真実と現実

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真実と現実

 あれから何にも頭が回らない……。当たり前だ。こんなの夢に決まってる。  祈るような気持ちで目を強く瞑ってから"夢から覚めろ"と願って瞼を開けた。……しかし、やっぱり目の前の"それ"は何も変わってはくれなかった。何度も目を瞑っては開いてを繰り返しても目の前の光景は何一つとして変わらない。"悪夢だ……"そう思った。 現実では有り得ない出来事が目の前で起きている。だけどそれはあまりにも鮮明で、夢として片付けるにはあまりにも不合理なものだった。  畜生、一体どうすりゃいいんだよ……。 俺は泣き崩れそうになりながらも死人の様な足取りでベッドに戻る。そして徐に携帯を手に取り、出ることの無いその答えを求めてインターネットの検索窓に入力して…………やめた。 きっと俺が知りたい答えはこの手のひらの機械には出せない。これは世界にありふれた情報しか知り得る事が出来ないのだから。  そんな時、ふと頭に浮かんだのはあいつの姿。どんな小さな事であっても相談できる人間は居ない俺だけど……、相談という形ではなく自然とその胸の内を曝け出す事ができる唯一の人間、幼馴染。  しかし、いきなりこんな姿で"女になった"だなんて言える訳が無い。言ったって信じてもらえるはずがない。  考えれば考える程に現実逃避をしたくなってくるこの悪夢のような現実。  ……気がつくと俺は天井を見つめたまま、一筋の涙を頬へと溢していた。それを意識した瞬間、鼻の奥がツンと締め付けられる。 "誰にも相談できない。誰も助けてくれない"  そんな悲観的な言葉ばかりが頭を巡り、いつしか俺はそれを吐き出すように声を上げ泣き叫んでいた。  "こんなに泣くのはいつぶりだろう……"  そう思った頃にはもう涙は枯れ果て、目の奥や鼻の奥、そしてこめかみがじんじんと痛みを発していた。 "もう何も考えられない……。考えたくない"  すると、突然枕元の携帯が着信を知らせる。でも、なんだか電話にも出る気にはなれず、俺はぼうっと天井を見つめ続けた。しかし、しつこく何度も鳴る携帯に、俺は渋々目をやる。すると……。  "高梨莉結"  画面に表示された文字を見て俺の心臓が鼓動を速める。  ……その時の俺には、それが俺に対して手を差し伸べてくれる唯一の光のように感じた。そしてそんな感情に心揺さぶられるまま、俺はゆっくりと"通話"の文字へと指を近づけていく……。しかし、触れる寸前でその指が止まった。 「もし……もし」  部屋にか細い声が響く。そして、その高く透き通った声が、聞き慣れない女の声が……、深い溜息と共に携帯を俺の手から離れさせた。  "こんな声……、信じてもらえない"  大の字に仰向けになってまた一つ深い溜息を吐き出す。するとまた携帯が鳴った。今度はメッセージの受信を知らせる音だった。  "電話でろっ!"  莉結からの"俺宛て"のメッセージ。  "そんなこと言われたって……、電話なんか出れる訳、ないだろ……"  途端にどうしようもない不安に押し潰されそうになって唇を噛み締めた俺は、身体を回転させると布団に顔を埋めた。  "どうすればいいんだよ……"  そんな漠然とした気持ちだけがぐるぐると渦巻いて俺を見えない重力でどんどん押し潰していく。正に絶望的な状況の中、吹き荒れる感情の渦に再び浮かんだ莉結の顔……。結局、俺が助けを求められるのはこいつしか居なかったのだ。  俺は携帯を手に取り、莉結へとメッセージを送った。"電話の調子が悪くて出られない"なんて嘘をついて。  "そっか、てか今日寝坊しちゃったからもうすぐ瑠衣んち通過"  すぐに返ってきたメッセージ。それを見て俺はどうするべきかの決断を迫られる。唯一の希望の光がすぐそこに差し込んでいるのだ。しかし、その決断の答えは既に決まっていた。俺にはもう莉結しか当てが無いことなんて分かっているのだ。 "俺もまだ家だからすぐ出るから待ってて"  そうメッセージを送ると、俺は両の頬をパシンと叩いて階段を駆け下りた。  玄関を開いた俺の目に莉結の背中が映り込む。失速した俺の足が莉結の数歩手前で止まると、振り向かんとする莉結に満面の笑みで俺はこう言ってみせた。 「よっ! あの、お、おはよっ……」 莉結は唖然とした表情で俺の顔、そして胴体からつま先までを奇異の目で舐め回すように見つめた。そして無表情のまま、聞きそびれてしまいそうな小さな声で「えっ……、誰っ?」