黄昏色の獅子と少年王

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神殿の隣には穹窿型の屋根を持つ宮殿があり、二つの建物は内部で繋がっていた。宮殿の中には玉座はもちろんのこと天蓋付きの寝台のある寝室や身を清める御湯殿があった。広間には様々な料理や果物、砂糖漬けのナツメヤシまでもが宴のさなかのような状態で金の盆に乗せられていた。 少年王は呆気にとられ口を開けた。 獅子に促され、少年王は恐る恐る果実のひとつを口に入れた。赤いそれは甘酸っぱく、まだ瑞々しい味がした。 そこで驚く。いくら口に入れても、その果実は一向に手の中から無くなりはしなかった。食べたと思えば次の瞬間には既に元の姿で手の中に納まっている。 「食っても減りはせぬ。この都の全て、変化は矯正され全てがもとのとおりよ」 少年王は物恐ろしくなり果実を手から離した。おかしなものを口に入れてしまったと喉を押さえた。 「ここにあるものが嫌ならば、外から持ってきてやろう」 獅子は宮殿で生活することを少年王に勧めた。 「我は神殿の方にいる、何かあれば呼ぶといい」 それだけを言い獅子は去っていった。少年王はふらついた足取りで歩き、寝室のひとつに入った。体も頭も一連のことに疲れ果てていて、繻子の寝台の倒れ込むとそのまま死んだように深い眠りについた。 ちかちかとしたランプの明かりに照らされた少年王は寝台の中で目を覚ました。窓の外を見れば深い群青色が広がっており夜更けなのだとわかった。 どことなく不安な気持ちに駆られた少年王は寝台から降りて部屋の外へと歩き出した。 私室に祈祷部屋、調理場、様々な場所を訪れたがどの場にも共通していることは、今の今まで人のいたような気配を持ったまま全てが止まっていることだ。気配はあるだけで動くものはどこにもいない。 不安な気持ちは増すばかりだった。 少年王はふらりと神殿の方へと足を向けた。件の獅子は神殿の出入口の前に目を閉じたまま横たわっていた。その姿だけ見れば守護神のスフィンクスのようだ。 今ならば逃げ遂せるだろうか、そんな考えが頭をよぎったが彼はすぐに諦めた。 どちらにせよここを出たところで、死の砂漠を渡り切るなど不可能だ。それに、例え化物相手といえど一度決めた約束を反故にするのは己の誇りが許さなかった。 少年王は神殿の前室を通り抜け、至聖所へと足を踏み入れた。 至聖所には青くきらめく泉が泉水盤の中に満ち満ちていた。黄金と水晶で出来たその泉水盤はいくつもの水路に水を運び、そこから緑を育み、生命の源となっていた。獅子の言った通り外へと繋がる水路もあった。 「ここは泉の都だったのだな」 さぞ尊い都であったに違いない。少年王は跪いて祈りを捧げた。 誰一人としていない死んだ都に取り残された命の泉。皮肉なことだ。王も民もいないこの都市を一体幾年の間守っているのだろう。 「私の故郷はどうなったのだろう」 ぽつりと呟いた少年王の瞳に涙が滲んだ。私の国もこんな風に滅んではいないだろうか。家族は無事だろうか。民は無事だろうか。 もしあのまま呪いが解けずに国は死んで、そこから私一人だけ逃げ出して来たのだとしたら。 少年王はぎゅっと拳を握り、不毛な思考に幕を閉じた。 泉の中を見つめれば今にも泣き出しそうな顔をした弱々しい自分が映っていた。 「私はもう王でも何でもない」 そこには何も持たない独りぼっちの少年がいた。 その事実が少年王を一層心細くさせ、彼は床に突っ伏して涙を零した。 「泣いているのか」 頭上で雷が遠く聞こえる時によく似た唸り声がした。 顔を上げると、月光を背にし影となった獅子が自分を見下ろしていた。少年王は震えながら後ずさった。 獅子は前足を進ませ少年王へ顔を近づける。鋭い牙の並んだ大きな口が開かれ、少年王は思わず目を閉じた。 しかし、次の瞬間生温かくぬめったものが頬に触れた。 「泣くな」 獅子は少年王の頬に伝う涙を舌で舐めとっていた。その舌先はおずおずと触れ、どこか慈しみを含んでいた。 まるで子供に毛繕いでもするかのような舌づかいに少年王は驚き首を振った。 「やめろ」 「少年王よ」 「うるさい、やめろ…っ」 恐ろしい力を持った化け物のくせに、何故だかその舌に触れられると仄かな熱が心に灯る。 頬を舐められる度にぼろぼろと涙が溢れ出た。 「お前には私の気持ちなぞわからない。私が今、どれほど辛いか…!」 故郷を懐かしむ気持ちも、家族に会いたい寂しさも、化け物には到底わからない感情なのだろう。自分は今不安で押しつぶされそうだと言うのに。少年王はそう思い声を荒らげた。 「ああ、そうだな」 獅子は少年王から口を離し、自分の鼻先を舐めた。 「人の気持ちなど我には何も分からぬ」 泣きじゃくる少年王の頬に擦り寄ると、獅子は彼の体を取り巻くようにして伏せた。太い前足が少年王を抱き寄せる。 「だが独りは寒いであろう。汝の辛さが和らぐまで傍にいる」 黄昏色の火の粉と共に出た言葉に少年王は目を見開いた。ごわごわとした毛皮の向こうから聞こえる心音が不思議と気持ちを落ち着かせていった。こぼれた涙が獅子の体に落ちては吸い込まれていく。 何故この化け物はこんなにも自分に固執するのだろう。 「私をここに連れてきた理由はなんだ」 人の国がひとつ消えるなど、獅子にとっては瑣末なことの筈なのに。少年王は泣きながら問うた。 「何故、私を助けた?」 獅子は唸るだけで答えなかった。 少年王はやがて考えることをやめ、獅子の体に顔を埋めた。 ここに生きているのは自分達だけ。例え相手が化け物だとしても、今だけはこの温かさに縋りたかった。 「独りは寒い…」 二人ならば温かい。 獅子は呟き、自分の体に寄り添ったまま眠る少年王の頬を舐めた。
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