黄昏色の獅子と少年王

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「うわあ!」 足元からどうと音を立てて盛り上がった砂に、少年王の体は紙くずの如く吹き飛ばされた。 砂の山を崩しながら地面に転がる少年王は視界の端に何かを捉えた。 それは砂を掻き毟る音を立てながら地中の底からざわざわと這い出てくる。 沢山の足や節や長い触覚が見える。虫だ。大きく、赤黒く、蛇のように長い体を持った虫だった。 目らしい目は見当たらなかった。けれどもその虫が頭を(恐らく顔なのであろう)こちらに向けた時、心臓を握られるようで少年王の体は固まってしまった。 この虫がひどく腹を空かせていて、探し回りようやく見つけた獲物が己なのだということを感じ取ったからだろうか。 わかっていたことだ。 丸腰の人間がひとり、死の砂漠をさ迷っているのだから魔物が寄ってこない筈がない。それでも少年王が魔物に襲われたのは今が初めての事だった。 既に都を離れてから時間が経っているのに、魔物達は少年王を避けるように逃げて一度も襲っては来なかった。 それもその筈。彼の体には件の獅子の匂いが染みついて、いわば鎧の代わりになっていた。けれども人の子である彼がそれに気付く由は無い。 この魔物は今までのものとは違っていた。 こいつは必ずや私のはらわたを貪り血を吸いつくすだろう。そう直感した。 死を受け入れる覚悟はあった。だが、いざそれを目前にすると生き物は本能的に生き残ろうとするらしい。考えるよりも早く体は立ちあがり足は駆け出していた。 背中に棍棒で殴られたような痛みが走る。衝撃に呼吸が止まった。 少年王の体は空へ浮き、離れた砂地へと弾き飛んだ。件の魔物が長い体を振り、尾で少年王を殴りつけたのだ。 力を振り絞って起き上がれば、回り込んで一度、また一度と倒される。この魔物は獲物をいたぶり弱っていく様を楽しんでいるようだ。 少年王はやがて起き上がらなくなった。体のあちこちが痛んだし、口端や肌からは血が滲んでいて逃げる気力は枯れてしまった。 近づいてくる気配に目を固く閉じる。死ぬのがはやいか遅いかだ。怖がったりしない。 そう覚悟を決めた時だった。 魔物は長い触覚をぴくぴくと動かし、奇妙な鳴き声をひとつあげたかと思いきや、現れた時と同じく大きな音を立てて地中へと潜っていってしまった。 何事かと少年王は目を開く。周囲を見渡しても再び襲ってくる気配は無かった。 よくはわからないが助かったらしい。 安堵の息を吐こうとした時、視界に入ったものにその息を呑み込んだ。 夜の帳の中に蠢く奇妙な何かが、こちらに向かってきていた。 「黒い砂嵐…」 いつか見た黒い砂。それは音も立てず静かに、それでいて速く此方に向かってくる。 「うっ…」 少年王はたまらず耳を塞いだ。砂嵐は聞いたこともないような音をしていた。 悲鳴や怨嗟のように聞こえる音は、心を不安にさせるようで、かと思えばひどく陰鬱にさせた。 砂は意志を持つように蠢いて鉄臭い匂いと生暖かい風を散らしながら、あっという間に少年王の辺りを取り囲んでしまった。 ーーこんなところに、人の子がいる ーーぼうや、どこから来たの 声がする。 男とも、女とも、老人とも子供とも取れぬ奇妙な声だった。 少年王の頭がずきりと痛みを立てた。黒い砂が口や鼻、耳から入り込み、体の内部を侵食していくようで気分が悪くなった。 砂達は話し続けた。 ーーあのはぐれもののところから来たのか 「はぐれもの…?」 ーーはぐれものが人と交わろうとしたらしい 少年王はそれが獅子のことだと気が付かなかった。 砂達はどっと笑った。その音はあちらこちらから反響し、高温と低音が混じりあって不快な笑い声だった。 こいつらは何だ。 心の中で発した問いに、砂達は答えた。 ーーこの世の怨嗟を統べたもうもの。心の闇を形づくるもの ーー仲間になればわかるだろう 頭が痛み、体は重く、意識がぼんやりとしていた。吹き荒れる砂に呼吸が苦しくなる。 霞む視界を必死に広げれば、黒い砂はひとつの所へと集まって何かの形をなしかけていた。 それがあるものになった時、少年王は喉の奥から悲鳴をあげた。 ◇◇ あれは何だ? あのけだものは一体。 獅子は我が目を疑った。良くない風を追いかけて砂漠を駆けてきてみれば、そこにはやはりあの少年王がいた。 彼は美しく気高い顔立ちを恐怖に引き攣らせて、震えている。その目が見つめているのは真っ黒な獣だった。 「あれは…我か…?」 己の姿をそっくり象ったそれが少年王に襲いかかっている。 黒い砂はこの地に住む異形のひとつだ。 生き物を見つけると、耳や鼻から体内へと入り込み、その者が最も嫌がる心の闇を見つけだす。そしてそれらを象って現れ、苦しむ様を楽しむのだ。 奴らは何よりも人を好む。 感性豊かな人間の心は他のどんな生き物よりも恐怖を増長させやすい、格好の餌なのだ。 死の砂漠へ迷い込んだ旅人達が、黒い砂によってただ叫ぶだけの生き物に変わり果てるざまを獅子は何度も見てきた。 そうして壊れた人間の体はやがて真っ黒に干からび、崩れ、砂と化して奴らになる。 このままではあの少年王も。 しかし獅子の足は動かず、ただ茫然と彼らを見つめ続けた。 四つの瞳に映る景色の中では、黒い獅子が少年王に跨り彼をいいようにしている。 そこには惨劇があった。肉欲のままに腰を振る己の姿は醜悪そのもので、獅子は目を背けたくなった。 あれが少年王の最も恐怖とするもの。 獅子はずっと自問自答していた。 何故少年王が獅子を拒み、死を選ぶまでして逃げたのか。 ――痛くて、苦しくて、殺されるかと思った。 少年王はそう泣いていた。彼の涙の意味が今ならわかる。 眼下で行われる野蛮な行為がその全てだ。 彼を求める己の姿。我はあんな姿だったのか。彼の目にはあのように映っていたのか。 泣き声が心に突き刺さる。あの悲鳴に気が付けなかったのは何故だ。 獅子は砂地に爪を立てた。 (どうしたらいい) 少年王がこのまま壊れる姿は見たくない。 しかし、今更彼を守りたいなどとどの口が言うのだろう。獅子は喘ぐように息をした。 孤独に耐えかねて少年王を連れ去った。閉じ込めて自分のものにした。しかし決して傷つけたかったわけじゃない。あんなことを望んでいたわけじゃない。 (愛したかっただけなのだ) けれども事実、彼を傷つけているものはそんな己の勝手な感情だった。 自分のことしか考えていなかった。 どんな顔で彼に向き合えばいい。どうやって守ればいい。 今更愛しているなど言えるものか。 「嫌だっ!!」 獅子の硬直を解いたのは少年王の悲鳴だった。どこかで体を傷つけられたのだろう。血の滲んだ頬に涙が伝う。 彼は泣きながら呟いた。 小さな声だったが、獅子にははっきりと聞こえた。 「助けて、くれ…誰か」 その言葉で、体にかっと赤く滾る血が流れ出した。
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