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「…あっ!」
そんな過去の思い出にひたっていた俺の意識を現在に戻したのは、どこからともなくやってきた微かな焦げ臭さだった。
あわてて肉を切っていたまな板から、火のついた鍋の方を見てみると、少し開いたフタの隙間から、不吉なにおいが漂い始めていた…。
「うわっ、マジかよ! ちょっと底が焦げ付いてる…!」
ぐわぁあぁあぁ…っと、悔しさから頭を抱えたくても、さっきまで生肉をいじっていた手ではどこにも触ることができない。
俺のれんこんの煮物がぁぁ! 俺、れんこんの煮物好きなのに、シャキシャキした歯ごたえと、ほんのりとした醤油だしの味に、かつお節の風味が効いてるあの味が、おかずとおかずの合間に食べるとさっぱりしてすごくいいのに、なんでこんな…こんなことに…今までで一番失敗した!
まずは手を洗い、急いで鍋から出したれんこんを皿に移す。
うわ…なんか、れんこんの色味も汚い…。
いつもはもっとこう…やわらかな茶色をしているのに、これはヘビーな茶色をしている…なんか車の汚れみたいだ…。
ちょっとひとくち食べてみよう。
うん、…食べられないことはない、おいしいとは言えないけど…。
歯ごたえは、もしゃっとしているのに、いつもより固い。
味は、濃いめなのに深みがない、それにほんのりと良くない焦げの風味がする…。
はあ…マジやっちまった、あーあ、はあぁ…。
こういう日常で起こる些細な失敗で、俺は地味にショックを引きずるタイプだった、特にそれが食べ物に関係するものなら、なおさら…。
天音にはよく、それくらいのことでうじうじ落ち込んで、女々しい、ってバカにされることもある、でもショックなものはショックなんだ。
そうして俺はしばらく、絶望のあまりにキッチンカウンターへ手をついたまま、黙ってうつむいていた、けれど、そんな重い沈黙の空気の遥か向こうから、カチリと聞きなれた固い音が響いた気がして、ハッと反射的に顔を上げる。
急いで視線を、リビングの入り口の向こう側、廊下の先へと向ける。
すると想像通りに鍵を開けた音の次には、玄関ドアが開く音が聞こえてきた。
犬彦さんが帰ってきたんだ!
れんこんの煮物はそこへ置いたままにして、俺は犬彦さんを迎えにいくためにリビングを出て、玄関へむかって廊下を走っていく。
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