と言った。 それはごもっともな返事だと思う。そう、普通はそうなのだ。しかし俺は少し俯きながらも続けた、なるべく笑顔で。 「えっと、俺……、瑠衣。如月瑠衣。分からない……よな。でもまだ俺も何が何だか分かんなくてさ」  すると莉結の表情が変わった。それは見た事のない……、いや、最近では見なくなったあの表情だった。怒りでも驚きでもない、小さい頃によく見た、"泣き虫莉結"のあの表情。 「なんで……?」  今にも泣き出してしまいそうな表情の莉結がそう言って俺に潤んだ瞳を向けた。 「なんでって……、昨日凄い痛みに襲われて、気がついたらこんなんになってたっていうか、こんなん初めての体験ではっきりとは覚えてないんだけど……」  すると莉結の身体から力が抜けるのが目に見えて分かった。こんな曖昧な言葉でも言いたいことが伝わったのか。莉結は金魚のように口をパクパクとさせている。そして俺の肩の力が抜けかけた所で、突然莉結が言葉にもならない声でこう叫んだ。 「は……初体験ってそんな感想わざわざ聞かせないでよっ! どこの女か知らないけどどうせ無理矢理とかなんでしょっ!」  その意味不明な言葉が終わるのと同時に俺の顔面に重い衝撃が走った。一瞬の出来事に呆然としていると、何故か俺の足元に莉結の鞄が落ちていた。  "鞄? えっ……" 次の瞬間、俺の目に映り込んだのは両手の指先をぴんと伸ばし、左足を半歩前に出して"構え"のポーズをとっている莉結の姿……。  莉結の顔は本気だった。これは"あのモード"の顔だ。そこで俺の脳裏に浮かんだのは、軽々と宙を舞い地面に叩きつけられる俺の姿……。今までに何度も"実体験"しているのだから、それは容易に理解できた。 「瑠衣をたぶらかすなんて……、許せないッ!」    そう言うと莉結はスゥーと息を吐き、鋭い眼光を放った。この鋭い眼付きで大概の相手は怯んでしまう。そう、莉結はこの前も合気道の県大会で三位という好成績を残したばかりだなのだ。過去にも様々な大会で上位入賞する程の実力者。兎の皮を纏った熊という所か……。 「俺の負けだ。降参」 その言葉で莉結の腕がゆっくりと下がっていく。  "何年一緒に居ると思ってんだよ"  莉結の性格は誰よりも俺が一番知っているという自負すらある。こいつは負けを認めた相手に手を出せるようやつじゃ……、すると突然、目の前の景色が急に回転したかと思うと、背中に激しい衝撃を感じたのだ。俺はすぐに"あぁ……、やられた"と状況を理解する。小さな頃から何度も見たこの映像……。  莉結のお爺さんが合気道をしていたこともあって物心ついてすぐに二人で始めた。いつも俺に負けては涙を流して俺を見上げていた莉結。それがいつからだろう、汗を滲ませたその顔で自慢げに微笑んで俺を見下ろす莉結の顔に見慣れてしまったのは。  あの頃はまだ莉結も古い団地に住んでいて……、俺は練習の後、毎日遊びに行っていたっけ。 「ほんと……、何でだろうな」  不意に溢れた俺の一言に、莉結が蹲み込んで「仕方ないでしょ? これに懲りたらもう瑠衣には近づかないで」と舌を出した。  ……そういえばこんな事、前にもあったな、なんて昔の記憶が蘇ってきて、つい俺は笑ってしまう。あん時は確か、俺の事が好きだって言ってくれた女の子に似たようなことを言って泣かしたんだよな。そんで帰ってからその事を話したらお母さんに怒られてたっけ……。お母さん……か。 「変わってないな……。お前」  そう言うと莉結は「何よっ、私の事知らない癖に!」と眉を潜めたが、俺は"知ってるよ、何でも"と言って身体を起こした。そして仕返しせんとばかりに、小さな頃の莉結がした恥ずかしい失敗談をいくつも挙げてやった。案の定、莉結は赤の他人にそんな事を知られているのだと勘違いをしたようで、顔を真っ赤にして目を見開いたまま困惑と動揺、そして怒りと恥ずかしさを混ぜたような面白い表情をして黙っている。  すると莉結がゆっくりと口を開く。俺はてっきり怒るのかと思っていたけど、何故か莉結は怒る事なく、少し不安そうな表情で不思議な事を言った。 「えっ……、203だけど、なんで?」  莉結は、自分の昔住んでいた部屋の番号を言えと言った。そして俺の返答を聞いた莉結は、何かを思いついたように突然俺の家へと小走りに入っていく。  俺を呼ぶ声が聞こえる。その声は一階から二階へと移動していき、少ししてからドアの閉まる音が聞こえ、玄関から呆然とした莉結が姿を見せた。   「ひとつ、質問させて。昔、瑠衣はね、私にある約束をしてくれたの。