近づく運命

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近づく運命

"……次のニュースです。昨日の記録的豪雨から一夜明け、晴天となった県内ですが……" 俺はふぅと溜息を吐いてテレビを消した。どうやら昨晩まで降り続いた雨は"また"記録的だったらしい。今月に入って何度目のことか……。  そんなどうでもいいニュースを何度も聞かされていると、その"記録"もそんなに大した事じゃないんじゃないかって思えてくる。まぁ、俺にとっちゃそんな記録なんてどうでもいい事だけど。  そんな事を考えながらも俺はいつものように制服に袖を通しつつ洗面台へと向かう。しんと静かな廊下には昨日洗濯し忘れたジャージが無造作に置かれたまま窓から差し込む朝陽に照らされている。きっとこのジャージも俺が片付けなきゃずっと変わらずにそのままなんだろうな……。  俺は気休めのように足でジャージを壁に寄せると、洗面台の鏡の前でボサボサの髪を濡らした手で軽く直した。そして、ふと目の前に映る無愛想な男をぼうっと見つめてまたいつもと同じことを思うのだ。  "どう見たって男だろ" というのも、俺が通う学校の女子たちはこんな俺の事を"イケメン"と呼ぶ。ただそれだけならいいのかもしれない。だけどその女子たちは決まって"女の子みたいに"とか、"男とは思えないほど"なんていった余計な言葉を付け加えやがる。きっとそれも褒め言葉なんだろうけど、俺は今まで"それ"を心地よく感じた事は無い。……いや、むしろそう呼ばれる事が"不快"なのだ。  気を取り直して胸の奥のむず痒い気持ちをぐっと押し込めると、いつものように手早く身支度を終わらせる。そして小さく"いってきます"と呟くと、聞こえる事の無い返事は待たずに玄関を出た。  ひゅうとひんやりとした風が俺の頬を撫でる。そしてその風にふわりと舞い上がった落ち葉の先にはどこまでも続く青空が広がっていた。  先程のニュースでも言っていた通り、昨日までの荒天とは打って変わってとても清々しい晴天だ。乾いた空はどこまでも高く透き通っていて、昨日までの荒天はもしかしたら自然への感謝を忘れつつある俺たちへの神様のちょっとした戒めだったのかもしれない。  "愚かな人間はそんな事したって気付かない。故に人間は愚かなのだから"  ……なんてカッコつけすぎか? 「おっはよー瑠衣っ、めっちゃ晴れたねっ」  背後に突然響いた溌剌(はつらつ)とした声に、俺は妙に気恥ずかしくなる。こいつに俺の心を読む能力なんてある訳ないけど、何だか、無性に。 朝から無駄に元気なこいつにはやっぱり天真爛漫という言葉がしっくりくると思う。高梨莉結(たかなし りゆ)なんて名前も妙に女らしくてこいつには勿体無い。だけど性別こそ違えど俺が唯一心を許せる存在だというのが悔しくもある。ただ……、幼馴染故なのか、俺に対して少し面倒な所があるのも事実だけど。 「いつも朝からテンション高いんだよお前は。低血圧の人間の気持ちも考え……ってお前、口になんか着いてるけど」  なんかというよりこれはケチャップで間違いない。小学生ならまだ"可愛げ"というものがあるけど、高校生にもなってこいつは……。 「あ……、これっ? えっと、そうそう! 今日のラッキーカラーだっ! 赤い物を身につけるといいってテレビで言ってたからさっ、ついつい……」 「"ついつい"じゃねえよ、だからって口にケチャップつけたまま外出るかよ恥ずかしい。ほらっ、動くなよ」 そう言って俺はポケットティッシュを取り出すと、その"ラッキーカラー"とやらを拭き取ってやった。  それにしても今日のラッキーカラーは黄色だというのに、"嘘が下手だな"と鼻で笑ってやりたくなる。莉結が毎朝見てる番組くらい知ってるってのに。クラスじゃ割と友達も多くて頭もまぁまぁいいし、運動神経もそこそこなのにこういうとこで損してるんだよな、ほんと。  辺りには通学途中の学生の姿がちらほらとあって、頬を赤く染めた莉結は少し俯いて俺を両手で遠ざけた。確かに高校生にもなってそんな事されるのは恥ずかしいかもしれなかったな、と少し反省するも、原因は莉結にあったわけだし、俺はなんだか納得がいかなくて、莉結の額に指先を押しつけてこう言った。 「そこ気にするくらいならケチャップつけたまま外に出るなっつうの、ばーか」 「だからそれは占いがっ……、もういいよ、ばかっ」 そしてまた今日も始まったつまらない学校。教科書の内容を頭に入れ替えるだけの退屈な時間が始まる。そして窓の外が澄み切った青から哀愁漂う茜色へと染まると、校内に一日の終わりを告げる鐘の音が響いた。  教室には放課後の予定を楽しげに話す声が飛び交っている。