黄昏色の獅子と少年王

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少年王と獅子の生活は何事もなく過ぎて行った。少年王は幾分かこの地での生活に慣れ始めていた。 慣れというものは凄いものだ。人間に与えられた生き抜く為の力とてつもなく強い力なのではないかとすら思う。 「もう食わぬのか」 広間の円卓の前に座った少年王は頷いた。傍らに伏せた獅子が唸る。 初めの頃はそれなりに食欲はあったが、近頃は飲まず食わずでも何も思わなくなってきていた。腹が減らないのだ。 それによって体の調子が悪くなることも無い。これもこの地の時の止まった力のせいかと不思議がったが、やがてそんな考えも些事へ変わった。 「お前こそ何も口にしていないではないか」 「人の世の物はあくまで人の物だ」 あれから獅子との関係に特に大きな変化があったわけではない。 獅子は毎日のように食事を取り、身を清め、眠りにつく少年王を少し離れたところから四つの眼で見つめるのだけで特に何かをすることも求めることもなかった。少年王も己から関わりに行こうとはしなかった。 彼らが交わすのは他愛もない言葉のやり取り。獅子は少年王が訊ねれば大概の事は答えてくれた。 だが、どうして自分をここに連れてきたのかだけは一向に教えてはくれなかった。 「少年王」 立ち上がった少年王に獅子が背中から言葉を投げかけた。 「妻はおるのか」 少年王は眉を寄せて首を傾げた。何故そんなことを聞かれるのかわからなかったが、何気なしに答えた。 「まだおらぬ。末の妹が13を過ぎれば娶る事になっていた」 「そうか」 その時はそれだけで終わった。 獅子が自分に何を求めているのかは見当もつかない。常に一定の距離感を保ち、何かの問答をするだけの関係。 少年王の意識は徐々に変わり始めていた。 嫌悪は拭いきれなかったが、この獅子はさほど恐ろしい者ではないのかもしれないと。警戒心は薄まり、少年王の気は緩みかけていた。 それがいけなかったのだ。 ぱしゃりと水音がする。 空中に浮かぶ白い靄は止まったままで、指で触れても消えることは無い。奇妙な光景にも慣れてしまった少年王は深い溜息をついた。 日が昇り、沈み、また昇る。都の外の時間は流れているというのに、己は止まった時の中に囚われたままだ。 湯殿の浴槽のへりに両腕を付き頭を乗せる。 このまま死ぬまで過ごすのだろうか。 天井から吊り下げられたランプに目を向ける。少年王は美しい色硝子の中に閉じ込められた炎に自分を重ね合わせた。 その時、視線を感じ少年王はばっと振り返った。 「…獅子…?」 一体いつから居たのだろうか。ちょうど少年王のいる場所から浴槽を挟んで反対の場所。石柱の影にあの獅子が座っていた。 声をかければ獅子は腰をあげた。獅子の四つの瞳はぎらぎらと自分を映しながら、一歩また一歩と近付いてくる。 少年王はえも言われぬ恐怖を感じた。 獅子の雰囲気は今までとは違うもので、逃げなければ危険なような気さえした。 「何だ、どうした…」 とうとう獅子の前足がざぶりと音を立てて湯の中へと入ってきた。少年王は肩を震わせて浴槽のへりに縋りついた。 獅子はまっすぐ少年王の元にまで来ると、彼を見下ろしながら口を開いた。 「汝、妻はおらぬと言ったな」 「…あ、ああ…」 聞き慣れた唸り声が反響し耳に届く。少年王が肯定すると獅子は続けた。 「ならば」 獅子は彼の体を前足で素早く押さえ込んだ。 「その清き身、我が貰うぞ」 その言葉を理解する前に、固く張ったものが肌に押し付けられる。少年王は全身から血の気を引かせた。
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