まだ私が団地に住んでた頃だよ。引越しが決まった時、私に言ってくれた言葉……、それが君には言える?」  不安そうに、そして困惑したようにそう言った莉結は、俺の目をジッと見つめた。俺はそんな昔のこと……、と思ったが、暗闇の中から夕陽に染まるあの部屋が浮かび上がってきて、ぼんやりとした記憶の一片がスッと俺の頭の中で光った。 「俺が……、あの部屋で莉結と一緒に住むから安心しろ……、みたいな?」  "あれ、違ったかな……"  俺を見つめたままの莉結。自分の答えが間違っていたのかと不安になってきた俺に、莉結が真剣な眼差しで口を開く。 「今ここで私にキスして? 本当に瑠衣ならできるでしょ?」  突然の莉結の言葉に、俺は鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くして全身を硬直させた。顔がどんどんと熱を増していくのを感じる。  "莉結とキス? そんな事……" 「むむむむむ無理に決まってんだろッ!」  その瞬間、莉結がふっと微笑んで小さな声で「そっか」と呟く。いつの間にか莉結は"いつもの顔"になっていて、状況を飲み込めず呆然と立ち尽くす俺に着いた土を莉結がせっせと払っている。 「え? ちょっと待って、どういう事?」 「君は瑠衣……、なんでしょ? 私が聞きたいよ」  俺は困惑しながらも、話を拗(こじ)らせる事もないかと昨夜からの出来事を話した。 「って事でいつの間にか痛みも無くなったし、今んとこ生活面では何の支障も無さそう」 「何か変なの……。漫画みたい」  確かに、と思った。もしこれが漫画だとしたら、俺が主人公。だけどそんな事俺は望んじゃいない。こんなふざけたストーリーの漫画の主人公になんてなりたくは無かった。それにしても……。 「何で俺の事信じてくれたんだよ。どう見たって別人にしか見え……」  思いもしない莉結の言葉が俺の言葉を止めた。  "どう見たって瑠衣だったからだよ"  その言葉の意味はどういう事なのか……、微笑む莉結に俺は聞いた。  すると莉結の答えは何とも漠然とした理屈に合わないものだった。 「そう思ったから。喋り方とか仕草とか……、それだけじゃ何か似てるってだけだったけどさ、あの受け身の取り方とか瑠衣しか知らない事知ってるし……、何より私が"瑠衣だ"って思ったからそうなんだよ」  それを聞いて俺は、莉結が幼馴染で良かった……、いや、莉結と幼馴染になれて良かったな、と心から思ったのだった。 「ところで病院の先生には相談したの?」 「そんな事言える訳……」  その時俺の記憶に先生の一言が浮かび上がる。  "心配は無い筈だ"  俺は直感的に感じたあの意味深な言葉が、この出来事に繋がっている気がした。よくよく考えてみれば病名も知らせず、たかが注射如きで抑制できる病気なんて普通では無い。それに三ヶ月前、突然ペースの増えた通院……。  "間違い無い"  そう確信した俺はすぐに莉結の腕を引っ張って病院へと走った。莉結が何か叫んでいたけど、そんなものは気にしている余裕は無い。  "この現象の答えが分かるかもしれない! そして早く元の身体に戻りたい!"  そんな一心で俺は走り続けた。風に靡く長すぎる髪の毛と慣れない胸の膨らみが邪魔だ。  小動物のように身軽で、柔軟なこの身体は、意外にも馴染んでいた。そして木枯らしの如く病院への道のりを駆け抜けた俺たちは、あっという間に病院へと到着した。  足がふらふらだ……。無理もない、まだこの身体に慣れ切った訳ではないのだ。すると莉結が俺の腕をパシリと叩いて息を切らしながら言った。 「だから……、ずっとバス……乗ろうって、言ってたじゃん!」 はやる気持ちが先走ってしまった。でも、今の俺は呑気にバスなんて待っていられる余裕は無かった。  額に滲んだ汗を拭いて病院の入り口へと足を進める。そして受付で"如月瑠衣が急用で来ている"と伝えると、五分と待たずして顔色を変えた先生がロビーへと駆けつけた。 「先生!」  と俺が手を挙げたのにも関わらず、先生はこちらに視線を向ける事無く周囲を見渡す。そしていつもの"付き人"である莉結の姿を見つけると、まだ息の荒いまま「あぁ、莉結ちゃん……。瑠衣くん……は何処に?」と尋ねた。 「えっと……」  莉結はそう言いって俺を指差す。先生は俺の顔を見て目を見開くと、暫く黙ったまま石像のように固まってしまった。それは当然の反応だろうが、その表情には俺がこうなってしまったという驚きとは何か別の感情が滲んでいたように見えた。 