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先生が犬彦さんのことを、「犬くん」と呼んだ瞬間、犬彦さんの全身からお馴染みの、怒りの暗黒オーラが立ちのぼった、ヤバいやつである。
犬彦さんのことを「犬くん」なんて呼ぶ人は初めて見るな…なんて俺が思っていると、先生は、コホンと軽く咳払いしてから、あらためて犬彦さんへ話しかける。
「ところで犬彦くん、保険証はちゃんと持って来ているのかな?
休診日だというのにいきなり電話でがなり立てて、一方的に予約を取るとは相変わらず乱暴者だねぇ。
こっちは花の金曜日に最後の診察を終えたあと、これで心置きなくドラクエができると深夜までプレイして、気持ちよく朝寝を楽しんでいたというのに…最悪のモーニングコールだったよ。
まあ、診療を望む患者がいれば、休診日であっても診察をするのは医者の義務だけどさ、きっちり休日加算は付けるからね!」
「自費にしてくれて結構だ」
「あっそう、でも今日は事務の子がいないから、私じゃ会計のやり方とか分かんないんだよねー、後日請求するわ」
「ツケにしておいてくれ」
なんだろう、この会話…。
どうやら犬彦さんと先生は友達みたいだけど…なんかピリピリしてるな…。
自分の目の異変がたいしたことないものだって分かって安心はしたけれど、なんだかもう疲れてしまった俺は、当時まだ中学生だったこともあり、今ほど知らない大人とのやりとりがグイグイできるわけもなく、このときはただ黙って、犬彦さんの後ろから成り行きを見守っていることしかできなかった。
とにかくこれが、五十嵐くんと同じ球結膜下出血というものに、俺がなったときの思い出だ。
それ以来、これといって眼科のお世話になるような病気になることもなく、あのときの先生とは会っていない。
あ…そうそう、帰り際に先生は、やさしい笑顔を浮かべながら、俺にバイバイをしようとしてくれたんだけど、ちょうどそのタイミングで犬彦さんが先生へ壁ドンをしたんだっけ…。
そうやって壁ドンして、先生を壁際まで追いやると、鼻と鼻がくっつきそうなくらい近い距離から犬彦さんは先生を睨みつけて、小声でぼそぼそとこんなことを囁いていた。
「言っておくが、さっきの診察…もし誤診で、このあとうちの弟の目に何か起きたら…どうなるか分かっているよな…?
代償にテメーの右目をカレースプーンで抉り出して、残っている左目とコンニチハさせてやるからな…覚悟しておけ」
…よくクラスの女子なんかが、もしイケメンに壁ドンされたら胸がキュンキュンしちゃーう…とかなんとか言っているけれど、このときの犬彦さんの壁ドンにもキュンキュンときめけるんだろうか?
俺は、離れた場所からこの様子を見ていて、心臓がヒュンヒュンした…。
犬彦さんは俺に聞かれないようにと小声で、例の脅し文句を先生へ囁いていたみたいだけど、丸聞こえだったし…。
今でも二人は友達でいられてるのだろうか?
もしもまだ友達なんだとしたら、あの先生は、栄治郎さんと同じくらいにめちゃくちゃ心の広い神ってことになる。
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