3 安楽椅子探偵は、かくのごとく考察する

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 そうして鬼の形相の犬彦さんがガンガンとガラス扉をぶっ叩いていると、かろうじてそれが破壊されるまえに、そのガラス扉のむこう、暗い室内の奥の方から、ゆらりとこちらへ近づいてくる人影が見えてきた。  入り口のガラス扉はスモークみたいなコーティングがされていたので、くぐもったような人影の輪郭しか映らず、やってきたその人がどのような様子なのかは、外から見ている分には詳しく分からない。  でも、その人は、罵声をあびせながらガンガン扉を叩く不審な男(…犬彦さんのことですよ…)に臆することなく淡々と、扉にかかっていたらしい鍵をカチャリと音を立てながら開けてくれると、ゆっくりとガラス扉をオープンさせた…ところを、犬彦さんが一気に引き開けて、俺の手をひっぱりながら、ずかずかと院内へ入っていく。  犬彦さんにひっぱられながら薄暗い室内へ入って(休診日だから電気がついていないのだ)そこでやっと俺は、入り口のガラス扉を開けてくれた人の顔を見た。  あきらかに寝起きだと分かる彼の姿は、白いTシャツに紺色のジャージのズボンという出で立ちで、髪はぼさぼさにはねていて、目は眠そうにしぱしぱしていた。  年齢は、犬彦さんと同じくらいか、ちょっと年下くらいに見えた。  はじめて会う、俺の知らない人だ。  でも、犬彦さんはこの人のことを前々から知っているらしく、その人の胸ぐらをつかむと、睨みつけながら相変わらずドスのきいた声で、ご挨拶する。  「…よぉ、先生…さっき予約した赤間だが…何故もっと早く扉を開けられない…?」  通常運転の俺だったら、こうやって犬彦さんが荒ぶりはじめたときなんかは、公共の迷惑だから必死になって止めるんだけど、なにせこのときは自分の真っ赤な目のことで頭がいっぱいで、ただ、おろおろしながら見ていることしかできなかった、この眠そうな顔してる若い男の人が、ここのお医者さんなのかな? って混乱しながらも思いつくくらいで。  「さっさと、診察しろよ、このクソ医者めが」  ちなみにこれは、いま振り返って考えてみれば…な話なんだけど、こうして胸ぐらをつかまれて、あの(いつものポーカーフェイスで黙り込んでいるだけでも、初対面の人をビビらすほどの鬼武者的存在感を持った)犬彦さんに、圧をかけられているというのに、その人は、特に怖がったようすも見せず、ひたすら平常心であるように感じられた、これはすごいことだ。  彼は、犬彦さんよりもちょっと背が低いし、体つきもどちらかというと、ほっそりしていて、もしも犬彦さんが彼にワンパンかましたら遠くの方まで飛んでっちゃいそうなくらい弱そう…いや、ケンカとか強くなさそうなのに、ぜんぜんビビっていなかった。  ただ眠そうな目で、じーーっと、鬼の形相をした犬彦さんの顔を眺めていた、まるで対岸で起きている火事をなんとなく見ているみたいに。  でも、そんな彼の視線はフッと犬彦さんから移動して、犬彦さんと手をつないだまま、ちょっとその後ろでおろおろしているだけの俺へと向けられた。  そして、俺とその人の目が合ったとき、はじめて彼は口を開いた。  「診察するのは、その子?」  これまた寝起きみたいな、ぼんやりした声だった。  彼がそう言った途端、犬彦さんは掴んでいたその人のTシャツから手を離した。  すると自由になった彼は、もう犬彦さんなんて眼中にない…みたいな感じで、ただジッと俺を見た。  犬彦さんを挟むようにして、俺とその人とのあいだには少し距離があったけど、彼が、まさに医師としての視点で、俺の真っ赤になってしまった目を診ているのだというのが感覚として分かった。  けれど、そうして俺の目を診ていたのは、ほんのひと時で、すぐに彼…先生は踵を返すと、「じゃあ診察しましょう、こっちに来て」と落ち着いた声で言い、奥の部屋のほうへと歩いていく。  どうやら犬彦さんはここへ来るのが初めてではないようで、当たり前のようにスタスタと先生の後をついていった。  俺も、犬彦さんと手をつなぎながら進んでいく。  そして歩きながら俺はふと、この時点で、自分がかなり精神的に落ち着いてきていることを感じた。  俺の真っ赤になってしまった目を診る、先生の瞳。  それはどこまでも冷静で、感情ひとつ動かなかった。  そんな先生の瞳を見返していて思ったのが、どうやら俺のこの目は、さほど心配するような重症ではないらしいという確信だ。  もし、いまの俺の目がヤバい状態であるのなら、犬彦さんほどではないにしても、この人だってちょっとくらい「うわ…」みたいな顔するだろうし、それがないのだから、きっとすぐ薬とかで治るタイプのものなんだろう。  そう考えたら、落ち着いてきた。  お医者さんというものは、態度だけでも患者を癒すことができるみたいだ。  
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