「そうか……、申し訳無い。ここじゃなんだから……」 先生はそう言って俺たちを別の部屋への移動を促したのだ。……その反応が、俺の疑念を確信へと変えた。  会議室のような部屋へと案内された俺たちは、たくさん並んだ長机の一番後ろ、そしてその前に並べられたパイプ椅子へと腰掛ける。それから先生は暫く何も言わずに下を向いて何かを考えているようだった。  そんな先生の態度に、俺を包んでいた不安や焦りが苛立ちへと変わっていく。そして先生が口を開こうとした瞬間、俺は長机を叩いてこう言っていた。 「何ですかこれ! これも病気に関係してるんですよね! この際、隠してる事全部話して下さい!」  先生は大きな溜息を吐き出すと、下を向いたまま低い声で答える。 「すまない……。まだ混乱しているんだ。まさかこんな事になるなんて」 そう言うと先生は眉間を指で押さえた。先生の大きな溜息がまた静寂の部屋に響き渡る。  すると、莉結の手が机の下で俺の手に重なった。驚いた俺が莉結に目をやると、優しい眼差しが俺へと向けられていた。そのお陰で少し冷静になった俺は、先生を真っ直ぐに見つめてゆっくりと口を開いた。 「先生、本当はこうなる事……、分かってたんじゃないんですか?」 その言葉に先生が頭を上げた。その目には何か強い意志が宿ったように俺を真っ直ぐに見返し、その直後、先生は神妙な面持ちで口を開いた。 「分かっていなかったといえば嘘になる。だが君が……、瑠衣くんが、まさかこうなるなんて事は有り得なかった。いや、あってはいけなかったんだ。これでは如月……いや、すまない」  先生は何かを言いかけてやめた。如月……、きっと父さんの事だ。でも父さんの名前が何故……。  そんな疑問を打ち消すように、先生が俺の名前を呼んだ。 「いよいよキミには話さなくてはならないようだね……。こちらにも色々と事情があって話せなかったが、この際だ、聞いて欲しい。君の病名は"シュールマン症候群"だ」 「シュールマン……症候群?」  聞いた事のない名前だった。稀な病気だからしょうがないのかもしれないが、過去に気になって色々な病気を調べたけど、そんな名前の病気は一度も目にした事はない。 「ああ、そうだ。シュールマン症候群。その発端は今から十六年程前、アメリカ合衆国のとある村に住む"アメリア・シュールマンさん、当時十六歳の少女が、突然"男性化"した事に始まる。」 「あの、男性化って……、俺は」 「まぁ先ずは聞いてくれるかい? これはホルモンの超異常分泌が直接の原因とされているが、何故それが変態に因果するのかは現代科学では解明しきれていない。だが私たちの研究の結果、いや成果と言うべきかな。発見された特殊な女性ホルモンを定期的に摂取させることによって、超異常分泌を限り無く抑える事ができると判明したんだ……。瑠衣くんに注射していた薬はその類さ。いや、薬は確かに効いていた筈だったんだ……。それが三ヶ月程前から突然……、今考えてみればあれも今回の件に関する兆候だったのかもしれないな。力になれなくて本当に申し訳ない」 先生はそう言って深々と頭を下げたのだった。色々と聞きたい事は山ほどあったけど、今先生が話した事だけで頭が一杯で、知りたい事はまたいつでも聞けばいい、そう自分に言い聞かせて今回は追求しない事にした。そう思えたのは、なんだか初めて"自分"を知れたような気がして安堵の気持ちで満たされた事の方が俺にとっては大きかったからなのかもしれない。 「分かりました、とりあえずは。俺も整理がつかないんでまた色々と聞かせてもらいます。それで……、俺は元に戻れるんですよね?」  それだけは聞いておきたかった。聞かずにはいられなかった。しかし、先生の口からは俺が期待している言葉は出てこなかった。 「早急に対処する……、としか返答できない、すまないね」  "やっぱりそうか。何を期待してたんだ、俺" 「そう……ですか。俺、これからどうなっちゃうんでしょうか」 「先ずは精密検査をしてもらうよ。見たところ外部には異常は無さそうだけど、こんな事が起こったんだ。全てが無事とは限らないからね」 そうして俺は、すぐに様々な検査を受けると、後日結果の出る項目を除いては異常が見当たらないとの診断が出された。先生には入院を強く勧められたが、こんな所に居たら精神的にどうかなってしまうと思い、半ば無理矢理に病院を後にした。
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