学生の本分は勉学なんだから、学校なんてそれ以外に意味は無い、なんて考えてしまう俺は冷めているのだろうか。そんな事を考えてしまう嫌な空間から逃げ出すように、俺は早々と荷物を纏めた。 「よし……、帰るか」 「"帰るか"って今日病院じゃん」  いつの間にか俺の目の前に立っていた莉結が肩に掛かった長い髪を触りながら呆れ気味に言った。その肩には鞄が掛けられ、既に"俺待ち"の体勢がつくられている。 「莉結ってさぁ、変なとこ記憶力いいよなぁ」 「瑠衣が覚えてなさすぎなんですっ。毎月の事なんだからさぁ」 確かにこれは毎月の事だけれど、当の本人よりも通院の日を把握しているなんてさすが幼馴染みだ。この前病院に行ったばかりと思っていたのに、もう"注射の日"だったのか……。  俺が記憶のある頃からずっと定期的に病院に通って打たれている"よく分からない薬"。ホルモン系の注射らしいけど詳しい事は知らない。ただ、それは俺の中で当たり前の事であって、初めてクラスメイトからそれが"珍しい事"だと言われた時には、病院に通うのが苦痛になった。しかしそれも一時的なもので、利口な少年は他者との違いを割り切ってその事実を有耶無耶にしてきたのだ。  そして三ヶ月に一回のペースだったそれは、どういう訳か中学へ上がる頃には一ヶ月に一回のペースへと縮まった。 ……そんな俺の持病。恥ずかしいことに詳しい事は何も知らない。何故なら今の今まで誰に聞いても病名は疎か、ドコが悪いのかすらも教えてもらった事がないのだ。……普通なら到底考えられない事だけれど。 ただ、"何億人に一人という極めて稀な病気らしい"との情報だけは知っている。 あれは母さんが、多分病院の先生と電話をしてたんだと思う。幼い頃、夜中にふとトイレに起きた時、部屋の中からそんな会話が聞こえてきたのだ。その晩、気になって眠れなかった俺は、翌日その事を母さんに聞いてみたけど、その返答は"夢でもみてたのよ、きっと"だった。 ……まぁ、例え稀な病気なんだとしても今のところ生活には何の支障もなかったし、この通りピンピンしてるから俺はもうそれについては触れないようにしているけど。  学校を出た俺たちは、いつもの時間にいつもの道をいつも通りに歩いて行く。そしていつものバス停でいつものバスに乗った。  "三十番、山の手医大線"  車内ではいつものようにアナウンスに流れるバス停を頭の中で順々に読み上げていき、"せいえい病院入口"のアナウンスが鳴る直前に莉結と競うように降車ボタンを押す。そして悔しがる莉結をからかっているうちに病院に到着するのだ。これもいつも通り。  そしてバスを降りる頃には少し日も傾いて、ひゅうひゅうと吹くひんやりとした風の中で街路樹の影が病院の駐車場へとその細長い手を伸ばし始めていた。  病院に入って受付を済ませると、ロビーに置かれたお決まりの長椅子に座る莉結の隣へと腰を下ろした。莉結は俺の方をちらっと見てすぐに手に持った本へと視線を戻す。本のタイトルは"星になったポチ"……。 「莉結ってさぁ、毎回俺について来て待ってるだけって暇じゃないの?」  そう言うと、莉結は手に持った本をパタンと閉じ、俺を見て満面の笑みを浮かべた。 「ぜーんぜん、この病院絵本たくさんあるから暇じゃないもんっ」 「子供かよ……」 「失礼な。絵本は大人になってから読んで初めてわかる事ってのがあるんだよ? しかも瑠衣よりはオトナですけどっ?」 「はいはい」 聞こえないように溜息を吐くと、俺は天井を見上げた。  真新しい真っ白な天井は、十数年前までシミだらけで薄暗くて低い天井だったなんて想像もできない。この病院は俺がまだ小さい頃、耐震工事を兼ねて大規模な改修が行われ、昔の陰気臭い雰囲気がガラリと改善された。その際、このロビーも二階まで吹き抜けに改築されて、その広々とした空間にはふかふかの長椅子が何列も並べられ各列の間には小さなラックが置かれた。そしてそのラックには子供向けの絵本が数多く並べられ、随所リニューアルが施されたのだ。それはもはや病院とは思えないほどの変貌を遂げたと言っても過言ではないと思う。 そして莉結は此処に来る度、恥じらいもせずにそのラックに置かれた絵本を読んでは俺の診察の終わりを待っているのだ。 「如月さーん、如月瑠衣さーん」 受付から声が響く。他の来院者は順番が来ると電光掲示板に番号が表示されるのに、物心ついた頃からの顔馴染みなせいか、何故か俺だけは名前で呼ばれるのだ。  ……これって個人情報の漏洩とかになるんじゃないのか? 「じゃぁ、行ってくる」 莉結にそう言うと、本に視線を向けたまま手のひらをひらひらと振る莉結を横目にいつものように診察室へと向かう。そして扉を開けると、いつもの看護師が器具を準備するのを横目に、いつもの丸椅子へと腰かけた。 