黄昏色の獅子と少年王

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「そこの鬘を取って頂戴」 「はい陛下」 ある黄金の国の女王は、私室の中で己を見つめる気配に気が付き目を鋭くさせた。 傍らに控えた女中や神官たちにお下がりと命ずると、すっと立ち上がり窓に歩みよった。その手元には短剣が鋭利に光っている。 殺気は無い。だが、確かにそこに誰かいる。 「何者」 厳しく言葉を投げかけると視線の正体が帳の向こうから姿を現した。 「姉上」 短剣が床に落ち、乾いた音を立てた。 「ああ、ああ…」 彼女は驚きと喜びに体を震わせて、目の前の少年に駆け寄った。その体をしっかと抱き締めると、確かに温かった。 「ああ、温かいわ、夢ではないの?貴方は本当にここにいるのですか?」 「姉上、ご心配をおかけした」 「可愛い弟よ。ああ、貴方を再び我が胸に抱くことが出来ようとは。この一年間、どんな思いであったか」 黄金の女王は一年前、国を襲った悲劇により失くしてしまった弟の帰還に咽び泣いた。 魔女神の呪いから解き放たれ、目が覚めた時には我が国を統べる王が忽然と消えていた。 その代わり、彼の姉である娘の頭に王の冠が被せられていたのだ。 「わたくしは女王となって貴方の代わりになど、この一年間貴方のことを忘れたことなどなかった」 女王となった彼女は消えた弟を探すよう兵達に言い渡したが、結局手掛かりは何ひとつ見つけられなかった。 弟はもう生きていないかもしれない。そんな思いを抱え彼女は弟を探し続けた。 「貴方は美しいからあの魔女神に魅入られてしまったのかと、夜な夜な涙を流しておりました」 弟は細腕に抱きしめられながら姉の聡さを悟った。魔物に魅入られたというのはあながち間違いではないのだ。 黄金の女王はさめざめと涙を零しながら弟の顔を見つめ、蜂蜜色の頬を撫でた。 「愛しい弟、帰ってきてください。わたくしも民もそれを望んでいるのです」 しかし彼はその言葉を受け取らなかった。彼女の体を離して、小さく首を振る。 「どうして」 黄金の女王は追い縋るようにして弟の胸元に両手を当てた。彼は信じられないという表情をしたままの姉に言った。 「どうかお許しください。私は、…国よりも他に、守るべきものが出来た」 何を言うのです、と女王は震えた声で弟を咎めた。 「この国に貴方は必要なのです」 彼は眉を下げ、姉の肩に手を置いた。 「今日一日この国を見ていた、私が治めていた時よりも穏やかでずっといい。姉上が優れた王でいらっしゃるがゆえだ」 「わたくしは弟を犠牲にして得た女王の地位などいりません」 「犠牲ではない。姉上に王座を託したのは他でもない私なのです」 女王は両手で己の顔を覆った。指の間から腕を伝い雫が零れ落ちる。 「貴方の守るものは、この地では守れないものなのですか」 「人の世では受け入れ難いものです、ここに連れてくれば傷つける」 「わたくし達ではなく、そのもののために生きるのですか」 彼は頭を深く下げて頷いた。 「その生を選び、貴方に残るものは何ですか。そこには王の地位を捨てるほどの何があるのです」 「愛です」 女王の息を飲む音が静まった場に響いた。 「その者を、深く愛してしまいました」 ゆっくり持ち上がった黒檀の瞳には決意と、確かな想いがあった。女王はふ…と止めていた息を吐き、孔雀石色に染められた瞼を伏せた。 「ならば、わたくしに貴方を止めることは出来ない」 弟はもう一度深く頭を下げて姉を強く抱き締めた。弟は別れを告に来たのだ。きっともう生きて会うことはないだろう。お互いにそれを理解しながら別れの時間を尊んだ。 「姉上、最後に」 「なんですか」 「末の妹には、私の他にいい夫を」 「…ええ、そのように」 女王は微笑んで頷いた。 「さようなら姉上、お会いできて良かった」 「さようなら、わたくしの可愛い弟」 女王は窓辺の欄干に手を当てて、去りゆく弟に大きく手を振った。外れの砂漠へと向かう弟の背を見つめていると、彼の傍らに何か大きな影が現れた。 女王は驚き、口に手を当てた。 「あれは…!?」 獅子に似た、とても大きな獣。