涙は、今はすっかり止まっている。もう、こんなに泣く事は無いかもな、と思った。涙の貯金は使い果たされた、と思ってみた。しかし、直ぐにそれを否定する自分がいた。これからも、きっと泣く機会はいくらでも来る、と自分に言ってみる。「そうだろうな」、と僕は応えた。
涙の流れた後の頬が少しつっぱる。僕は頬を手の平で擦った。伸び始めた髭が手に触る。ザリザリとした感触に嫌気を覚えたが、あとでゆっくり風呂で髭を剃ろうと思った。
すると突然、頭の中に、あの日、元彼女の運転する軽自動車の横に座っている自分が浮かんだ。大橋を渡っていたあの時の様子だ。口ずさんでいた曲が、ラジオから流れているかの様に、クリアに頭の中を駆け巡った。
あれは小さい頃見た映画「スタンドバイミー」のテーマソングだ。
「スタンドバイミー」を見た後、僕はいつか大きな旅をしてみたいと思った。果てしなく続く線路を歩いて、まだ知らない未知の世界に行ってみたいと思った。
結局、そんな大冒険をする事もなく、僕は今まで来てしまった。これから、そんな大冒険を計画するだろうか。それとも僕が今ここにいる事が、ひょっとするとすでに大冒険の途中なのかもしれないと思った。もしそうならば、僕もあの「スタンドバイミー」に出てきた仲良し悪ガキグループの一人として、メンバーに加わる資格をもらえるのではないか。そう考えると嬉しくなってくる。 僕は大橋の上を渡りながら、鉄橋で機関車に追いかけられてみたいと思った。
〝五一分後〟
僕の喉は本当に僅かだけれど、肺から漏れ出す空気を上手に揺らし音を作り出していた。その空気の動きを唇は、歌詞に変換している。微かにメロディに乗っているのか、それとも、ただ念仏の様に暗唱しているのか区別がつかない位、漏れ出してくる僕の歌は静かだった。
「Sodarling darling, stand by me, oh stand by me, oh stand, stand by mestand by me.........」
軽自動車の小さなタイヤが拾い出す大橋の繋ぎ目の振動が、スタンドバイミーのベースのリズムを刻んでいるかのようだった。しかし、元彼女は、大橋を降りる下り坂に掛かったから、ゆっくりとブレーキを掛けた。
減速に上手く合わせ損なった僕は、少し前のめりになってしまって、背中がシートから離れたのだった。
終
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