「こんにちは。じゃぁまた採血してくからね」 上着を脱ぐとすぐに採血が始まる。これも"いつもの事"だ。だから俺は予め待っている間に腕捲りしておいて、上着を脱げばすぐに採血できるようにしておくのだ。小さい頃は死ぬ程嫌だった注射も、今じゃ日常の一コマみたいなもので慣れきってしまった。 採血が終わって暫くするといつもの様に忙しなく先生が現れた。 この人は昔からずっと俺の担当医で、この病院でも腕が立つほうの医者らしいが、俺は名前すら知らない。だって幼い頃から先生は"先生"だったから。 「いやぁ瑠衣くん、調子はどう?」 「見ての通り相変わらずですよ」 「そっか、それは良かった。それで君の体のことなんだけど……、ちょっといいかな?」 「はい、どうか……したんですか?」 そんな"いつも通り"では無い展開に俺の身体が少し強張る。 すると先生は顔を険しくして"ごほん"と咳払いをすると「前回の血液検査の結果が出たんだけど、ちょっと薬が効かなくなって来ててねぇ、いや……、別に健康面でどうこうは無いんだけどね、念の為これから一週間に一回通院して欲しいんだ」と低い声で答えた。 「え? 俺の病気ってそんなに悪くなってるんですか?」 「いや、健康面でも生活面でも何の心配もいらないよ」 すると先生はそう言うと独り言の様に「心配は無い筈だ……」と呟く。 「無いはず? それはどういう……」 「いやっ、何でもないよ。だから心配しなくていい。治療費も今まで通りこちらで持つからね」 そう言って机の上の書類を"トントン"と整理しだしたのを見て、俺は特に追及もせずに「そう……ですか。わかりました。よろしくお願いします」と言って軽く会釈をすると診察室を後にした。 何故なら、俺の病気はかなり珍しいらしく、"病気の研究も兼ねて"という事で有難くも医療費は全額病院側が持ってくれているのだ。それは父さんがここで働いていたからというのもあるかも知れないけど、母子家庭である俺の家を配慮してくれているのかもしれない。だから俺は何も言わずに先生の言う事を素直に聞く事にした。 「莉結お待た……」 俺はロビーの長椅子に無防備かつ無神経に横になっている莉結へと近づくと"ベシッ"っとその頭を軽く叩いた。 「痛いなぁっ、なに?!」 「ったく……、なにじゃねぇよ、場所考えろっつうの」 「瑠衣が遅いから悪いんじゃん」  いや、そういう問題じゃねぇだろ……。と莉結に呆れつつ病院を出ると、紺色に塗り替えられた空の下、葉も残り僅かとなった街路樹がぽつぽつと並ぶ道をひんやりとした乾いた風に押されながら家へと向かう。 そんな中、いちいち言わなくてもいいのかな……、とは思ったものの、胸に少し湧いた不安を払いたくて、俺はそっと口を開いた。 「俺の病気だけどさぁ、えっと……なんかさ、悪くなってるみたいでこれから週一で通院しろってさ」 「え? 瑠衣……死んじゃうの?」 「いや死なねぇよっ、しかも病気が進行しても生活面ではなんの心配もないって先生は言ってたし」 「知ってる。瑠衣が死ぬ訳ないよっ、生活面で心配無いなら問題無いじゃんっ」  莉結が笑ってそう答える。しかし俺はその言葉に疑問を抱いた。 生活面……。健康面と生活面では何の心配もいらない? それ以外に何かあるっけ?        普通に"心配無い"って言えばいいのに何であんな特定的な言い方したんだろう。それってその二つ以外の面で心配な事があるって意味なんじゃ……。 「あっ!」 すると突然、俺の雑念を裂くように莉結の声が乾いた空へと響いた。 「えっ、何ッ?!」 「可愛い……。ほら、あそこ」  莉結の指差した方を見ると、暗闇に消えてしまいそうに黒い小さな野良猫が、ブロックの上から小さな目を見開いて俺たちの方を見ていた。 「は? 猫……。あ、アレか? そういえば猫好きだもんなぁ。ってか最近また猫のぬいぐるみ買ってたよな、またそんな……」 「あの子達は私の家族みたいなものだもんっ」 金の無駄遣い……、なんて言えないか。 「あ、あぁ、そう……だな」 莉結と居ると"家族"というワードには少し敏感になってしまう。そんな風にならない方が良いのは分かってるけど、こいつは両親が幼い頃事故で亡くなって、今はおばあちゃんと二人っきりで暮らしてるって事もあるから、やっぱり心のどこかじゃ寂しい思いでもしてんのかな……、なんて考えてしまうのだ。 「寒くなってきたし行くか」 「うんっ、ばいばいっ子猫ちゃん」 それから俺は病院の先生に言われた通りに毎週欠かさずに病院へと通い、変わりゆく季節の中、変わらない学校生活を送り、あっという間に三ヶ月が過ぎようとしていた。
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