その姿は黄昏の色。恐ろしい異形に見えるその獣は、弟を襲うことなどなく寄り添った。 弟はそのたてがみを慈しみを込め撫でて、その背に跨った。その仕草だけで彼らがお互いを大切に想い合っているということが分かった。 「まあ…あれが、あの子の……なんと美しい獣だこと」 彼らが去りゆく後には黄昏色の炎が走っていた。 まるで彼らの命が燃えているよう。煌めくその炎が砂漠の彼方へと消えていく姿を、女王は微笑みをたたえ見送った。 ◇◇ 「…いいのか?」 「何がだ?」 獅子は己の背に跨る少年王を見上げた。いつかの夜を境に少年王と獅子の仲は変わっていた。過去も弱みも吐露し合って日に日に彼らの心は近づき、深まっていた。 そんな中、あるとき少年王が獅子に頼んだ。 もう一度だけ国に戻りたい。それを聞いた獅子は躊躇った。 「もう戻ってこないと思った」 それでも覚悟はしていた。どこまで深い仲になろうとも、彼は人間だ。 家族だっているし、故郷もある。少年王自身がそれを望むのだとしたら、獅子は彼を帰してやろうと思っていた。 「こうして来てみれば、やはり汝は人の世がふさわしいのでは無いのかと」 「何を言うかと思えば」 少年王は身を屈めて獅子の頭に顔を乗せた。ごわついた鬣が頬をくすぐる。 「私がまた恐れて逃げ出すとでも思ったか」 ぐるぐると困ったように喉を鳴らす獅子を見て、少年王は声を上げて笑った。 「お前のどこが恐ろしいというのだ」 獅子は言い難そうに口を開いた。 「…だが、我といても何も残らんぞ。あの都は何も生み出さないし、我とて汝に何も与えることが出来ない。故郷に戻れば再び王になり、妻をめとれば子も産まれるであろうに」 「おい、いい加減にしないと怒るぞ」 本当にこの獅子は図体ばかりの気弱で煮え切らない奴だ。少年王は眉を寄せた。 「私はただ、故郷を見納めにしたいとそう言ったではないか。私の言葉を疑うのか」 「疑ってなど…」 「ならば惑うな」 少年王は獅子の頭をそっと撫でた。 「王の代わりはいくらでもいるさ。だがお前の番の代わりはどこにもおらぬ」 この獅子が臆病で誰よりも寂しがりだということはとうの昔にわかっている。 そんな獅子を置いて、何故戻れようか。このまま何を残せなくとも後悔などしない。 「…そうか」 獅子はもう一度、そうかと頷き少年王の言葉を噛み締めた。 「だがお前の言う通り私は人だ。お前とまったく同じ時を生きることは難しい」 人の寿命はとても短い。いつかは必ず別れる時がやってくる。その時に獅子がどうするのか少年王には分からない。 けれど、生きてほしい。 愛しているからこそ、強く生きていって欲しい。そうすればいつかまた出会える日が来るだろう。 「獅子よ、これだけは覚えていておくれ」 黙り込んでしまった獅子を抱きかかえるようにして、少年王は腕を回した。 「いつか老いて先に地に眠ったとしても、私はいつまでもお前を愛している」 凛と通る声は獅子の心の中にじわりと染みわたった。毛の一本から爪の先まで満ちるそのぬくもりは幸福感を与えてくれる。溢れそうになる涙を堪えながら獅子は頷いた。 少年王は微笑んで瞳を閉じた。 「誓いの代わりに私の真名をお前に捧げよう」 「汝の名を…?」 「そうだ、いつかはお前がこの名を名乗るといい」 少年王はゆっくりと囁いた。 「私の名は、レグルス」 その名は気高く、美しく響き渡った。 「レグルス…」 獅子は呟いた。声に出して何度でもその名を呼んだ。 「ああ、レグルス。愛しい我のレグルス」 この美しい名を与えてもらえたならば、どんなものにもなれる。 彼の肉体が朽ちようと、彼の魂と共にどこへだって行ける。二度とあの孤独に戻ることはない。もう独りではない。 獅子は天を仰ぎ、咆哮した。慟哭ではない心からの喜び。レグルスの驚きの混じった少年らしい笑い声が聞こえる。 獅子は弧を描いて高く高く跳躍した。生きている喜び、誰かと愛し合う喜びを感じながら。 咆哮が溶けていった空は、獅子の体と同じ黄昏色に染まっていた。
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