黄昏色の獅子と少年王

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少年王の腕がびくりと強ばった。 「え?」 「傷が癒えたらすぐに返してやる…暫し待て」 「し、獅子」 何を言うのか。自分でも驚く程に出た声は震えていた。 「私を手放す気か?」 「汝はあそこを出たかったのだろう」 「それは、」 「案ずるな。全て元の通りだ、国には何もせぬよ」 そういう事が言いたいのではない。少年王が首を振ると、獅子は彼の腕からするりと抜け出た。 少年王は離れるたてがみに手を伸ばして追った。 「わ、私はもう一度愛してくれと頼んだではないか」 「愛しているとも」 少年王を愛し続ける。 ただ、遠く離れた地からだ。 隣にいなくとも愛することは出来る。 しかし、少年王は獅子の考えが理解出来ないとばかりに声を荒らげた。 「何故離れる必要がある、今度はお前が私から逃げるのか!」 「そうではない。違う」 獅子は立ち上がると少年王を見据えた。 「聡い汝ならばわかるであろう。わかっておくれ。汝は人間で我は化け物だ」 あそこに戻っても未来はない。ずっと切り離された世界のままだ。 「永劫をあの都で暮らしたくはないだろう。あそこは、嫌だろう」 諭すように獅子は言った。 愛しているからこそ、もう閉じ込めるような真似はしたくない。自分と同じ孤独を味わわせたくない。 少年王は顔を伏せ、拳を強く握った。 「いやだ」 「そうだろう、ならば」 「だがお前を置いていくことはもっと嫌なのだ」 獅子が7ぴくりと身じろぎ、少年王を見る。黒檀の瞳からははらはらと涙が溢れていた。 「独りは嫌だと、孤独は怖いと、お前は嘆いていたではないか」 「…聞いていたのか」 「お前の辛さ、今ならば少しわかるぞ」 少年王はあの都で孤独に震えた夜のことを思い出していた。 獅子に連れられる際に何もかも捨ててきた。全てがなくなると、この世でたった独りになってしまったような不安があった。 心細くて、怖かった。寂しかった。 獅子はそれを気の遠くなるような時間と共に味わってきたのだ。だから、こんなことを。 「お前を愛せるかと問われれば、それはわからない。それでもお前という存在を知ってしまった今、見捨てて行くことが出来ない」 今ここで獅子から離れたとしても、きっと幸せになど暮らせない。 「私はもう逃げないぞ、だからお前も私から逃げるな」 獅子が顔を上げた。傷ついた頬から赤い雫が垂れた。 「ならば、行くか?我と」 少年王は頷いた。 ◇◇ 「お前自身を知っていくところから、もう一度始めたいのだ」 時の無い都に戻った少年王は言った。 神殿の至聖所の泉の中からざぶりと上がった獅子はひとつ身震いをした。少年王は泉水盤の傍らに片膝を立てて座った。 「お前の過去を知りたい」 「あまり気分のいい話ではないぞ」 「構わぬ、話せ」 お前が辛くならない程度でいいと言われたが、獅子は全てを打ち明けた。己の過ちも過去の暴挙も、全ての生物に対するあこがれも。焦がれるような人間への思いも。 何もかも包み隠さず話終わった時、少年王は静かに涙を零していた。 「どうした、何だ、嫌だったのか。すまない」 「違う」 すまない、すまないと何度でも繰り返す獅子に少年王はゆっくり首を振った。 「お前の孤独と苦しみがそれほどまでに長いものだったとは」 罪を犯し、罪を悔いて、自分が何者かもわからぬまま独りで生きてきたのだろう。 力を驕り、力に嘆いて、力ある故に他の生物には避けられる。一体どんな苦しみなのだろうか。いくら考えても、命の短い人間には見当もつかない。 「私にはお前の辛さがわからぬ。何も言えん。それでもどうかこれを安い涙などとは思わないでおくれ」 「…思わんとも」 獅子は表情を変えぬまま少年王が零す涙をずっと見つめていた。 「いつぞやにも、汝はここで泣いていたな」 あれはここに来て間もない夜のことだ。ああ、そうだなと少年王は言った。 「私は国から離れたことで全てを無くした気になっていたのだ」 この都にいると、王でない自分に何の意味があるのか。そう問い質されているようで。 ただ一人の人の子としてこれから生きていくのか、その事実を受け入れることが怖かった。身を守る鎧を剥ぎ取られてしまったような気持ちだった。 「それで涙を見せるなど、情けないことだ」 自嘲気味に瞼を落とせば、獅子が唸った。 「汝は強い。常にその目の奥には覚悟がある」 王であろうとなかろうと、鷹よりも気高く宝玉より美しい少年よ。少年王がはたと顔を上げた。 「王だからではない。我はそんな汝の魂に惹かれたのだ」 少年王は黒檀の目を大きくさせ、やがてほんの少しだけ笑った。 「…そうか」 「今、笑ったか」 「かもしれないな」 獅子は大きく唸り、ぐるぐると鳴きながら辺りをうろうろと忙しなく歩いた。恐ろしい巨体に見合わぬ姿に少年王は面食らい、おかしさに耐えきれず吹き出した。 「私の表情が変わったことがそれほど嬉しいのか?」 「嬉しいとも、それはもうな」 その顔がずっと見たかった。 「今までは張り詰めたような顔ばかりさせていたからな」 少年王は涙を拭うと、その腕を獅子へ向けた。誘われていることに気が付いた獅子はたじろいで数歩後ろに下がった。 「どうした、来い」 「もうあんなことは二度としない。汝の肌には触れぬ」 「たわけ、なにも抱けと言っているわけではない。お前を撫でてやるだけだ」 獅子は躊躇いながらも少年王に歩み寄った。大きな頭を少年王の肩に乗せると、優しく顎を撫でられた。 「仲を深めるにはこういった触れ合い方もあるのだ」 心地がいい。目を細めて撫でられる手の感覚を感じていると、少年王がそっと囁いた。 「人ではない化物などと罵って、すまなかったな」 人のように生きることを切望していた獅子に、なんと残酷な言葉を刺してしまったのだろう。あの時の獅子は確かに傷ついていた。 「お前は人にそっくりだ。嘘ではないぞ。驕りも後悔も寂しさも、愛を望むのも全て人間が感じる心だ」 「…だが、我は人にはなれぬ」 「すがたかたちなど必要ない。感じる心さえあるのなら私達と同じだ」 少年王は獅子の頭を抱え優しく撫でた。 「人とてまるきり同じ姿のものはおらぬのだぞ」 生きている者は皆が一様にひとりだ。全てにおいて分かり合うものなどいやしないのだ。 だからこそ集まり、支え合い、愛し合うのだろう。 少年王はそう言って獅子の頭に顔を寄せた。 「お前は傍に誰もいてくれなかっただけだ、今はもう私がいる。お前は私達と何も違わない、仲間だ」 獅子の四つの瞳から熱い涙があふれ出した。 大きな雫は少年王の体を濡らしたが、彼はそれを拒まなかった。溜め込んでいた苦しみを流すように、泣き続ける獅子の頭を抱き寄せ、その額に口付けた。
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