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獅子が私を愛していた?
一体いつから。いつから、そんな。
そんな素振りなどひとつも見せなかったではないか。何度聞いても、けして心を開かなかったくせに。
少年王は砂漠を駆けながら乾いた空気を飲み込んだ。
砂粒を踏み荒らす素足はちくちくと痛み、喉は息を吸うごとにひりついた。
あいつは化物で、野蛮で、恐ろしくて。私の体に消えない汚辱を付けた。怒って追い立てたくせに、追いかけてきて、体を張って私のことを守った。
挙句、私を愛しているということをひた隠していた。
「勝手すぎる…!」
少年王は砂を蹴散らして走った。
あれと共にいることで、どれだけ恐ろしい時間を過ごしてきたか。
そんなことなら言えばよかったじゃないか。力づくで手籠めにしなくとも、愛しているから傍にいて欲しいと言ってくれれば。
「言って、くれれば」
少年王は走る速度を落としながら、顔に影を落とした。
「私はどうしただろう…」
その気持ちを受け入れただろうか。否、きっと拒んだはずだ。今よりももっと強く彼を蔑んだかもしれない。
心を閉ざしていたのは自分も同じだ。
はなから自分と違う異形のものだと決めつけて、理解しようなどとは欠片も思わなかった。
今だって、獅子の想いを知ってもどうしていいのかわからない。
ただ頭に残っているのは獅子のひとつの言葉。
――すまなかった。
自分自身を深く嫌悪し、責めている。あの声が棘となって抜けない。
きっとそれはあの黒い獅子の姿を見たから。少年王が獅子をどう思っているのか知ってしまったから。
…傷つけたのだろうか。
ずきりと胸が痛んだ。
「違う」
少年王は拳を握り、かぶりを振った。
「あいつが、あいつが悪いんだ…!」
今更謝るな。私を傷つけたことすら開き直って、恐ろしい化物のままでいればよかったのだ。
もしそうであったなら、今この瞬間、迷いなんて生まれなかった。お前を置いて行くことに罪悪感なんて感じなくて済んだのに。
「私をこんな気持ちにさせておいて、いっそ手酷く殴ってやらなくては気が済まないぞ」
少年王は唇を噛み締めて顔を上げた。
戻っても何も出来ないかもしれない。それどころか、三度と恐ろしい目に遭うだろう。それでも。
(今の獅子を、見捨てていくことが出来ない…!)
この感情が情けなのか、ただの怒りなのか。わからない。
でも、独りにさせられない。
いつの間にやら止まっていた足を動かして、少年王は振り返り、獅子の元へと駆け戻った。
暗い。
何も見えない。誰もいない。
けたたましい程であった砂たちの声すら聞こえなかった。
「嫌な奴らだ…」
暗闇の中で獅子の呟きが落ちた。
「これが我の最も恐れるものか…よく分かっているではないか」
そこには孤独だけがあった。獅子は暗闇の中をゆっくりと歩き出した。
孤独とは、なにより恐ろしい。
ふと闇の中で何かが動いた。獅子は歩みを止め目を凝らす。
「…少年王」
そこには少年王の姿があった。獅子が思わず歩み寄る。もう少しで鼻先が触れるというところで、その姿は真っ黒な砂となって崩れ去った。
辺りに気味の悪い静けさだけが残る。
今見ているものは全て幻だ。そう分かっている。
分かっていても獅子は抵抗することなく、目を閉じ、闇の中へと呑まれていった。
――恐ろしいか
呻く声が聞こえる。体が鉛のように重くなる。もう一歩も動きたくはない。
「ああ…酷い気分だ」
――あの子を逃がさなければよかったのに
「そうはいかぬ」
――あんなに拒まれているのに
「あの子が拒もうと、我は愛している」
これでいい。
あのままどこか遠くへ逃げてくれ。この地からも獅子自身からも。少年王がどこかで生きていてさえくれるならそれでいい。
…ああ、そうか。
これが愛するということなのだな。誰かを大切に思い、守りたいと思う心が人の言う愛なのか。
「…我が今まであの子に強いたのは愛ではなかった。ただ寂しさを和らげる為に利用していた」
きっと許してはくれないだろう。
許さなくていい。愛してくれなくていいから、どうか愛することを拒絶しないでくれ。
少年王を愛していた。この想いを持てただけで充分だ。
このまま、独りに戻ることになろうとも――…。
――寂しいのね
泣き声が言った。
「…寂しい」
――独りは嫌?
「嫌だ、独りになりたくない…もう独りは嫌だ」
一言弱音を吐き出せばもうひとつ、またひとつと暗い感情がおもしとなって心に沈む。
――お前は私達と同じ
――寂しくて、飢えていて、仲間を欲しがる
――そんなに苦しいのなら我らの仲間になればいい
砂達が問いかける度に、自分の足元が石のようにぴしぴしと固まっていくのを感じる。
獅子は朧気な頭で考えた。
この幻から覚めたとしても、待っているのは永劫の孤独だ。寂しさを和らげることは出来やしない。
それならば、いっそここで死に絶えてしまった方が楽なのかもしれない。
「それも、いいかもしれぬな…」
取り巻く闇が獅子に向かって蠢いた時、獅子の意識は何か温かいものに強く引き戻された。
「起きろ!!」
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